一松の声が出なくなった。出なくなった、という表現は別にどこも間違っていないというのに、こう言うとまるで一松が何らかの不慮の事故で失声してしまったかのようだ。あいつは、俺の弟である松野家四男松野一松は、自ら望んで声を失ったというのに。
 一松はある日、やけに天気がいい雲ひとつない快晴の昼に、自ら首を掻っ切った。いつの間に用意したのか分からない、古めかしい小太刀で、まるで切腹するかのように自分の喉を切り裂いた。最初にそんな一松を発見した十四松の、引き攣ったような、泣きそうな声と、それに驚いて浴場へと駆けつけた俺たちの目に飛び込んできた、真っ赤な一松とそれを抱き起こし必死に呼び起こそうとする十四松の様子は、きっと俺たちの脳みその端っこを我がもの顔で陣取ったまま、永遠に存在し続けるのだろう。
 救急車を呼んだのは、意外なことにおそ松でもチョロ松でもなくトド松だった。トド松は一松と十四松に気まずそうな視線を送ってから、すぐにポケットにしまってあったスマフォで119をした。その声音はどこまでも冷静で、そればかりがこの異常な空間とアンバランスだったことを覚えている。
 おそ松はいつもの飄々とした雰囲気のなりを潜ませて、まっさらな無表情で一松が喉を切るために使った小太刀を手に取り、その刃に指を這わせた。一松の血で滑っていても流石は刀、切れ味だけは包丁やらナイフやらとは比べ物にならないらしく、まっすぐな赤い線をおそ松の肌に刻んでいた。
 チョロ松はテンパってろくに動けず、「一松、どうして、なんで」と何度も口にしながら、ふらふらと十四松に抱かれている一松に歩み寄った。浴場いっぱいに飛び散った血で滑りそうになったチョロ松を、やはりどこまでも冷静なトド松が支えていた。
 俺は、
 俺は、何もできなかった。
 一松に駆け寄って大丈夫か(大丈夫なわけあるか)と叫ぶことも、どうしてこんなことを慟哭することも、トド松のように助けを呼ぶことも、十四松のように抱きすくめることもできなかった。ただただ、他の兄弟が各々取る行動を、呆然と眺めていることしかできなかった。
 五分もしないうちに救急車が来て、その人たちが一松を連れて行った。全員は同行できないということから、長男であるおそ松と、第一発見者である十四松が救急車に乗ることになった。おそ松はまだしも、十四松はえぐえぐと長い袖を涙で濡らして呼吸困難一歩手前だったのだから、まだ冷静に救急の人に状況を説明していたトド松がついて行くべきではないだろうかとも思ったが、トド松はそんな俺の視線に気づいて「僕がついて行っても、一松兄さんは喜ばないよ」と薄く笑って返されてしまった。その顔に、俺はぞくりと溶かされた絶対零度の鉛を脊髄に流されたかのような悪寒を感じた。まるで、こうなるであろうことを予測していたかのようなそんな笑みだった。
「お前は、何か知っているのか」
 どうして一松が首を切ったのか。どうしてこんな、自殺じみたことをしたのか。お前は知っているのか。
 トド松はひどく凝り固まった声で問う俺に、笑みをひっこめ冷たく言った。
「知らないよ。知っていたとしても、カラ松兄さんには言わない」
 トド松は再びスマフォを弄ってタクシーを呼ぶと、未だに混乱の最中から戻ってこれていないチョロ松の頭をひっぱたいて「しっかりしてよ自意識ライジング。僕はタクシーくるまで風呂場片しとくから、来たら呼んで」と言って家の中に引っ込んでしまった。小さくなる救急車を見守っていた俺とチョロ松は、呆然としたまま、玄関先に取り残されてしまった。ちらりと横を見れば、チョロ松はまだ「どうして、一松」と小さく呟いていた。その有り様はとても正気だとは思えず、自分の兄弟ながら少しゾッとしてしまった。
「落ちつけ、一松はまだ生きてる」
