猫の魂は九つあるっていうのを聞いたことがあるか? いやいや何も、僕だってお前を怖がらせるためにこんなオカルトじみた話をしているわけじゃないさ。僕はお前と、お前の兄弟を思ってこんな話をするんだよ。酔ってるのか、だって? はは、それはお前にも、僕にだって言えることだろう。こんなお洒落なバーに日本酒なんて、悪酔いをするようなものがあったのは僕にとっては僥倖で、お前にとっては不運だとしかいいようがないね……はは、だからこれから話すことを、お前が酔っ払いの戯言と片付けるか、ホントウだと受けとめるかは、お前の自由だよ。僕は何も、お前にこの話を信じてもらいたくて話すわけではないのだからね……いうなれば、王様の耳は驢馬の耳といったところか。確かに僕はお前と、お前たち兄弟のことが心配で話すということも嘘ではないのだけれど、好奇心というか、これを知ってしまった以上誰かに話したくて話したくて仕方がないと言う、あの床屋と変わらない心境であると言うのも、また嘘ではないんだよ。だからお前が、冗談だと片付けようと真実だと慄こうと、どちらでも構わないのさ。……君らしいって? 褒め言葉として受け取っておくよ、ああマスター、ちょっとばかし強いカクテルを二つ、くれないか。
 さて、じゃあ話そうか。安心してよ、今回のお代は僕が払うよ。金ないんだろう。それに、僕がこのことを話したいがためにお前をこうして呼んだんだ、僕が払うのが定石というものだろう。……ますます何を話されるのか分からない、だって? だから言ったろう、猫の話だよ。お前の、お前たち兄弟の猫の話さ。
 じゃあまず、僕がどういった人間であるか話そうか。……そんなことは知っている、だって? 違う違う、そんなお前じゃなくとも知っているような、そんな履歴書に書けるような外向けの話じゃなくて、僕の家族だって知らないような、そんな不快で深い部分の話を、今から僕はするんだよ。ああ、カクテルが来たね。丁度いい。さあそれでも飲みながら、僕のことを聞いてもらおうか。はは、そんな怖がるなよ。
 僕は幽霊が見える人間なんだ。ああ、僕を軽蔑したね。いや軽蔑ではなく、同情か。こんな年になってまで何をそんな夢物語を、とでも言いたそうな目だよ、あ、実際言ったね。さすがとしか言いようがない。しかしこれを話したのはお前が初めてなんだ、お前を友達と信頼して、そしてそれに足る人間だと確信して、僕はこれから僕の話をするんだよ。そしてお前たちの猫の話をするんだ、不真面目でもいいからとりあえず聞いて欲しいな。というか聞け。金払ってやるんだから。

 さて話がそれたね、え? そんなにそれていないだって? まあいいか、とりあえず、僕は幽霊だとかそういったものが見えるんだ。それに気付いたのは幼稚園だか保育園だかに入る前だったかな。今になって親に聞いてみると、僕は赤ん坊の頃から何もないところをジッと見つめたり、そこに手を振ったり笑いかけたりするようだったんだ。まあ赤ん坊には珍しくもないことだからね、特に親も何も思わなかったようだけれど……。僕が物心つく頃、つまりは二、三歳の時だね、親が何と話してるのと聞いて来たのさ。僕はその、周りの人から見れば何もないところを指差して、髪の長いお姉ちゃんと言ってあげた。その時の両親の顔は、今でも思い出せるよ。これでも記憶力はいい方でね……といっても、そのくらいの歳の頃のことはそれしか覚えていないのだけれど。両親は気味悪がるような顔を実の息子である僕に向けたあと、まあこのくらいの年頃にはよくあることだからと苦笑したよ。しかし僕は両親のそんな顔を見て、気付いたのさ。ああそうか、この人たちは僕以外には見ることができないのかって。敏かったんだよ、その頃からね、ふふ。
