窓の外の景色が滑るように移動している。いや、実際移動しているのはバスに乗っている僕であって外の景色は動いてなどいないのだけれど、こうやってぼうっと窓を眺めていると動いているのは僕なんかじゃなくて、外の世界なんじゃないのかと錯覚してしまう。そう錯覚してしまうと僕の脳みそはそのままとんでもないところまで勘違いを始めてしまって、まるで世界がめまぐるしく回っている中、僕一人がその波に取り残されたように思えてしまう。このポンコツめ。世界が人を置き去りにするか。世界にそんな意識があるはずもない。だからこれは一種の被害妄想なのだろう。吊革に爪を突き立てればぱきりと小さな音をさせて伸びすぎの爪が折れた。
 それを目の前に持ってきて、血がにじむそれをぼんやりと見る。血。赤。おそ松兄さんの色。それをべろりと舐める。メーデーメーデー聞こえてますかおそ松兄さん。僕は今から死ににゆきます。原因は失恋。携帯小説を読み漁る女子中高生の方がちゃんとした理由を並びたてられるほどどうしようもなくくだらない理由で僕は死にます。
 不覚だった。何もかもが不幸だった。全部のめぐりあわせが悪かった。昨日、クソ松に自慰をしているところを見られた。まあそれまではよしとしよう、男兄弟が六人もそろえば三百六十五日誰かしらがイカ臭くなっている。それまではいい。自慰をしていたのはいい。それを見られたのも、まあおそ松兄さんじゃなかったからまだよしとしよう(あの人に見られたら一生ネタにされる)。いや、でもこの場合、まだおそ松兄さんの方がよかったに違いない。一生死ぬまでシコ松と言われてネタにされるほうが絶対よかった。だって僕はその時、クソ松のパーカーに顔を埋めて後ろをいじりながら自慰をしていたんだから。どうしてあの時の僕は警戒態勢を怠っていたのだろう。クソ松の服を着た時もそのせいで痛い目を見たというのに、僕の脳みそは本当にどうしようもないほどにポンコツであるらしい。死にさらせ。ということで、今から僕は死ににゆきます。海に身を投げ出して三途の川へと遊泳しに行きます。止めないでください、っていっても誰にも告げていないのだから止める人などいるはずもないのだけれど。だとしたら誰に対しての言葉だというのだろう、止めないでくださいというのは。自分で浮かべた言葉ながらその真意が分からなくて、脳漿の海でたぷたぷと水遊びをするその言葉をぼんやりと眺めた。
 クソ松は怒らなかった。気持ち悪がらなかった。誰かに実の弟がとんでもない変態だと吹聴することもなかった。いつものように食卓で醤油の受け渡しをし、同じ布団で寝た。我が兄ながらとんでもねー根性だ。普通、自分をオカズにオナニーしている人間の隣でなんて眠れないだろうに、あのクソ次男はいびきをかきながら爆睡していた。僕は一睡もできなかった。普通逆じゃないのか。僕と同じような体験をした人に出くわしたことがないから分からないけど、多分普通は逆だ。だというのにクソ松は何事もなかったかのように日々を回そうとしている。
 クソ松はただ一言、眉を下げてこう言っただけだった。下半身丸出しで青いパーカーに顔を埋めはあはあぜえぜえと喘いでいた僕に対して、そう言っただけだった。すまないって。何がすまないなんだろう。自慰行為を見てしまって? 僕がひた隠しにしていた感情を垣間見てしまって? 今となってはその言葉の真意を確かめるすべはない。だって僕はあの家から飛び出して、こうしてバスや電車を乗り継ぎながら海に向かっているのだから。
 隣がカラッポであることに気付いたあの馬鹿次男はいったい今何を思っているのだろう。珍しく早起きをして猫に餌をやりにいった、と思っていてくれればいいなと思った。いや、きっとあいつの頭は名前の通りすっからかんだからそう勘違いしてくれていることだろう。間違っても昨日の出来事のせいで僕が心を乱されこうして死ににゆこうとしているだなんて思ってもいないだろう。そういう男だ、松野カラ松という男は。僕の、恋愛相手は。
 カラ松を好きだと自覚した時、他の人を好きになればよかったと心底思った。自分が同性愛者だとしても、同じ卵からなったおんなじ顔を持った男に恋をする変態だとしても、他の奴を好きになればよかったと思った。おそ松兄さんならばきっと僕のこのどうしようもなく汚い感情をそのまま受け止めてくれることだろう。チョロ松兄さんならば眉を潜めてそれは間違いだと訂正してくれるだろう。十四松ならば笑顔で僕のこの汚い感情を磨いて綺麗にしてくれたことだろう。トド松は分からん。ドライモンスターの動向は読めないけれど、カラ松を好きになるよりはきっと楽だった。トド松はきっと笑顔で否定してくれる。拒絶してくれる。クソ松は受容も拒絶も否定もしてくれない。宙ぶらりんになった感情はさながら首つり死体だ。ぶらぶら、ぶらぶら、不格好な空中ブランコを強制された自分の恋心に静かに黙祷する。そしてそんな風になってもカラ松への恋慕をなかったことにできない自分に絶望する。