 その言葉は果たしてチョロ松に向けてのものだったのか、それとも自分に向けてのものだったのか。とにかく、そう思っていないとやってられなかった。だって、実の弟が首を切って死のうとしたのだ。それも愛すべき我が家で。こうやって呆然自失になったり十四松のように泣き叫んだりするのが通常で、どこまでも冷静であるトド松の方が異常だった。
 背中を支えながらチョロ松を居間に入れ、茶を出してやる。それを一気飲みして、チョロ松は少しだけ落ち着いたらしい。しかし落ち着いたら落ち着いたで、どんな感情も「キレる」という行為に変換してしまうのがこの弟だ。ふるふると震えて湯呑を砕かんばかりに握りしめるチョロ松に「俺だって怒りたいのは山々だ。それでも、それでもとりあえず、一松の話を聞かないことには始まらないだろう」と宥める。そう、どうしてこんなことをしたのか、一松に訊かなければきっと分からない。
 ……いや、違うか。
 一人、たった一人、まるで一松がこうすることを予見していたかのような行動を取っていた人物がいる。
 俺は戦慄くチョロ松を置いて、風呂場に向かう。がらりと擦り硝子の引き戸を開ければ、シャワーで血を流しているトド松が顔を上げた。音楽を聞いていたのか、耳にイヤフォンが突っ込まれている。
 トド松は片方のイヤフォンを引っこ抜くと「タクシー来たの? 早いね」とコルクを捻ってシャワーを止めた。まだ血が渇いていなかったからなのか、シャワーの水圧と水流であらかたの鮮血は流されてしまったようだ。ピンク色の水がくるくると回りながら排水溝の中に吸い込まれていくのに、どうしようもない嫌悪感と不快感を抱いてしまった。愛しい弟の血であるはずなのに、まるでそれを腐った死体から滴る腐汁のように感じてしまった自分に、また呆然とした。
「タクシーは、まだ来てない」
「へえ、じゃあなんで来たの?」
 兄弟の中で一番つぶらである瞳をぱちりと瞬かせながら、トド松は心底不思議そうに俺に訊ねた。そのことにまた、どうしようもない嘔吐感がせり上がってくる。どうしてお前は、そんなに冷静なんだ。そんなに普通なんだ。兄弟が、血を分けた兄弟が自らの首を掻っ切ったんだぞ。死んでしまいそうになっているんだぞ。何故お前は、そうも、こうも平静なんだ。
 まるでお前は、こうなることを予見していたかのようじゃないか。
「知ってたよ」
 そんな俺の胸中を覗きこんだかのように、トド松が静かな声で言う。ハッと顔を上げれば、先ほどのうすら笑いや不思議そうな表情はそこにはなく、底冷えする凍えるような冷たい顔があった。そこに乗せられる表情を察する前に、「知ってたよ」とトド松はもう一度静かな声で告げた。
「一松兄さんがこういうことをするっていうのは、知ってた。きっとおそ松兄さんもなんとなく勘付いてたんじゃないかな」
「じゃあなぜ!」
 じゃあ何故止めなかった! じゃあ何故それを俺たちに教えてくれなかった! もしもそうしてくれていれば、こんな事態にはならなかったはずなのに!
 今にも掴みかからんとする俺に、トド松は心底つまらなそうに鼻を鳴らした。シャワーの飛沫で濡れた手を軽く振りながら、俺の横を擦り抜けて脱衣所に出る。タオルで足や手を拭きつつ、「そんなこと一松兄さんは望んでなかったからだよ」と俺に視線を寄こさぬまま言った。
「一松兄さんは誰にも知られたくなかった。誰にも止められたくなかった。だから言わなかった」
「そんな」
「ていうかさあ」
 じろり、とトド松の眼球が回って俺を射る。ていうかさあ、ていうかさあ。
「一松兄さんが、本当に死のうとしてたと思う?」
「……は?」
「こんなみーんなそろってる真昼間に首を切ったんだよ? それも動脈じゃない。そりゃ首っていうのは刺し傷に弱いけど、動脈切らなきゃ確実には死ねないでしょ。それも発見しやすいような場所で、発見しやすい時間帯に切った」
 これで本当に、死ぬ気があったと思う? 
