「突然ですが俺はお前を殺そうと思います」

 そんな突拍子もないことを彼は突然言い出した。その口調は昨日の夜に「晩飯何がいい?」と訊ねてきた声音と大して変わらず、つまりまるで僕の要望通りに食事を作る昨日の彼と相違ないことを意味している。現に今僕に殺人予告をした彼は昨日キッチンに立った時と同じ大きな猫が胸にパッチワークされている可愛らしい黄色のエプロンを首から下げており、その科白と右手に握られているよく研がれた包丁さえなければ「今日の朝飯何がいい?」と訊かれたのかと僕は思ったことだろう。しかしどう変換しようとしても彼の殺人予告は殺人予告でしかなく、手の包丁が更にその言葉の信憑性を高めていて、僕はうっかり手に持っていたネクタイを落としてしまった。ぽとり。そんな軽い音をさせて、紺色のシルクはフローリングへと不時着した。
「突然すぎるんだけど」
「うん、突然だからな」
 つーか突然ですがって前置きしたじゃん、と逆に非難された。世間一般的に言えば批難されるべきは包丁片手に殺人予告をした彼なのに、実際に責め立てられいるのは僕だというのは何事か。法律だとかそういったことは全く分からないけれど、今の状況とさっきの科白を記録して法廷に提出したら、圧勝するのはどう考えても僕であるはずなのに、まるでそれを許さないと言わんばかりの彼の態度は呆れを通り越して尊敬の念すら抱かせる。どこから来るんだ、その自信は。そして何故その自信を他に生かせない。
 彼は呆れたようにやれやれと首を振り(そうしたいのは僕の方だ)「じゃ、いっきまーす」とスーパーに買い物に行くより気軽な様子で包丁を振りかざした。ぎらりと鋭い刃が窓から入ってくる朝日を反射して光る。いやいや、ちょっとちょっとちょっと。
「ストップ。一端タンマ」
「ん? 辞世の句でも読むのか?」読むか。僕は理系だ。
「なんで僕を殺すの?」
 そう、彼が僕を殺そうとする理由がどうやっても思い当たらない。殺人予告というより殺人宣告をされてから脳細胞をフル動員させて海馬やら何やらを捜索しているが、一向に彼の殺人動機を見つけることは叶わなかった。喧嘩を全くしない円満カップルであるという肩書は僕たちの関係に存在してなどいないが、でも喧嘩をするっていったって僕が彼のおつかいで何かを買い忘れただとか、換気扇を回さずに焼き魚を作っただとか(これについては僕に全く非がないのに気がつかなかったお前が悪いと怒られた。なんでやねん)、ゴムが途中で破けて彼の中に精液を零してしまっただとか、そんな可愛げのあるものだ。決して包丁片手に殺人宣告をされるほどのものではない。
 はて、僕は僕が知らぬうちにいったい彼に何をしたというのだろう。そんなに買い忘れたプリンが食べたかったのか? 魚臭い部屋にファブリーズを乱射するのが嫌だったのか? 精液を掻き出されるのが恥ずかしかったのか? ううん、分からん。彼と同棲し始めて早三年、ここまで彼のことが分からなかったことは今日今この瞬間が初めてだ。

「この前の飲み会に女子がいたことが気に食わなかったとか?」
「ちげーわボケ」

 ようやく僕のシナプスがようやく探り当てた動機らしきものを口にするも、罵倒付きで否定されてしまった。ボケって。酷い。
 それでは何なのだというのだろう。いよいよ心当たりがなくなって途方にくれてしまった僕に、彼は一つ溜息を吐いて、振りあげていた包丁をゆっくり身体の横に下ろした。僕の心臓に下ろされなくて、とりあえず一安心といったところだ。洒落にならない言葉遊びだけれど。
「え、僕なんかした?」
「した」
 したのか。いったい何をしたというのだろう。再び我が脳細胞に問いかけるも、お手上げですと言わんばかりに肩を竦められてしまった。なんと。我が脳みそながら諦めが早すぎる。もっと本気を出して欲しい。でなくては、彼の手にある包丁が僕の心臓を貫いてしまうというに。早々にストライキを決め込む脳にありもしない頭痛を患う。うう、本当にお手上げだ。
 僕は降参、いや強盗に脅され自分は何も武器を持っていないと証明するように人間のように、両手を軽く挙げて「ごめん、全然心当たりがない」と素直に言った。その返事は舌うち。ますます僕の不憫さ加減に拍車がかかる。
「じゃあ馬鹿なお前の為に動機を言ってやろう」
「それはありがたい」
 何がありがたいというのか。どっちにしろ彼は先ほどの殺人宣告を取り消す意向はまったくないようなのだから、僕の危機が回避されたわけではないというのに。
「まず、昨日のカレーを褒めた」
「うん、褒めた」
 星型の人参がたいそう可愛らしくて、またそれを作った彼の様子を想像して微笑ましくなって、僕はそれを褒めた。うん、それは認めよう、うん、認めるけど。認めるけどさあ。
「あとアイロンのかけ方を褒めた」
「だって上手だから」
 僕がやったら何をどうやったらこうなるのかといった感じに皺苦茶になるというのに、あの発熱機器は彼の手に収まった瞬間機嫌をよくしたかのようにすんなりとまっすぐで綺麗な軌道を刻み始める。そのおかげで僕のワイシャツは今日もパリッと清潔感あふれるものになっている。