 それから僕は人がいる時はその人達には話しかけないようにしたよ。その、僕が見た髪の長い女というのはどうやら父親の不倫相手だったらしくてね、子ができたと言った途端に捨てられたことを苦に自殺したようだった。別に僕はそれを聞いても、父を軽蔑も忌避もしなかったよ。そんな父の穢らわしい部分を知ったのは五歳の時だったけれど、そう考えると彼女の思いというのは根深いものだったんだろうね。今でこそ分かるよ。三、四年もの間、そこに居続けるというのは幽霊にとってはとてつもない労力を伴うということを、僕は知ったからね。
 しかし悪霊になって悪さをするでもなく、ただそこにい続けるだけの彼女を、僕は不思議に思った。本当に恨んでいるなら、憎く思っているなら呪い殺すなりなんなりすればいいのにとすら思った。でも違ったんだ、彼女は怨念からそうして幽霊になってまで父のところに来たんじゃない、愛しているから、傍にいたいからこそそうして僕の家に居座ったということを、僕は小学生に上がる頃合いで悟ったよ。いくらなんでも気付くさ、他の女との間にできた僕を愛おしそうに見る女の目を見ていればね。
 彼女は死んでも父を愛し続けた。自分を捨てた男を愛し続けた。他の女と、そしてその間にできた子供と幸せそうに暮らしている父を見て、幸せそうに女は笑った。そうしていつの日か消えていった。成仏したのか、それともどこか別のところに行ったのか、僕は分からなかったけれど、僕が小学二年生になる頃には消えていたよ。……少し寂しかったかな、確かに彼女は幽霊であり父の不倫相手だったけれど、かなりの美人だったし、僕のいい話相手だったからね。その際に、色々なことを教えてもらったよ。その教えがあったからこそ、僕はこうして普通の人の振りをして今の歳まで生きてこれたのさ。
 彼女は僕に、彼女のような存在が見えるような振る舞いをしてはいけないと言った。それは幼心にもう分かっていたから、素直に頷いたよ。そしてそんな存在とこうして話すことも、その存在にも見えるような振る舞いをしてはいけないと強く僕に言った。どうしてかはその時分からなかったけど、彼女の悲しそうな、寂しそうな顔と、真に迫る声に、僕が訳も分からないまま頷くと、彼女はほっとしたように僕の頭を優しく撫でてくれたよ。その手はとても冷たくて寂しいものだったけれど、とても優しくて、母に撫でられるよりも心地よかった。そんな教えを残して、彼女は消えていった。願わくば、天国に行けていることを祈るばかりだよ。彼女のおかげで、僕はこうして生きていけているのだから……。

 彼女がどうしてそんなことを言ったのか、僕は中学生辺りでその真意を知ることになった。中学ともなると、小学校よりも人数が増えることになるだろう。そんな大衆の中にいれば、僕と同じような人間が一人、二人くらいはいるもんでね、でも彼らはどうやら僕のように恵まれた人間ではなかったらしい。確かに彼らはそんな存在、本来なら見えないということは知っていても、その存在と親しくしてはいけないということは知らなかったようだ。その二人は僕が卒業する前に自殺してしまったよ。遺書もなかったから警察も来るような大事になったけどね、皆不思議がっていた。なんで突然、自殺したんだろうって。
 でも僕は分かっていた。分かってしまっていた。彼らは連れて逝かれてしまったんだよ、幽霊とやらにね。生きている人間でもそうだけれど、無視されたり、存在を認知されなかったりするのは、とても辛くて寂しくて悲しいことだろう。そんなところに反応を寄こしてくれる人間が来れば自然、連れて行きたいと思ってしまうものさ。だから彼らは、自殺のような形で死んでしまったんだろうね。それを見て、僕はやはりあの、父の不倫相手である女に感謝するばかりだったのさ。僕が死んだり狂ったりせずに生きていられるのは、彼女のおかげだと。実際その通りだったしね。