 トド松はそれだけ言って、脱衣所から消えて行った。取り残されたのは、呆然としたままの俺と未だにくるくると回り続けるピンク色の水だけだった。ちょうどタクシーが来たのか、カラ松兄さーんと俺を呼ぶ声がする。それに、爪が食い込むほど強く拳を握った。
 確かに一松が首を切ったのは昼時だ。それも「ちょっと風呂行ってくる」と言って浴場に消えて行った。昼飯時だから、いくら遅くなっても食事が用意される頃合いになったら兄弟の誰かしらが呼びに行くだろう。闇雲に探す必要もないから、一番の最短距離で一松のもとに行ける。足音がしてきてから首を切れば、確かに流れる血も最小限で済むだろう。
 だけど、それでも一歩間違えれば死んでいた。救急の人たちは大丈夫ですよと言っていたけれど、それだって気休めをさせるための常套句でしかない。
 どうして、どうして一松は、自らの首を切り、死のうとした? トド松は一松に死ぬ気なんてなかったと言っていた。しかしそれがどうして、真実だと言えるだろう。首。首だぞ。本当に、仮に本当に死ぬ気がなかったとしても、一歩間違えれば死んでしまうような、一歩間違えなくても死んでしまうようなところをわざわざ傷つけた一松の心情を、俺はこれっぽっちも察することができなかった。
 もう一度俺を呼ぶトド松の声が聞こえて、俺はようやく脱衣所から立ち去った。まだ残るシャンプーのにおいに混ざる血の生臭さに、ひどく嘔吐きながら。





 結論から言えば、一松は死ななかった。発見が早かったのと、傷つけたのが動脈やらなんやらと言う、太い血管ではなかったことが幸いしたらしい。しかしその代わり、一松は声を失った。声帯やらを動かすなんちゃら神経(説明されたが忘れてしまった)を傷つけたせいで、うまく発声することができなくなってしまった。リハビリを行えば前と同じように話せると医師に言われたが、一松はそれに首を振った。縦ではなく、横に。
 このままでいい。声なんて取り戻したくもない。
 渡された小さなホワイトボードにそう書き出した一松の横顔は、どこまでもまっさらだった。いつものような気だるげな表情を引っ提げたまま、リハビリはしないと告げた。医師はそんな一松に根気強く声が出ないことの不便さ、それに伴う弊害を説明していたが、どんなに言っても納得しないことを察すると、気が変わったらいつでも来て欲しいと告げて去っていった。
 一週間の入院期間を経て、一松は家に帰ってきた。入院中は、おそ松と十四松が傍にいることが多かった。十四松は今日何があったか、昨晩の夕食が何であったかなどとりとめもない話を明るく楽しく話しかけていたようだが、おそ松に至っては、ただ一松が腰掛けるベッドの横で静かに佇んでいたり、漫画を読んでいたりということが多いようだった。俺とチョロ松は、医師の説明を聞きに行った一回きりしか入院中の一松に会いに行かなかった。もしも一人で一松に会いになんて行ったら、なんでこんなことをと詰め寄ってしまいそうだったからだ。だから俺たちは、おそ松と十四松の話す一松の様子に胸を撫で下ろすと同時に、どうしようもない、言葉にも声にもできないような感情を胸に抱くだけだった。
 俺が意外に思ったのは、トド松だ。一松がこうなると知っていて、知っていて何もしなかったこの弟が、一松の見舞いに行かないのは俺に少なからずの驚きを与えた。一度見舞いに行かないのかと訊ねたところ「面倒くさい。僕は皆と違って忙しいんだよ」とジムに行ってしまった。どこまでドライモンスターなんだ。ドライを通り越してサイコパスのようだとも言える。あいつも俺のことをどうこう言えた義理ではない。
