恩師(これは皮肉だ。多分。成績表に棒ばかり刻まれた僕を卒業させてくれたことに関して言えば彼女は恩師以外の何物でもないのだろうけれど、逆を言えばそれ以外のことに関して彼女は限りなく恩師とはいえないような女性であった。ああ、女性なんて。僕の根っこには彼女への感謝が根強くはびこっているということだろうか?)が結婚したらしい。それを告げたのは、奇しくも彼女と同じく恩を感じるべき、感じなくてはいけないべき存在。おいおいどんなコンビだよ、と意図せず喉から笑いが零れてしまった。それを不気味そうに奴は見やる。うん、そうそうそれそれ。その視線が、僕は欲しかったんだ。同情なんて間違ってもするな、僕はお前たちのせいでこうなったんじゃない、僕がこうなるべくして、こうなったんだ。
 僕は笑声を引きとめて、ふーん、とただ一言返した。本当に、それ以外の言葉が出てこなかったのだ。浮かびもしなければ沈みもしない。今の僕の脳漿に漂うのは、ただへえそうなんだ、という明日の天気を告げられたかのような感想のみだった。だってそうだろう、僕と彼女は確かに一年間、担任教師とその生徒という関係性を保っていたがいやしかし、それだけなのだ。確かにほんのばかし、濃い関係を形成していたのかもしれないけれど、高校を卒業し無事大学(このことにかなり驚かれた。まず卒業できたことを感慨深く褒められた。あんたは僕をなんだと思ってたんだ。つーか卒業さしてくれたのはあんた方じゃないか)に入学した今となっては、接点なんてほとんどない。というか全くない。ついこの間、成人式を切欠に同窓会が行われたことは知っているが、僕はそれに堂々とした文字で欠席と送ったはずだ。その際の記憶がずるりと脳みその奥から這い出てきて、僕は思わずあーーと声を出してしまった。益々奴の目に疑心の感情が産まれ落ちる。何を疑心してるんだか、ああ僕の頭に対してか。安心しろ、僕は今日も今日とてぱっぱらぱーだ。螺子はそろってるはずなのに、どう構築を失敗したのか、僕の頭はとことんおかしかった。ついこの前大それた病名まで頂いてしまった。頂いたというより、ブン取ったというほうが正しいか。どうしてああいうところの病院は、ちゃんとした病名を訊ねるまで言ってくれないんだろうね。確証がないからか、とこの前精神科学の授業でやった内容を思い出して納得する。だろうなあ。だって頭のことだもんね。腫瘍だとか菌だとか、そういった確たる証拠があれば堂々と病名に太鼓判を押せるのに、頭のこととなるとどうしてもあやふやで不明瞭なものになってしまう。世知辛い世の中だ。

「よかったじゃん」

 そんなとりとめもないことを考えていた脳みそから一つ、賛辞の言葉を並べたてる。うん、これは嘘じゃない。よかったじゃん。うんうん、苦労してそうな方だったからな、僕と同じように精神を患ってるといっていたし。そう考えるとなるほど、彼女は頑張ったんだろうなあとうっかり涙が零れおちそうになった。これは勿論嘘ですけどね、はい。
 そんな僕に、奴はだから、と言葉を続けようとした。続けようとした、と表したのは、どうやら言葉を忘れてしまったかのようにもごもごとその口元を気まずげに動かしていたからだ。なんだよ構音動作の探索か? やめろやめろ、そんなんこの前レポートで書きまくったわ。これ以上僕の課題を増やさないでくれ。
 脳内を覗かれたら様々なところから罵詈雑言が飛び交いうっかりすると後ろから刺されてしまいそうなことを考えながら、僕はそんな奴の不自然な動作を眺めた。うん? 不自然? 不自然なんだろうか。首を傾げる。普通、いくら長年の付き合いである友人(……友人、なんだろうか。どちらかというと共犯者だとか、そういった意味合いの言葉の方が僕たちの関係性を的確に表せる気がする。あいにくそんな学が、僕にはなかったのだけれど。あったら心配されることも驚かれることもなく高校を卒業し大学に入学してる)とはいえ、精神疾患者を前にしたら自然、皆こういった動作をしてしまうんじゃなかろうか。どうしたら相手の、頭のおかしいやつの逆鱗や琴線に触れずにものを言えるか、考えてしまうんじゃなかろうか。そう考えるとなるほど、今目の前の人間が行う動作は至極自然、至極当然のことだと思えてしまった。
 奴はそんな動作をしばらく続けた後、ようやく言葉の発し方を思い出したのか、それとも決心がついたのか、じっと僕を見下ろした。こういうとき、こいつとの身長差が顕著に僕たちの前に横たわる。並んで歩いているときは、特に感じない。他人から見たらそういう時こそ両者の身長差がありありと分かるのだろうけれど、そういうときの僕の視線と言えば、前か下に向けられているのが常だ。当たり前か。
 だからこうして向き合ってる時が、一番こいつとの身長差を自覚することとなる。身長差だけかい? そんなこえが耳小骨を反響させて、それがまるで耳元で羽虫がはばたいているのと似ていたから反射的にばちんと右耳を叩いてしまった。一歩間違えば鼓膜が破れる。それでも僕はそれをしてしまった。目の前の奴といえば、そんな様子にまたまごまごとした動作を始めてしまった。南無三。

