ぶるぶると震動を伝えるガラケーに布団に埋めていた頭をのっそり出す。隣で寝ている同居人はその音で覚醒することはなかったらしく、相変わらずすやすやと可愛らしい寝息を立てている。昨日も夜遅くまで残業だったもんな、今日は休みだと言っていたし、こんなことで彼の眠りを妨げるのは良心が痛むから昨日の時点で携帯電話をマナーモードにしていた自分に拍手喝采だ。二つ折りのそれをぱかりと開けて着信相手を確認する。こんな時間に僕の携帯に電話をかけてくる好きもの(というか非常識人)は一人しか今のところ思いあたる人物がいない。想像通りの人物の名前を映し出す画面に小さく舌打ちする。
 そろりと同居人を起こさないように布団から這い出て、ベランダに出る。通話に出るついでに煙草に火を付け、紫煙を吸いこむ。同居人はそんな僕の姿を見るたび、困ったように眉を下げながら笑っていた。本当はやめて欲しいんだろう。それは自分が煙草の臭いが苦手だからとかそんな理由ではなく、単純に僕の身体が心配なのだ。それは僕の過信でも自惚れでもなんでもなく、本当に彼は僕みたいなゴミクズ人間を大切にしてくれているから、ありとあらゆる癌にかかる確率をうなぎ上りにさせる煙をよく思っていない。そんな気持ちに気付きつつもそれを手放さない僕は相当不孝者だよなあと思った。僕との生活費はほとんど彼が払ってくれている。僕だってバイトとはいえ働いているのだから少しくらい出すと言ったのだが、彼は笑って家事をして家にいてくれればいいと言っていた。本当に頭が上がらない子だ。僕より三つも年下なのに。
 彼はゲイだが、こうして男と付き合うのは僕が初めてらしい。ちょっと同情する。だからか分からないけれど、彼は僕に少々過保護な気がある。家事を任されているのは僕だからつまり料理をするのも僕なのだけれど、包丁で指なんて切った日には指を切断でもした勢いで心配し、包帯やら何やらを持ってくるからそれを宥めるのがなんともおかしくて少し笑ってしまった。大丈夫、僕はこのくらいじゃ死なないし、お前から離れて行かないよ。よしよしと頭を撫でながら、僕は弟たちのことをほんの少しだけ夢想した。成長してからはあまりなくなったが、弱虫な十四松の頭を撫でたことも、怖がりなトド松の頭を撫でてやったことも小さい頃はよくあった。今は、滅多にない。というかない。二人とも、もう成長してしまったのだ。立派な、大人に。
 通話ボタンを押し、押さえた声で「もしもし」と電話に出る。パジャマで出てきたことを少し後悔し始めていた。早朝の空気はいやに冷たい。びゅうびゅうと僕の肌を打ち、凍えさせようと躍起になる空気にぶるりと肩を震わせ、紫煙を吐き出す。