 父さんと母さんは一松をこっぴどく叱ったあと、優しく抱きしめた。どうしてこんなこと、や、もう二度としないでくれ、といったようなことは一切口にせず、退院したら蟹鍋をしよう、とだけ言って、一松を優しく受け入れたようだ。それに、やはりこの二人は俺たちをここまで育ててくれた尊敬すべき親なのだと納得するのだった。理由を訊ねるでもなく、優しく受容する。きっと一松に今必要なのは、そういうものなのだろう。だからますます、俺とチョロ松は一松に会いに行けなくなるのだった。
 一松が退院した夜の晩飯は母さんの宣言通り蟹鍋だった。丁寧に全て食べやすいように殻が部分的に取られていて、やはりあの人には頭が上がらないと思うばかりだった。
 喋れない一松がどのように元の日常に戻っていくのか気がかりで仕方がなかったが、一松は何の不便も障害もなく、俺たちの元へと帰ってきた。母さんが流石に不便だろうと携帯電話(スマフォじゃない。ガラケーだ)を渡し、何か言いたいことがあればそこに打ち込み相手に見せるというやり方をさせようとしたようだが、一松はその行為をあまりしなかった。表情や身ぶり手ぶりで、相手に自分の意思を伝えることの方が断然多かった。もとより、一松はそこまで口数が多いわけではない。そりゃあボディランゲージで伝えられないことは液晶に映し出すこともあったが、その様子を見たのは片手の指でも余りが出るほどの回数でしかなかった。何より、以前にも増して十四松が一松の傍にいるから、十四松が一松の言いたいことを察して俺たちに伝えてくれるのだ。十四松は一体何者なのだろう……。
 そんな感じで、あっさり一松は元の日常へと、俺たちの元へと戻ってきた。チョロ松は未だに一松に理由を訊ねたそうな視線を向けることがあったが、そういう時は決まって、おそ松がその視線を掻き消すようにチョロ松に絡んでいった。そういうことを続けていくうちに、チョロ松もいつしか諦めたのだろう、以前と同じような様子で、一松に接するようになった。
 そう、まるで何事もなかったかのように、一松は俺たちのもとに戻ってきた。まるであの日の出来事は夢だったかのようだ、と思う俺に、そんなことがあるわけないだろう、と悠然と睥睨するのは、一松の首に刻まれたあの傷跡だった。夢にさせてたまるかといった風に、その傷跡は俺を見つめていた。何も知らない、何もできない俺を見下していた。
「なあトド松」
 一松が首を掻っ切ってから数カ月、声が出せない一松が普通になりつつある日常の中で、俺はトド松に問いかけた。その日は俺たち以外誰も家になく、SNSに勤しんでいるトド松と俺しかいなかった。
 だから俺は、トド松に訊ねた。一松のあの行為の意味を知っているトド松に、問うた。「どうして一松は、あんなことをしたんだ」
 トド松が鬱陶しそうに俺を見上げる。ソファに座っているとはいえ、その前に俺が立ち塞がっていれば自然、視線を上に上げる形となる。トド松はまた視線をスマフォに戻し少しだけ弄った後、画面を暗くしてソファにそれを放った。
「いまさらそんなこと知ってどうすんの」
 確かに今更なのかも知れない。一松の傷は完治した。傷は赤黒いてかてかと光る痕だけ残して消え去った。声を出せない一松に皆慣れて、それを日常にし始めている、いやもうし終えている今、そんなことを訊くのは、知るのは野暮なのかもしれない。
 でも、それでも俺は知りたかった。だからこそ知りたかった。一松がどうしてあんなことをしたのか、知らなければいけないと思った。だって一松は俺の弟なのだから。守らなければならない、兄弟なのだから。
 トド松はそんな俺の心中を察したのだろう、溜息を吐いて大きく伸びをした。
「僕は一松兄さんが声を出したくなくなったってことしか知らないよ。それ以上は知らない。知っていたとしても言わない」
 それだけ言って、トド松は再びスマフォに手を伸ばした。通知が来てぴかぴかと光るスマフォに目を落とし、自分の日常を回していく。それで、いいんだろうか。いいわけないだろう。俺は一松が首を切るほど、声を出したくないと思うほどに追い詰められていることを、知ってしまった。知ってしまったらどうしようもない。それをどうにかしてやりたいと思うのは、普通の感性だろう。