「それから、」
「ちょ、っと待って。ちょっと待って。待って待って」

 これから挙げられるであろう項目にいやでも察しがついてしまって、ますます僕を苛む幻痛がひどくなる。え、え、殺人動機って、「僕が君を褒めたから?」「当然だろう」何が当然だというのか。眉間に指を当てる。ちらりと見えた腕時計の時間はとっくにいつもの出勤時間を通り過ぎている。遅刻確定だ。なんて報告すればいいんだ、嫁に殺人宣告をされたため遅刻しました? 事実を口にしているだけなのに何を言っているんだお前はという視線が上司から刺さることが簡単に予想できてしまった。僕は嘘なんて吐いてないのに。世の中理不尽すぎる。
 彼はようやっと僕が自分が今から殺される動機に気付いたことに満足したのか、両手を腰に当ててふんぞり返る。いやいや、危ないでしょそれ。色んな意味で。
「ということで、俺はお前を殺す」
「タンマ。タンマ」
 眉間に当てていない方の手を彼に向けて制す。いやいやこんな理不尽な殺人があってたまるか。まだ通り魔の誰でもいいから殺してみたかったという外道丸出しの言葉の方が僕に納得感を与える。あいにく、彼の言葉は一ミリも僕に安堵も納得ももたらさなかった。むしろさらに混乱させるものである。
「さすがにそんな理由で殺されるのはちょっと」
 明日重要な会議あるし。それを言外に忍ばせて言えば「そんなことぉ?」と彼は眉を吊りあげた。あ、地雷踏んだ?
「ほうほう、ほうほうほうほう。お前はそれをそんな理由だと言うのか」
「いや言うでしょ。誰でも言うよ」
 褒められたから殺しますとか、どんだけ自己肯定感の低い人間なんだ彼は。いや知ってたけど、知ってたけど! まさか褒められて殺すまでにそれが致命的であると誰が予測できるか! いやできない!
「お前にそんなことを言われた俺がどれだけ辛かったことか……」
「じゃあ褒めなきゃよかったの?」
「それでも殺す」殺すんかい。
 いよいよ理不尽の極みだ。どういうことなんだろう……。
 とりあえず床に落下したままになっているネクタイを手に取る。「じゃあ殺す前にこのネクタイ締めてよ」「いいぞ。お安い御用だ」彼は包丁を手に持ったまま器用に僕の首にネクタイをかける。そのまましゅるしゅると手際よく締めると、また満足したようにふんぞり返った。自己肯定が低いのか高いのかよく分からん。というか、殺すなら別に今このネクタイで首を絞めてもよかったのに。刺殺にこだわってるのか? どれだけ僕に恨みつらみを重ねていたんだ。
「それじゃ、今日仕事から帰って来てから殺してよ」
「その間に逃げるんじゃねーだろうな」
「逃げない逃げない。ちゃんと帰ってくるから」
 どんなサイコパスな会話だ。それでも彼はやはり僕の受け答えに満足したらしい、嬉しそうに笑いながら、「じゃあ待っててやる。最後の晩餐はステーキだな」と晩御飯のメニューを告げて僕を玄関へと見送った。弁当を渡すことも忘れない。ううん、よくできた嫁だなあ。その手に包丁さえなければ。
「それじゃ、行ってきます」
 いつもよりだいぶ遅い出勤になってしまったことは致し方ない。電車の中で言い訳を考えるとしようと思っている僕の背中に、「あ、待って」と彼は声をかけた。それに振り返る。そこには包丁を振りかざす人影、なんてものは勿論なく、満足げに笑う彼がいるだけだった。

「いってきますのちゅー」
「……ああ、」

 今までの出来事が刺激的すぎてそんな当たり前のことを忘れていた。ううむ、僕としたことが。これではスパダリの地位を格下げされてしまう。そんな自分の地位を守る為、僕はドアノブにかけていた手を離して彼に向き合う。そしてそのまま、一つキス。先ほど食べたハムエッグの味がした。僕は醤油をかけるけど、彼はケチャップをかけるから、トマトの酸味が混ざったそんなキスだった。
「じゃ、いってきます」
「ああ、いってらっしゃい」
 満足げに笑う彼の手には相変わらず包丁。物騒な朝だなあ。そんなことを思いながら、僕は今日も仕事に出ていくのであった。ううん、なんなんだろう、この関係。首を傾げる僕に、いや恋人だろうと脳内の彼が突っ込んだ気がした。うん、その通り。さすが彼。僕の恋人。
 ようやく僕も満足げに頷いて、元気に朝のごみごみした道を歩き出したのであった。今日も今日とて、バカップルは健在なのでした。めでたしめでたし。



BGM;沈める街by倉橋ヨエコ





×