「もっしもーしいっちゃん、おっひさー」

 どこの女子高生の科白だ、それは。まだトド松の方が男子力がありそうな受け答えにげんなりする。そもそもおっひさーも何も三カ月前にもこうして電話をしたというに。いや、三か月も間をとればそれは久しぶりに分類されるのか? 友達がいないからよく分からない(自分で言った科白ながら凹んだ)。ベランダに設置してある灰皿に灰を落としながら「どうしたのおそ松兄さん」とぶっきらぼうに返す。どうしたの、なんて。あまりに白々しい科白に笑ってしまった。おそ松兄さんがこうして自分にコンタクトを取りにきた理由なんて一つしかない。だというのにそれを訊ねるなんて僕もそうとう馬鹿だと思った。それに付き合ってあげることも、馬鹿を通り越して愚かだとしかいいようがない。それでも僕たちはこんな馬鹿馬鹿しくて愚かしい行為をやめられない。
「一松、今から外出れる?」
 そらきた。予想通りの科白に紫煙を吐き出す。これが耳すまだったら、僕がベランダに出る前に窓に小石が投げられていたのだろうなあと思った。視線を下に落とす。犬の散歩につきあってやってるおじいさんと目が合ったので頭を下げておいた。
「出れるけど」
「じゃあいつもの公園集合で」
 それだけ言って、おそ松兄さんは一方的に電話を切った。いつものことだ。僕とおそ松兄さんの通話時間は煙草一本分にも及ばない、そんな短いものだった。あのクソ松と電話するときだって僕はもっと時間を割いてやっているというのに、長兄はそれを許さない。一方的にかけてきて、一方的に言って、一方的に切る。いつまでたっても自分勝手な人だ。あの箱庭が壊されてだいぶ時間が経っているというのに、おそ松兄さんはまだ王様気分が抜けない。それは新たな箱庭を手に入れたからなのかもしれないけれど、その完成度は前作に比べて目も当てられないものなのだろう。僕はその新しい箱庭の方々とは滅多なことでは顔を合わせないから、あくまで推測でしかないけど、こうして定期的におそ松兄さんが僕を呼び出すところを見ると、まあ、お察しといったところだ。
 僕は煙草を吸い終えると部屋に戻り、顔を洗ってパジャマからジャージに着替えた。色は黒。もう紫色のものなんて僕の手元に全くない。他の皆もおんなじようなもんじゃないだろうか。まだ自分の色を持ち続けているのは、あの長兄だけなのだろう。
 コピー用紙を一枚引き抜き、そこに乱暴な字で猫に会ってくるとだけ書いてテーブルに置いておく。二人して寝たのはほぼ早朝、つまり今から二時間ほど前であるし、彼が起きるのはお昼が過ぎた頃合いに違いない。だとしたらこの置手紙が仕事をまっとうする可能性は限りなくゼロなのだけれど、起きた時僕がいないことに気付いた彼を想像して良心が痛んだので、まあ念には念を、といった感じだ。一人っ子だから甘やかされて育ったのだろう、彼は僕に甘えただった。それが弟みたいで可愛いから、別にいいのだけれど。誰だって自分に無条件に甘えてくる存在には眦が下がるといったもんだ。
 サンダルを足に引っ掛けて玄関に出る。オートロックであるここのマンションがいったい幾らなのか、怖くて僕は訊けなかった。僕と付き合う前から彼はここに住んでいたし、もしかしたらとんでもないお金持ちなのかもしれない。男を一人養っているのだから、そりゃあ金持ちじゃなきゃできない道楽ではあるのだけれど。
 マンションをあとにし、禁煙区間であることを無視して煙草に火を灯す。こんな早朝だ、目くじらを立てる人間はいないだろう。実際早朝のひんやりした空気の中を歩いているのは僕一人だけだった。

 皆が実家を追い出されたのは五年前のことだ。各々に五十万ずつ(とんでもない大金だ。どこに隠し持ってたんだろう、あの人たちは。さすがニートを六人も養っていただけはある)渡して、これを三倍にするまで帰ってくるなと言って僕たちを放りだした。その時は六人そろって顔を突き合わせ、これからのことを少しだけ話し合ったが、結局答えに行きつくはずもなくまた一人、また一人とその集会から去っていった。最後に残ったのは、僕とおそ松兄さんだった。それは、何年か前、チョロ松兄さんの就職を口火に寂しくなっていった家を思わせて、なんとなく口の中が気持ち悪くねばついた。
 あの時の敗因はひとりひとり家を出てしまったことだ。だからおそ松兄さんはあんなことになった。結局色々あって野球だ宇宙だ選抜だといって皆帰ってきたが、それだって世間一般的にいえば決していいことではない。だから今回の両親の行い、つまり六人全員をいっぺんに家から追い出すというのは、なかなか得策だと言えた。ちらりとおそ松兄さんの顔を見るも、あの時のような無表情が塗り手繰られている様子はなくてほっと息を吐いた。あんな地獄絵図、一度体験すれば十分だ。
 おそ松兄さんは「どうっすかなー」と言ってぽりぽりと頬を掻いていた。それは僕にも言えることだった。手渡された厚く重い封筒に視線を落とす。バイトをしたことがないわけではないから口座こそ持っているけれど、これからどうしたらいいのか、僕にだって分からなかった。だいたい、長男にも分からないことが僕みたいなゴミクズに分かるはずがなかった。どうして皆、あんなにそさくさと自分の道を選んで歩いて行けるのだろう。もうとっくに見えなくなってしまった四つの背中を夢想して、少し感傷に浸る。
 おそ松兄さんはしばらくそうして考えたあと、「ま、二人で頑張ろうぜ一松ぅ」と言って僕の肩を抱いた。あ、やっぱりそうなるんだ。そんなことを考えながら、「頼りにしてまっせ長男」と言って、僕はヒヒッと笑った。結局僕たちが一緒に過ごしたのなんて三カ月にもならない短い期間だったけれど、あの頃の関係性は異常だった。いや、実家にいたときもいたときで相当異常だったのだけれど、あの空間はそれをはるかに凌駕していた。だいたい国民が一人しかいない国の王様なんてたかが知れている。僕が持ってくるなけなしの給料でパチンコや競馬に行っていたおそ松兄さんは、ある日突然彼女ができたと言って出て行った。置いてかれたほうの僕はといえば、老いて枯れるわけもなく、あっそう、とその言葉をすんなり受け止めてインスタントの味噌汁を啜っていた。もともと僕とおそ松兄さんとの間に恋愛感情だとかそういった生ぬるい、甘ったるいものは存在していなかった。よくて性欲処理相手、つまりセフレといったところだろう。兄弟だからセックスブラザーと言った方が的を射ているのかもしれないけれど。
 とにかく僕とおそ松兄さんの同居は三カ月もしないうちに解消され、僕もその後今の同居人である彼とゲイバーで会い今に至る。僕もおそ松兄さんもとんだクズ野郎である。知ってたけど。