「カラ松兄さんってさあ」
 トド松はスマフォから目をそらさないまま、心底面倒そうに、軽蔑したように俺に言った。
「反吐が出るくらい、優しいよね」
 そんなに気になるなら、どうにかしてやりたいなら一松兄さん本人のところに行けば。
 そんなもっともな教示を述べて、トド松は沈黙した。





「一松」
 路地裏で蹲りながら猫と戯れる弟に声をかける。声で既に俺だとは気付いていたのだろう、鬱陶しげにその気だるげな目で俺を一瞥して、一松はまたその視線を猫に戻した。睨まれなかったということはここにいていいということだろうと自分の都合のいいように解釈して、俺は一松の隣にしゃがみ込んだ。猫は俺の存在に少しだけ眉を潜めてから、一松と同じように自分に害を加える人間ではないだろうということと、一松の肉親であるということを理解して先ほどと同じように猫缶に口を付けたり、一松に撫でられたりし始めた。相変わらず、猫に異常なまでに好かれる弟である。
「なあ、一松」
 きっと一松は今更こんなことを訊かれたって不快にしか思わないだろう。自分の柔らかい部分に土足で踏み込んでくるなと毛を逆立てることだろう。
 でも、それでも俺はお前を知りたいと思う。お前を救ってやりたいと思う。それがどうしようもない偽善だとしても、自分の探究心を満たしたいがための行動だとしても、俺はお前を助けたいと思う。
 俺はおそ松のように察しがよくない。チョロ松のように諦めがいいわけでもない。十四松のように一松のことを何でも知っているわけでもない。トド松のように人との距離をうまく取れもしない。
 だから俺は、こうしてお前に会いに来たんだ。お前に、訊ねに来たんだ。
「お前はどうして、声なんていらないと思ったんだ」
 今更かもしれない。無駄かもしれない。無理かもしれない。
 それでも、それでも俺は、お前を知りたいよ。お前を助けたいよ、一松。
 一松はじろりと俺に視線を寄こした。一松の気配が変わったことを気取った猫たちは、食事もそこそこに一目散に逃げて行った。残ったのは、声が出せない一松と、そんな一松に質問を投げかける俺だけである。
 一松はじっと俺の双眸を覗きこんだ。だから俺も、一松の目を見つめた。薄く涙の膜が這ったそこに、俺がゆらゆらと映り込んでいる。
 一松が口を開けた。そして素早く、何かを呟いた。声が出せない一松は、こうして口の動きだけで相手に言葉を伝えることがある。いつもはもっとゆっくり、相手が分かりやすいように唇を動かすというのに、今のはまるで伝える気がまったくないとでもいうような素早い動きだった。いや、伝える気などなかったのだろう。それでも俺が訊ねるから、堪らず言ってしまっただけ。そんな様子だった。
「一松?」
 一松はそれだけ口にすると静かに立ち上がった。俺を置いてけぼりにしたまま、路地裏を後にする。それを追いかける形で、俺も路地裏から立ち去る。並んで歩いても、一松は何も言わなかった。文字で抗議することも、暴力で俺を押しのけることもしなかった。ただ自分の隣を歩く男を鬱陶しげに少しだけねめつけた。
「なあ一松」
 そんな一松に、俺は言う。
「俺は、お前の力になりたいと思ってる」
 一松は一つだけ俺の脚に蹴りを入れて、また静かに歩きだした。一瞬だけその目に映り込んだ、寂しげな、悲しげな色は、俺の見間違いだったのだろうか。
 夕日で真っ赤に染まる景色の中で、烏の鳴き声だけがいやに透き通って響いていた。



title by 模倣坂心中
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