 でも同時に、何故彼女は僕を連れて行かなかったのだろうと不思議に思ったよ。そんな、無視され認知されない世界で唯一反応を寄こしてくれる存在、それも愛しい男の遺伝子を持った子供である僕を、どうして連れて行かなかったのだろうと。それが不思議で不思議で、僕たちはその二人の葬式中ずっと考えていたよ。どうして彼女は、僕を連れて行くでもなく、悪霊になるでもなくあそこに何年間もい続けたのだろうかと。
 その答えは案外すぐに出たよ。その理由は、彼女が本当に僕の父親を愛していたからに他ならない。愛して愛して、好いて好いて死んでまでその傍に居続け、死してなおその愛情を忘れなかったから、彼女は僕を連れて行かなかったのさ。無視されても、認知されなくとも、彼女は父の傍にいて、その幸せそうな姿を見るだけで満たされていたんだ。だから僕を連れていく必要はなかったんだよ。だって彼女は、辛いわけでも寂しいわけでも悲しいわけでもなく、ただただ満たされていたんだから。
 そうして僕は育っていった。幽霊だとか、そういった存在を認識しつつも、そんな素振りは一切見せず、世間に溶け込んでいった。ちゃんと就職して車まで持ってるんだ、大したもんだろう? ……僕に対する嫌味かって? 違う違う、そんなつもりはなかった。気分を害されたなら謝るよ。ああ、カクテルが減ってきたね、そろそろ違うの頼むかい? いくら飲んだって構わないよ。
 話を戻そう、そうして彼女の愛情の深さを知った僕は、次に何故、どうして彼女は消えたのだろうと新たな疑問にぶち当たった。だって彼女は無視されても認知されなくとも、父の姿を見ているだけで幸せに満たされていたのならば、どうしてそれを投げ捨てるようなことをしたのかってね。もしかして僕が彼女を認識することができなくなっただけなのかも知れないと思った時期もあったけれど、毎日外を歩くたびに行き遭う幽霊を見る限り、そんな風にも思えない。だから、どうしてだろうってね。どうして彼女は、父の、愛すべき男の傍を離れたのだろうって。不思議だったんだ。
 それで僕は、ああ、当時高校生だったんだけどね、彼女の墓に行ってみたのさ。彼女の本名は教えてもらっていたから、墓を見つけるのは簡単だった。隣の区の、何の変哲もない霊園に彼女は眠っていたよ。僕は手ぶらで行くのもなんだから、霊園の近くの花屋に立ち寄ろうと思った。彼女が何の花が好きだったのかは知らないけれど、無いよりはいいだろう。それでその花屋に行こうとして、僕は驚いたよ。だってその花屋の駐車場に、父の車があったんだからね。同じ車種なだけかと思ったけれど、ナンバーまでおんなじだったんだから父のものに相違ない。僕は物陰に隠れてこっそりその車を見守ったよ。そうしたら、花屋からやっぱり、父親が出てきた。紫色ばかりでできた花束に、あああの色が彼女が好きだった色なのかと思ったものだよ。
 父親は車をそこに置いたまま、霊園へと歩いて行った。僕も気付かれないように、その後を追った。しかしきっと、そんな必要はなかったんだろうね。父親はどこかとぼとぼと、意気消沈という言葉がぴったりな様で歩いていたんだから、きっと僕が真後ろを歩いていたとしても気付かなかったろうよ。
 父は彼女の墓の前で立ち止まった。そして跪いて、紫色の花束をそこに置いた。墓石には花を入れる筒みたいなものがあるだろう? そこにもいっぱいの花が生けてあった。それが父がしたものだろうと思ったのは、まあ僕の勘だね。そしてその花がまだ一つも枯れていないのを見て、父が頻繁にここに訪れていることを悟ったよ。
