いつからだったか、まるで自分の人生ではなく他者の人生を歩んでいる感覚が付きまとうようになった。他者って、誰のだよという突っ込みがいたるところから飛んできそうだが、つまるところこれは僕の人生ではないな、と思うことが多々あった。だから僕が親から殴られるのは当たり前で、親から愛とは名ばかりの罵倒を浴びせられるのは当然なのだろうなあと思うのだった。だってこれは僕の人生じゃないから。実の子じゃない気持ち悪い存在がいたらそうなりますよねって感じだ。だから僕は全く彼らを恨んじゃいなかった。むしろごめんなさいといった気持ちでいっぱいだ。本当のあなた方のお子さんは、僕が今代わりに回している人生の本当の持ち主はいったいどこにいってしまったんだろう。それが疑問で疑問で仕方がなかった。
 他人の人生を回しているせいか、僕は時々ふわっと意識が飛びそうになることが多々あった。意識が飛そう、というか、なんというかな、こういう体験をしたことのある人じゃないと分からないと思うんだけど、こう、なんというか、幽体離脱みたいに自分を少し離れたところから見ていることが時々ある。そういうときはまずいまずいと思って、頑張って身体に戻ろうとする。かりそめの、身体に戻ろうとする。その方法は至って簡単。身体に痛みを与えてやればいい。そうすれば、僕はその身体にすんなりと戻ることができるのだ。戻るだなんて、他人の身体を貸していただいているのに申し訳ない言い分だがこう言う他ない。
 痛みを与える方法はだいたいカッターナイフだ。安いし簡単だし死ぬようなこともないし、いいこと尽くめだった。そう、死なないというのが重要なんだ。僕は別にこの身体を死なせてやりたいわけじゃない。数多の苦難を僕に押し付けたこの身体の持ち主に恨みの一つも言ってやりたい気持ちがないわけでもないが、その分おいしいものを食べたり素晴らしい作品に出会えたりさせていただいているのでおあいこといったところだ。
 そうして僕はだくだくと流れる血を眺めながら身体に戻ることができる。痛いことは痛いけど、多分普通の人が感じる痛みより数倍薄れている。それは他の感覚にも言えることだった。僕は感覚というものがとことん鈍い。それはきっと、この身体の本当の持ち主ではないことが助けているのだろう。だから僕の感覚は鈍い。こんな、脂肪がちょっと覗くくらいの切り傷じゃあ痛い痛いと泣き叫べない。きっと切断したら流石に泣きわめくのだろうけれど、そんな機会が今後あるとは思えない。
 この身体の本当の持ち主はどこに行ってしまったというのだろう。僕に全てを投げ出して、どこに逃げてしまったというのだろう。そんなに自分の人生を捨ててしまいたかったのだろうか。そんなにこの人生は悲観に暮れたものだったのだろうか。二代目である僕には分からない話だ。
 煙草に火を付ける。とりあえず今のところ、僕は前代のようにこの人生を他者に譲り渡す気は全くなかった。それなりに楽しい人生を歩ませてもらってますしね、はい。
 鏡に目を向ける。腕から血をだくだくと流した喫煙者がぼうっと立ち竦んでいた。僕だった。僕以外だったらそれこそ発狂している。これでもホラーは苦手なのだ。その鏡に手を合わせ、ついでにその顔にじゅっと煙草を押し付けてみた。

「これはもうお前のもんじゃないよ」

 そう誰にともなく言って、僕は再びしけてしまった煙草に火を付ける。まあるく溶けた鏡から、誰かが僕を恨めしそうに睨んでいる気がした。



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