 公園に入れば、喫煙禁止と書かれた立て札が隣にあるベンチでおそ松兄さんは煙草を吸っていた。相変わらず、あの赤いパーカーを着て。全身黒ずくめの僕とはえらい違いだ。軽く手を挙げて合図すれば、くいくい、と手招きされる。それにふざけてにゃあ、と泣きながら近づけば、おそ松兄さんはにんまりと、悪魔が笑ったらこんな顔なんだろうなあという顔で笑った。もっともおそ松兄さんは悪魔的ではあるが、それは飽くまで(駄洒落じゃない)的なだけであって、兄さんは正真正銘の人間だった。弱くて、強くて、脆い、人間だった。
 ベンチの前まで辿り着くと、おそ松兄さんは手を伸ばして僕の頭をがしりと掴んだ。そのまま自分に引き寄せ、キスをする。赤マルの煙草くさい味と、僕の外国製のわけのわからない煙草の味が混ざって何とも言えない風味が口腔を縦横する。さんざん僕の歯を舐めまわしてから、おそ松兄さんは僕を離した。心底周りに人がいなくてよかったと思った。
「じゃ、行きますか」
 おそ松兄さんはそう言って、まだ火が灯っている煙草を地面に放り捨てた。花壇やゴミ箱に捨てなかっただけ(そんなことしたら最悪放火魔としてお縄になる)マシだと褒めるべきなのか、せめて火は消せよと眉を潜めるべきか悩みどころだ。まだ半分ほど残っていた僕の煙草は、未だに僕の指にはさまれて紫煙をゆらゆらと揺らめかせている。
 どこに行くの、なんてそんな野暮なことは訊かない。僕がおそ松兄さんに呼び出されて行くようなところは、ファミレスでもゲーセンでもカラオケでも何でもない、あのどぎつい、性のにおいを充満させたラブホテルに他ならなかった。一度この公園の公衆トイレでことを済ませたこともあったけれど、お互いひどい悪臭に当てられて二度とごめんだと中指を立てていた。公衆トイレとしちゃあそういう意味合いで設置されてるわけじゃねーよと逆に唾を吐きかけたかったことだろう。
 おそ松兄さんの少し後ろを歩きながら、僕たちは公園を出た。振り返ってみると、あの時一度だけ使用された公衆トイレが僕たちを嘲るように悠然と立ち竦んでいる。とんだ被害妄想だ。公衆トイレは公衆トイレなだけであって、他の何物でもないというのに。
 おそ松兄さんも一緒。松野おそ松という、一人の人間でしかない。ビッグなカリスマレジェンドでも人間国宝でも何でもない、ただの人間。だからこうして、僕を呼ぶ。だとしたら僕はいったい何だというのだろう。人間であることには変わりないのだけれど、他に附属すべきプロフィールが思いあたらなくて、ひとり紫煙を吐き出す。
 まあ、いいか、そんなことは。
 今からやることに、そんな履歴書に書くような経歴は必要ない。
 必要なのは、僕と、おそ松兄さんの肉体だけであるのだから。