 父は買ってきた花を生けるでもなく解くでもなく、ただ彼女の墓石の前に置いた。そして手を合わせて、こう言ったんだ。すまないって。愛していたって。そう何度も何度も、謝罪と愛の言葉を囁いて、父は震えていた。きっと嘘ではなかったんだと思うよ。同情でもない。父は本当に、彼女を愛していたんだよ。愛していたけれど、家庭があったから彼女を捨てた。まさか死なれるとは思ってもいなかったろうけど……。
 きっと父は何かの拍子に、彼女が死んだことを知ったんだ。そして、彼女の好きなあの紫色の花を手向けて、同じように謝り、愛していたと呟いたんだと思うよ。すまない、本当に愛していた。本当に、心の底から君が好きだった、愛していたって。そして今でも愛している、とでも言ったんだろうね。僕が見ている前でもそんなようなことを言っていたから……。
 そんな姿を見て、僕は悟ったよ。何故彼女があの家から、父の傍から消えたのかを。彼女は愛されていないと思っていから、愛されていないという未練からあそこにいた。死してなお報われない愛情を持っていると信じ込んで、あそこで父の帰りを待っていた。しかしそれは勘違い……と言っていいのかは分からないけれど、杞憂というか、違ったんだよ。父は彼女を本当に愛していた。本当に、心の底から。その墓の花が枯れないうちに参るほど、彼女を愛していたんだ。
 きっと彼女はそんな父を見て、自分は本当に愛されていると知ってしまったんだ。幽霊っていうのは、未練がないとそこにいられないということを高校生くらいの僕は知っていたからね。だから分かってしまったんだ。彼女の未練は父に愛されていないことだった。しかし、それは勘違いで間違いだった。そのことに気付いて、気付かされて彼女は成仏したんだ。ちゃんと自分は愛されていたって、愛されているっていうことを知って、彼女は消えて逝ったんだ。そのことに立ち会えなかったのは、ちょっと寂しいかな。
 僕はずっとすまない、愛してると呟く父からそうっと離れて、家に帰ったよ。彼女がいなくなった理由を知って納得できたからね。どこかすっきりすらしていた。そうか、未練がなくなると幽霊は成仏し消えてしまうのかとも思った。でも僕は、そんな知識は今後全く生かされないだろうと思ったよ。だって僕は、彼らに対して見えるような態度は一切取っていなかったからね。……そう思うと、僕は俳優にすらなれるんじゃないかと思うよ、はは。

 さてここからが本題だ。え? 今までのことが話したかったことじゃなかったのかだって? 最初に言ったろう、僕はお前たちの猫の話をするためにお前をここに呼んだんだよ。そう、猫。猫の話さ。九つの魂を持つという、猫の話。今までのこれはこの話をするための前座でしかないよ。もう十分、場はあったまったろう? ……ああ、僕のカクテルもなくなってきた、頼もうかな。お前は? いらない? じゃあ僕だけ頼むか、すいませーん……。
 それじゃ、猫の話をしようか。お前たちの猫の話を。……猫だなんて言ったら彼が怒る、だって? そうかい? 彼は猫になりがっていたようだから、むしろ喜びそうだけれど……。いやなりたいなんてもんじゃない、彼は猫そのものだろう。九つの魂を持った猫そのものだ。
 彼と初めて会ったのは半年ほど前のことだよ。僕がショッピングを楽しんでその帰りに橋を渡ろうとしたところに、彼はいた。自分と、お前とそっくりの顔を持った男の背中をジッと見つめて佇んでいたよ。あんまりにもジッと見つめているもんだから、その男の背中に穴が開かないか心配になっちゃったよ、ガラにもなくね……。そして僕は、彼女に言われたことを産まれて初めて破った。彼女の言いつけを破って、彼に話しかけてしまったんだよ。お前の兄弟であることは一目瞭然だったからね、放っておけなかったっていうのもある。……放っておけばよかった、だって? はは、そんなこと言ってやるなよ、彼が浮かばれないだろう?