 あいつはすまないとだけ言った。すまないとだけ言って、去って行ってしまった。下半身と馬鹿を丸出しにした僕は、もう他のものまで露出してしまいそうになっていた。立ち去る手を掴んでこの想いを吐き出しそうになっていた。あの逞しい身体を押し倒してことに及ぼうとも思った。でも臆病で小心者の僕にそんなことができるわけもなくて、僕はただ出て行くあいつの背中を見送ることしかできなかった。そして何事もなかったかのように日常を回し始めるあいつに心底失望して、失望する自分にまた絶望した。僕はいったい、あいつに何を望んでいたというのだろう。俺もお前のことが好きだと言ってもらいたかった? 気持ち悪いと睥睨してもらいたかった? お前の気持ちには答えられないとちゃんと振ってもらいたかった? よく分からない。自分のことなのに。いや、自分のことだからこそ分からないのか? 僕は自分のことをちっとも理解できずにいた。理解できぬまま、海の藻屑になろうとしている。完全なる逃げだ。僕は白旗を誰にともなく上げて逃げだした。何もかもを放りだして逃亡した。
 バスが停留所を通り抜けて行くたびにどんどん人が減って行く。とうとう乗客が僕一人になってしまったから、椅子にでも座ろうかと思ってやめた。僕はぼんやりと突っ立ったまま、吊革にもたれかかった。
 そう、そうだ、僕がカラ松を好きになったのは、バスの中でのことだった。まだ中学生になってもいない時だったように思う。詳しい背景は全く覚えていないけれど、バスの中であったことだけは僕の脳裏にきちんと隠し通されていた。ショタコン変態野郎に、僕はその時痴漢行為を受けていたのだ。当時のまだあどけない僕は何が起こっているか全く分からなくて、どうしたらいいかも分からなくて、涙目になりながら自分の性器を弄り回す大人の男の手に翻弄されていた。助けてと思ったかもしれない。なんで僕なんだと世の理不尽さを呪ったかもしれない。でもそれを全て帳消しにしたのは、隣で僕と同じようにバスに乗っていた松野カラ松だった。僕の二つ上の兄だった。「人の弟に何してんだ」そんなドスのきいた、とても子供が出すものだとは思えない声音で、カラ松は僕に痴漢行為を行っていた男の手を掴んだ。ぎりぎりと、骨が折れてしまうのではといらぬ心配をしてしまうほどの握力で腕を潰されそうになった男は、慌ててバスを降りて走り去っていった。カラ松は僕の背中を何度も撫でて、怖かったな、でももう大丈夫だぞと僕に言った。僕はその声に、カラ松に安心してその胸に縋りついて泣いた。その時から、僕はカラ松に恋をした。二つ上の兄に恋をした。
 僕は僕だからカラ松は助けてくれたんだと思った。僕だから、松野一松という、自分の弟である存在だから僕を助けてくれたんだと思った。でも違った。また別の日、カラ松は電車で僕と同じように痴漢行為をされていた女の人を助けていた。同じように穢らわしい行為を行う手を握りつぶして、その女性を助けていた。その現場に居合わせた僕は、その光景に絶望した。カラ松は僕だから助けたんじゃない。松野一松だから助けたんじゃない。それを理解したとき、僕は失望した。カラ松にとって特別でも何でもない自分に絶望した。その優しさを一身に受ける存在ではない自分に失望し絶望した。思うに、あの頃から僕はずっと失望しっぱなしであるように思う。そして昨日、その絶望ばかりの日常への終止符が一つ、落とされたように思う。打たれたのではなく、目の前に落とされて、それを拾うか拾わないかは貴方次第ですよ、とでもいうように、カラ松は去っていった。僕はそれを迷いなく拾い上げて、そうしてちゃんと終止符を打ちに向かっている。我ながら律儀なもんだ。
 僕が死んだらカラ松は悲しむだろうか。悲しみはするのだろう。どうしてだと慟哭するかもしれない。でもそれは、悲しむ自分に酔っているだけなのだ。松野カラ松という男は、どこまでも自分のことしか考えていないサイコパス野郎だった。あの時僕を助けたのも、女性を救ったのも、そういうヒーローじみた行為を行う自分に酔っていただけだ。そうして昨日僕の元からすまないと一言だけ言って去って行ったのも、理解のある兄を演じるため。格好いい自分に酔うため。