 入った部屋はさすが最安値というだけあってどぎついピンク色やら紫色やらで装飾された趣味の悪いものだった。性のにおいを掻き消すためにたかれた香水じみた匂いももはや悪臭になり果てていて、思わず顔をしかめる。おそ松兄さんは「すっげー部屋だな」とけらけら笑っていた。僕は燃えやすそうな部屋だなとしか思わなかった。色んなところにフリルやら何やらがついたこの部屋を喜ぶのなんて、何かを勘違いしたメンヘル少女だけだろう。
 とりあえずシャワー、と浴場に向かおうとした僕の首根っこを、おそ松兄さんがわし掴む。そのまま遠心力を利用してベッドに放られた。ごてごてと装飾された布団は僕の痛覚を刺激するようなことはしなかったが、突然のことにくわえていた煙草が床に放られた。おそ松兄さんはそれを小火騒ぎを起こす前に火を消し、灰皿に放る。その際にきらり、と何かが光った気がした。幻覚だといいなあとぼんやり思った。ま、幻覚なんかじゃないんですけどね。
 情緒も何もなく、おそ松兄さんが僕の唇に噛みつく。比喩じゃなく、本当に噛みつかれた。がじがじと僕の口唇を食み、その際に出た血の味に吐き気を催す。どんどんとおそ松兄さんの胸を叩いて抗議するも、相手はどこ吹く風といった風に僕の肉の味を堪能している。こいつ、いつか殺す。まるでクソ松に思うようなことを想起して、僕は諦めて叩いていた手をベッドに放った。意外と触り心地のいい感触に指を這わせる。女の身体ってこんな感じなのかな。
 おそ松兄さんはゆうに五分ほど僕の肉の味を堪能してから、真っ赤になった口を離した。それ以上に真っ赤になった自分の口周りに舌を這わせるとぴりりとした痛みが走った。これ、どうやって誤魔化そうかな。いくらなんでも猫に引っ掻かれたじゃあ説明がつかない。僕の惨状を見て顔を青くさせる彼を想像して、少しげんなりした。大事にされることは、嬉しい。でもそれに慣れていない僕は、いざそうされるとどう返したらいいか分からなくなるのだ。だから彼の隣は心地いいけど、時々息苦しくもあった。
 でも、人間と人間が繋がりを持つというのは、そういうものなのだろう。楽しいことや嬉しいことだけじゃない、苦しいことや辛いことが絶対ある。僕はそれが嫌で人との繋がりを断っていた。だって僕には皆がいるから。皆がいると、思っていたから。
 がぶりと今度は首筋に噛みつかれたから「ちょっと」と声に出して抗議する。そんな見える場所に分かりやすい情事のあとを残さないで欲しい。そう思ってのことだったけれど、おそ松兄さんはやっぱり僕の言葉なんて聞こえていませんとばかりに首筋に歯を立てた。走る痛みと、ほとばしる血。唇を噛もうとして、それすらもはやぼろぼろであったことを思い出してやめた。世知辛い世の中である。
 糸を引きながら、おそ松兄さんが僕の首から口を離す。ぷつんと切れる糸が、なんとなく悲しかった。何が悲しかったのかは、僕にも、きっとおそ松兄さんにも分からない。
 おそ松兄さんはベッドの横に備えつけられていたローションを手に取り、それを掌の上に垂らす。その感触を楽しむように弄びながら「彼氏とはどーよ」と僕の現状を聞いてきた。本当に、話すことがないし暇だから言葉にした、みたいなそんなぞんざいな物言いだった。だから僕も「フツー」と適当に返しておいた。実際普通だった。喧嘩もしない。浮気もしない。彼は僕みたいなゴミクズには勿体ないほどいい男だった。ほんと、僕なんか捨てて違う男を探せばいいのに。それでも彼は僕を手放さない。僕を大事に大事にして、優しく接してくれる。それが嬉しくて、同時にどうしようもない罪悪感を植えつける。真っ当に生きてる人間はそれだけで人の心を傷つけるとか何とか、そういった科白を深夜アニメで拝見したことがあったが、実際その通りだった。彼は、いるだけで僕を傷つける。それを嫌とは、まったく思わないんだけどね。

 十分ぬるくなったのか、おそ松兄さんはそれを指に絡めて僕の後孔に塗り付けた。ぞわりとした感触に、喉が引きつる。何度かそうやって表面を擦ってから、ゆっくり僕の中におそ松兄さんの指が侵入してきた。昨日も彼とまぐあったからいくらか柔らかかったのだろう、おそ松兄さんは「お盛んだねー」と言って笑った。
 遠慮は無用(というかそもそも僕とおそ松兄さんのセックスの間に遠慮だとか気遣いとかがあったことなんて一度もないのだけれど)とでも思ったのだろう。大して時間をおかずに、おそ松兄さんは指を増やした。増える圧迫感と、的確に前立腺を刺激する指に腰が震える。触ってもいないのに勃ち上がる性器は、僕がそれだけ場数を踏んできたことを物語っていた。
「ほんっと、一松はえっち大好きでちゅねー」
 そんなことを言いながら、おそ松兄さんが舌舐めずりする。自分のズボンの前をくつろげ、勃起した性器を何度か擦ってから、おそ松兄さんはそれにゴムを被せようとした。それに、僕は声をかける。「ゴム、つけないで」
 おそ松兄さんは僕の科白にぽかんと呆気に取られたように目をしばたかせた。それが少し恥ずかしくなってそっぽを向けば、にやにやとした厭らしい笑みを浮かべながらおそ松兄さんが僕の額に唇を落とす。
「今日のお前は、甘えただね」
 そう言っておそ松兄さんは、何の隔たりもない性器を僕の中に埋め込んだ。腰が進むたびに逃げそうになる身体を必死に引きとめ、おそ松兄さんの背中に手を回す。爪を立てたとしても、僕の爪は深爪一歩手前まで切られているから、おそ松兄さんの背中に何を残すわけもない。僕は握力も低いから、痣だって残すことは叶わない。
 でも、それでいいと思った。
 僕とおそ松兄さんの間に、そんな甘い情事の名残は、なくていい。だってこれは、愛のある性交でも、恋が結ばれた甘酸っぱいセックスでもないんだから。
 これは、ただの傷の舐め合いだ。
 一人じゃ生きていけない可哀想な人間が行う、愚かな行為。