 彼に手招きをすると、とても驚いたようにしてから、そっとその男の背中から名残惜しげに離れて僕のもとに来たよ。僕は人気のない公園まで歩いて、そこで初めて口を開いた。さすがに人がいるところで彼と話したら、僕が今まで積み上げてきたものが全て無駄になってしまうからね……。
 彼はまず、自分が見えるのかということを確認してきた。そんなの、ここまでの道すがらで分かりそうなものだけれど、一応ということもあったんだろう、それに僕はそうだよと言ってやった。彼はますます驚いた顔をして、そう、とだけ言った。そして僕の隣に座って、どうして自分を呼んだのかを訊ねてきた。それに僕は、君の弟と友達だからとだけ言っておいたよ。他に理由があるような気もしたけれど、その時の僕はその感情にどんな名前を付ければいいか分からなかったから、そうとしか言えなかった。
 彼はそう、とだけまた言って、黙り込んでしまったよ。猫背気味の背を更に丸めて、このことは兄弟に言わないで欲しい、と僕に懇願してきた。僕もその時は全く言う気はなかったからね、勿論だよと言っておいた。まさかこうしてその約束を破ることになるとは、思ってもいなかったけれど。まあ人の口に戸は立てられないってことかな、はは。それに、お前が他の兄弟にこれを他言するとは思えないしね……。
 僕は彼に、話を聞いてあげると言った。本当に、その時の僕は魔がさしたとしか言いようがないよ。どこかに父の不倫相手である彼女を重ねていたのかもしれない。
 彼はジッと黙っていた。だから僕も、ジッと待っていたよ。彼が話してくれないことには、ことは始まらないからね。
 しばらくしてから、彼はぽつり、ぽつりと話し始めた。自分が自殺したこと、死んでもなお、あの男のことを愛していることを話してくれた。それに僕はやっぱりと思った。彼女と彼が重なって見えたのは、その愛の深さだったんだ。愛を理由に自殺して、死んでもその愛情を捨てることなく傍に居続けるその姿は、彼女そのものだったから。
 彼は愛されたいわけではないと言った。傍にいられるだけでいいと。だから今の状況は幸せだと。ますます彼女のようだと思ったよ。彼女だって傍にいたいと、その幸せな姿を見れるだけで満たされると笑っていた。でもそれが嘘だったからこそ、彼女は幽霊になり成仏したわけだ。
 だから僕は思ったよ、彼は嘘を吐いているって。愛されたいわけじゃないなんて大嘘だ。じゃなきゃこうして彼が幽霊になるわけもない。でも僕は、彼の言葉にただただ相槌を打つだけにした。それは嘘だと言って彼が激昂でもしたら、何が起こるか分かったもんじゃないからね……。結局僕は彼のことより自分の身を按じたってわけ。当たり前だけど。誰だって自分が一番可愛いもんさ。
 彼は話して少しすっきりしたように見えた。僕にありがとうと言って、立ち上がった。聞いてもらえてよかった、生きてるうちに誰かに話したことは一度もなかったからって。当たり前か、男同士で、兄弟で、同じ顔をした人間に恋をしたなんて、口が裂けても言えないだろうからね……。
 彼は言ったよ。自分は猫だって。彼は自分はもう八回死んだと言っていた。一度目は、六つに分かれて産まれてしまった時。二度目は、みんながみんなおんなじではなくなってしまった時。三度目は、彼に恋をした時。四度目は、彼で自慰をした時。五度目は、彼に彼女ができた時。六度目は、報われない恋を悲観して知らない男に抱かれた時。七度目は、彼が自分を好きになることはないと分かってしまった時。八度目は、ようやくちゃんと自殺した時。そう言って、彼は笑ったよ。自分は猫だから、九つ魂があるって。だからまだ一つ残っていて、こうして彼の傍にいれるって。
 彼はありがとうと再度言って、彼のもとに帰って行ったよ。そうして彼はずっと、そう、今でも彼の傍に居続け、彼を見守り、彼の幸せを見て満たされ、彼を愛し続けているんだろうね。あれ以来時々彼を見る機会があったけれど、彼の目はずっとその男を見つめ続けて、そして愛おしげに細められていたよ。だから僕は二度と彼に話かけるような真似をしなかった。