「だから、さ」

 ようやく、ようやく奴はそう言葉を続けた。更に続くであろう言葉にこちらとしては襟を正して傾聴しているというのに、奴はまた何かを躊躇うように視線をそらした。視線でビョーキは移りませんよ、アハハハハ、と笑いだしたくなった。不謹慎すぎるからいくらなんでも心のうちだけにしておいた。視線だけでは移らない。しかし言葉を交わせば、それは伝染し汚染する。そう僕は考える。頭のビョーキなんてそんなもんだ。だから僕は精神科医の方々に敬意と尊敬の念を抱いていた。よくもまあビーム光線で殺されるだとか頭にiPodが入っていないとか言って狂乱する輩の相手をし、なおかつそれを治そうと思うもんだ。僕だったら絶対に面白半分な視線を向けながら百メートルくらい距離をとるね。
 しかしどうやら奴もそういったお医者サマ方と同じ思考回路であるらしい。僕を軽蔑するでもなく、忌避するでもなく、距離を取ることもなく、かといって肩入れをすることもなく見守ることに決めたらしい。それに、それはどうかな? とまた中耳で何かが反響する。うるせえなさっきから、ちょっと黙っとけよ。

「だから、お前も幸せになれるよ」

 とうとう続けられた言葉に、奴はじっと僕の目を見つめた。それを言われた僕がどんな狂乱を起こすか、戦々恐々といった風でもある。しかしそれは杞憂だ。僕はそれを言われても何も感じなかった。感じもしなければ抱きもしなかった。喜びも怒りも哀しみも楽しみも、何も感じなかったし抱かなかった。ううん、普通こういった時、何を無責任なことをと胸倉を掴むべきなのだろうか。少なくとも、少なくとも数年前の僕ならそうしていたはずだ。何を無責任なことを、と。お前もそうやって俺を突き離して、投げ捨てるのかって。そういって憤怒でギラつく目をしながら罵っていたはずである。
 しかし悲しいかな、今の自分は俺ではなく僕である。あの頃の俺は死んだ。そして今生きているのは僕である。悲しいね、悲しいね、アッハッハッハッ。
 そうだねえと言って、僕は俺を殺した張本人である共犯者に笑うのだった。嗤うでもなく哂うでもなく、ただ純粋に笑った。だってこいつに向けるべき憎しみを、恨みを、僕は持ち合わせていない。それを大事に大事に抱えたまま俺は死んでしまったので、どうやら一片たりともそれらの感情は置き土産にされなかったようだった。だから僕はこうして普通にこいつと会話ができる。こいつと普通に談笑できる。いやはやなんて喜ばしいことでしょうねえ。
 そんな僕を見て、絶望とも失望ともつかない色がじわじわとこいつの両目を染め上げて行った。何を絶望しているのだろう、何を失望しているのだろう。少なくとも僕には分からない。俺なら分かったのかな、なんて思いながら、僕は悠然とこいつを見上げて笑うのだった。その時ばかりは少し、その笑みに違う色を滲ましたかもしれない。

「早く僕も幸せになりたいなあ」

 そう言って、僕は俺を殺した人殺しに笑みを向けるのだった。冷たく寒い、凍えるような冷笑を。




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