「っはー、お前んなか、さいこー。どんだけえっちしてんの」

 人をアバズレみたいに言わないで欲しい。僕がセックスする相手はおそ松兄さんと彼だけだった。いや、二人いる時点でアバズレなのか? そんなとりとめもないくだらない思考は、始まった律動によってぐちゃぐちゃに流されていった。
 お互い相手のどこが気持ちいいか、どこを刺激すればいい反応が返ってくるかなんて手に取るように分かる。伊達に何年間もセックスしていない。もしかしたら、そろそろ十年に差し掛かってしまうのかもしれない。そんなことを考えて、僕は腹を痛めて産んでくれた松代と、僕の帰りを待っているであろう彼に向って小さく頭を下げた。そこにどんな意味が込められているのかは、僕にも分からなかった。ただ、罪悪ではないことだけは確かだった。
 おそ松兄さんは普段の自分勝手さとは打って変わって、セックスの時は相手のことをちゃんと見て、気持ちよがっているか、痛がっているかを観察して腰を振る。もっとも僕の場合、痛みすら快楽に置き換えてしまうのでその観察は無意味なものに成り下がってしまうのだろうけれど、それでもちゃんと、おそ松兄さんは僕を見ていた。僕を見て、小さく笑って、触れるだけのキスを僕に落とした。
「な、一松」
 その声音は、初めてセックスをした時のことを思い出させた。クーラーも何も付いていない、ただ座っているだけで汗が流れ落ちるような真夏の猛暑の中、おそ松兄さんはそんな声で、僕を呼んだ。なあ、一松。
「お前は、可愛いなあ」
 そう言って、おそ松兄さんは僕の中に精液をぶちまけた。僕もそれにつられて吐精する。はあはあ、ぜえぜえ。そんな獣じみた荒い呼吸音をさせながら、おそ松兄さんは僕の頭を撫でた。きらり、とその指が蛍光灯の光を反射して光る。
 おそ松兄さんは僕によく可愛いという。心配だという。それは彼と一緒だった。でも彼と違うところは、僕に一度として愛を囁かないところだった。好きだ、大好きだ、愛してる。その一つだって、僕はおそ松兄さんの口から聞いたことがなかった。実際思ってもいないことだから口にしないだけだろう。リップサービスってものを知らないのかこの男は。
 でも、それは僕も同じだった。僕は彼に好きだ、愛してるだなんて言っても、おそ松兄さんに向けてそんな言葉を吐いたことは一度もなかった。ただただお互い、体温を分け合うためにこうして趣味の悪いラブホテルでセックスする。どうしようもねえなあと思う。でも、しょうがない。それが人間だから。それが、僕たちだから。
 ぼすんと僕の隣に身体を沈めたおそ松兄さんと目が合って、なんとなしにお互い笑う。ふふ、くく。そんな風に笑って、僕はおそ松兄さんの髪を掻き上げた。そのまま頬に手を置き、その輪郭をなぞるように掌を滑らせる。おそ松兄さんはそんな僕を目を細めながら眺めて、「一松は可愛いなあ」ともう一度言った。
「ね、おそ松兄さん」
 僕たちの間に愛はない。あったとしてもそれは、家族愛だとか、兄弟愛だとか、そういったものだ。そういったものの延長線上として、僕たちはセックスをしていた。お互いの体温を貪った。
 でも、それも今日で終わりだろう。未だに胎に残るおそ松兄さんの精液を味わいながら、僕は笑った。

「結婚、おめでとう」

 おそ松兄さんはやっぱり笑ったまま、ありがとう、と僕の頭を優しく撫でた。その指に嵌められた銀色の指輪が、きらりと光って、そしてそのまま沈黙していった。


 明日はおそ松兄さんの結婚式だ。



title by is
×