 彼女と彼との明確な違いは、愛されていたか、愛されていなかったかだよ。確かに彼は、兄弟としてその男に愛されていたんだろう。愛されて、好かれて、大事にされていたんだろう。だけど彼とその男との愛には途方もないほどの違いがある。彼は性愛として、彼を愛していたんだ。そんな彼にとって、その男からの兄弟愛はそれこそ死んでしまいたくなるほどの苦痛だったろうね。それに耐えられなくなって、自殺したんだろう。そして、死してなおその男の傍に居続けることを決めたのだろう。その男が別の女と幸せになる様を、受け入れたんだろう……。一途だよね。
 しかし僕からしてみれば、それは不幸でしかないよ。彼にとっては幸福で僥倖でしかないのかもしれないけれど、僕は不幸だとしか思えない。僕じゃなくてもそう思うだろう。彼は不幸だって。死してなお愛し続けているのに、その男は自分を愛することなく、他の女を愛し結婚しようとしている。僕だって血も涙もない冷徹人間なわけじゃない、その姿に同情してしまったって仕方のないことだろう。

 だから僕はこうしてお前を呼び出したのさ。こうして呼び出して、あの猫の話を、彼の話をしたんだよ。なあ、お前の兄さんの結婚式、来月だってな? だったら、だったら彼がこれ以上不幸にならないうちに、不憫にならないうちに、可哀想にならないうちに、成仏させてやってくれないか。嘘の言葉でもいい、あの男が愛していると言ってやれば、彼は成仏するはずなんだ。幸せだったと思いながら、天国に行けるはずなんだ、彼女みたいにね。
 なあ、頼むからあの男にそう言ってやってくれよ。彼の墓前で愛していたって、今でも愛しているって言ってくれ。じゃないと彼はずっと、不幸なまんまだ。なあ、彼を救ってやってくれよ、あの猫を、これ以上不幸にしてやるなよ。
 ……そんなことをしても彼は成仏しないだって? そんなはずないだろう、彼女は愛されていることを知って成仏したんだ、彼だって自分が愛されていたと知れば、きっと……それくらいで成仏できたら自殺してない? 何故そう言い切れるんだ。

「だって、それが一松兄さんだからだよ」

 僕はそう言って、あつしくんに憐憫の目を向けた。確かにあの兄は猫のようだった。だったらその魂が九つあったとしても不思議でもなんでもない。そしてその不憫さを見て、あつしくんが行動を起こすのも理解はできる。共感は全くできないけど。
 不思議そうにするあつしくんに、僕は言う。
「一松兄さんは、そんな嘘っぱちの言葉じゃ成仏しないよ」
 きっとあの兄は、あの首を吊って自殺した兄は、結婚するカラ松兄さんをそうっと見守るのだろう。そして幸せな家庭を作り、幸せな人生を歩み、幸せな死を謳歌するのを、変わらず愛おしげに見つめ続けるのだ。
 きっと一松兄さんはカラ松兄さんが死んだとしても、成仏できない。成仏せず、ずっとずっと、カラ松兄さんが死んでもその愛を持ち続け、この世界に存在し続ける。
 あつしくんは一松兄さんが可哀想だと言った。それに嘲笑が零れたのは致し方ないことだろう。可哀想だって? 自分の勝手で死んで自分の勝手でカラ松兄さんの傍に居続ける奴に同情なんてできるわけがない。少なくとも僕はできない。同情もしなければ可哀想だとも思わない。
 一松兄さんは、馬鹿なだけだ。呆れを通り越して嘲りしか産まれてこない。
 だから僕は、見えもしない兄に向って嘲笑した。嘲り、蔑み、嗤った。からん、とグラスの中の氷が滑る。あの猫の九つ目の魂が死ぬことはないのだろう。きっと、そう、永遠に。



BGM:人間辞めてもby倉橋ヨエコ
title by へそ
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