 あいつの前では全てが無駄になってしまう。全て、全て、全て。きっと僕が告白したとしても、それはまるで映画のワンシーンのようなシチュエーションをあいつに与えるだけの結果になってしまっていたのだろう。実の弟に告白され、それを苦心しながら断る自分。そんな風に、カラ松は僕の告白すら演目の一つにしてしまう。分かっていた。だから告白も何もしなかった。だってあいつの前では全ての現象が意味をなさなくなってしまうから。何もかもが、あいつが自分に酔うための材料にされてしまうから。そんなことを、決死の告白をそんな風にされてしまうのは嫌だった。僕はカラ松みたいに自分に酔えない。実の兄に恋をしてしまった可哀想な自分、だなんて、とてもじゃないが思えない。今僕が自分に思っていることは、おんなじ顔をしたドサイコパス野郎に恋した惨めな男であるということだけだった。だから僕はこうして死ににゆこうとしている。惨めなまま死ににゆく。自分に酔うことなんてできない。しようとも思わない。
 バスの運転手のガラガラ声が、終点、終点と短く僕に告げる。俯いていた顔を上げれば、窓の外には日光を反射することもないどんよりとした海が悠然と広がっていた。今日は曇りだった。
 死にゆく場所を海に決めたのは、あいつの色がいっぱいに広がっているからだ。そして、全ての生命の死を全て吸いこんでいく海は、どんな現象も全て演目の一つに分類させてしまうあいつに似ているから。そうだ、あいつは海に似ている。全ての現象を自分の一部に取りこんでしまう様は、カラ松によく似ていた。そんな全ての生も死も吸いこんでいく海に、僕は沈む。遺書は書かなかった。誰かに気付いて欲しいわけでも、誰かに同情して欲しいわけでもなかったから。僕は誰にも知られぬまま海に沈む。死体は上がらなければいいと心底思った。いつまでも帰ってこない僕を、まあそのうち、と皆が思って日々を回すことを切望した。僕が自殺すると知れば、おそ松兄さんは六つが五つに欠けることを阻止するために僕の手を掴むだろう。チョロ松兄さんならば自殺は悪いことだとこんこんと僕に説明し、自殺を食い止めるだろう。十四松はあのぱっかりした笑顔で僕を抱きしめて、人を好きになることは悪いことじゃないよと言ってくれるだろう。トド松は、ドライモンスターなりに僕の自殺を引きとめそうな気がする。あいつの場合、僕が心配だとかそういった理由ではなく、身内から自殺者が出ることの面倒さを鑑みてのことだろうだけれど。
 カラ松はきっと止める。そんなことはよくないと、弟の自殺を止める正しい兄になろうとする。そうやって自分に酔う。もううんざりだった。あいつの演目の一つになるのはもうたくさんだ。僕はそれを受け入れるほど度量の広い人間じゃない。ちゃんと松野カラ松に松野一松を見て欲しい。ちゃんと僕を見て、僕だから、松野一松だからという理由で止めて欲しい。受け止めて欲しい。でもそれは無理なんだ。分かるよ、だって二十年以上もおんなじ家にいたんだもの。分かってる、そんなことは無理だってことは。知っている。分かっている。理解している。だからこそ僕は死ぬ。見つからないようにと祈りながら死んでゆく。カラ松は僕のことを覚えていてくれるだろうか。もしかしたら探しに来てくれるかもしれない。でもそれも、いなくなった弟を探しに行く優しい兄を演じられるからだ。僕じゃなくとも、誰かがいなくなったと聞けばあいつは探しに行く。決して、松野一松だからという理由では探しに来てはくれない。それがどうしようもなく悲しい。
 料金を払ってバスから降りる。鼻腔に入り込んでくる塩水で腐った生物のにおいを感じて、なんとなく感傷に浸る。この一部に自分もなるのかと思っても、心は躍りもしなければ沈みもしなかった。だってこの一部になったところでカラ松の心を一ミリだって動かすことは叶わないんだから。そこで、あああいつの前で焼身自殺でもしてやればよかったと少しだけ後悔した。まあ、僕にそんな度胸があるわけもないんだけど。焼身自殺って一番苦しそうだし。だったら海での溺死の方がよっぽど僕向けだ。
 僕だけを降ろしたバスがエンジン音を立てて離れて行く。数歩歩けば砂浜に到達するバス停で、僕はぼんやりと海を眺めていた。これから死ぬという感覚はあまりない。まだコンビニに赴く時のほうがちゃんと自分の目的を念頭に置いているような気がした。でも死ぬってこういうもんなのかも。世にはびこる何万人もの自殺者に頭を下げて、僕は砂浜に足を踏み入れた。自重で沈む砂浜は歩きにくい。僕の人生みたいだ、と思って自嘲の微笑が零れ落ちた。
 サンダルに波が当たって足の指を濡らした。それに構わず、じゃぶじゃぶと海水をかき分けながら海に身を沈めて行く。海水に絡め取られた足は思うように動いてくれない。水を吸った服が重い。それでも僕は進んだ。
 松野カラ松を好きになったことを後悔している。後悔している、はずだ。だってあいつの前では全ての現象が演目にされてしまうのだから。でも、後悔だけの恋ではなかった。あいつの笑顔が好きだった。あのきらきらとした太陽のような笑みが好きだった。自分に自信を持っているあの背中が好きだった。僕の頭を撫でてくれるあのごつごつとした手が好きだった。好きだった。好きだった。好きだった。僕は松野カラ松の全てが好きだった。好きだったから、特別になりたかった。あいつの特別になることを切望した。でもそれはどうやら叶わないようだった。僕の恋も、特別になりたいという願いも成就しない。
「カラ松兄さん」
 その音を舌の上で転がす。カラ松。カラ松。カラ松兄さん。僕はあなたが好きでした。あなたを愛していました。あなたの特別になりたかった。あなたの恋人になりたかった。でもそれは無理なんだよね、知ってる。知ってた。だから今、僕はここにいる。

「やめなよ」

 腰まで海水に浸かっていた身体を反転させる。目に入るのは青ではない。無表情で、その上で不機嫌さを隠そうともしない顔と向き合った。ばちり、と視線と視線がかち合う。
「やめなよ、みっともない」
 知ってる。僕はみっともない。惨めで惨めで見ていられないほどの存在。だからそれを消そうと思ったんだ。なのに、なのになんでお前が止めるんだよ。
 微動だにしない僕に、溜息を吐いてそいつは持っていたバッグを砂浜に放り投げて海に足を踏み入れた。そして僕の手を取って、地上へと帰還させる。
「ごめんね」
 あの時の、昨日のカラ松と同じ言葉を、そいつは言った。でもカラ松みたいな申し訳なさは全く塗り手繰られていない声。ただただ、形式とばかりに、いや、この場合皮肉か。それを塗り手繰った声音で、トド松は僕に謝った。「カラ松兄さんじゃなくて、ごめんね」
 砂浜に再びサンダルを沈ませることとなった僕は俯いて、そんな言葉を、トド松の言葉を聞いた。トド松は僕を地上に帰還させてすぐに手を離し、用意していたタオルで身体を拭いてスマフォに手を伸ばした。
「帰ろうよ」
 トド松はそう言って、僕にタオルを放り投げた。それを受け取って、僕って本当にどうしようもねえ人間だなと思った。どうしようもなく惨めで、みっともなくて、クズな人間。それが僕、松野一松。
「カラ松」
 その音をもう一度口の中で転がして、僕は泣いた。タオルに顔を押し付けて、泣いた。トド松は何も言わない。それが嬉しかった。慰めないで。憐れまないで。僕はそんな資格なんて持ち合わせていないとんでもなくどうしようもない人間なんです。だからここに来てくれたのがトド松でよかった。このドライモンスターでよかった。
 咽び泣く僕を、トド松は何も言わずに眺めていた。ただ一言、「今日の晩御飯、ハムカツだって」とだけ言って、僕の手を取って歩き出した。海水でぬれたせいで歪な足跡を残す砂浜を見送りながら、殺されるならカラ松じゃなくてトド松がいいと心底思った。この弟ならば、そんな願いを口にした瞬間、心底軽蔑したような視線で拒絶してくれるのだろうから。
「トド松、僕を殺してよ」
 トド松が振り返る。眉を潜めて、大きく溜息。
「そんな面倒なこと、死んでもごめんだね」
 ほらね。でもそれが心地いい。「ぶっさいくな泣き顔」トド松は一度だけ僕の頭を撫でて、そしてバスが来るまで一言も喋らずに、僕の嗚咽を聞いていた。バスに乗って座席に座り、その肩に頭を預けるとまた一つ、大きな溜息が吐かれたが、トド松はそれだけをして、僕の頭を殴り捨てたりはしなかった。それが嬉しかった。それが心地よかった。もしかしたらトド松なら、僕を特別にしてくれるんじゃないかなあ。そんな夢想をしながら、僕はゆっくり瞼を閉じた。トド松の肩があたたかくて、僕はぽろり、とやんでいたはずの涙をたった一つだけ流して、そして沈黙した。



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スペシャルサンクス、いやセクロス!
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