部屋の仏壇の奥深くに眠っていたということと、空気がふんだんに水分を含んでいるからか、マッチがなかなか火を灯さないことに、一松は苛立ちを感じているようでもあった。じゃっじゃっと何度も箱の横面に棒を擦り付け、ついにそれがぽきりと折れると感情を隠しもしない舌打ちを一つかまして、俺にそれを放り投げた。文字を書くときは恐ろしく繊細な動きをなす一松の指は、それ以外に関してはわざとかと思うほどに不器用であった。最近は、それらの事柄に拍車がかっていて、歩くことまでもが困難になってきている。ここに来るまでにも、使い古された下駄を何かにけつまずかせて、何度か転びそうになっていた。そのたびに俺がその身体を支えれば、やはり返されるのは礼ではなくいがいがと棘が立つ内心を隠しもしない睥睨だとか、先ほどマッチに向けて行ったものと同じ舌打ちをされた。そのいつも通りの様子に、俺は心底ほっとした。こんな日だからと、こんな日々だからと一松の日常を俺が乱すのは、どうにも良心が痛んでいけない。俺の良心を痛ませるのは、周囲に隠れてひっそりと泣く両親だけで構わないと思った。
 両親は戦況が苛烈になっていくと同時に、母親の実家、つまり俺たちにとっては祖父母にあたる人々の家へと疎開させた。あの辺りは工場もないがらんとした田舎であるから、空襲の危険性も限りなく低いと思ってのことだったが、今の世の中、この国に安全なところなどどこにもないということを、今朝の新聞で無知な俺は知った。誰も知らないような田舎町が燃やされたという旨を伝える文字は、一松が綴るそれらと同じであるはずなのに、どうしようもなく無機質で、無慈悲で、無表情なものであった。それを読む一松もまた、同じような表情をしていた。
 何があっても家を守ると、俺たちの帰る場所を守ると言って動かなかった親を、半ば追い出すような形で疎開させた俺に、一松はただただ何も言わずにそっと傍にいてくれた。おそ松とチョロ松が同時に海軍へと志願し、十四松とトド松が軍医として家を出払った今、家主を失くしたこの建物にいるのは俺と、一松だけであった。
 一松はたいそう名の知れた文豪であるからか、徴集のあの赤い紙が来るようなことはなかった。毎日のように国民を鼓舞させ、狂わせる文章ばかりを書かされる一松はどんどん痩せ細っていった。ただでさえ余っていた着物の裾はどんどん幅を増やし、ついにはまるで着物に着られる子供のような有り様になってしまった。それが少ない配給からくる栄養失調からではないことを、俺は知っていた。知っていて、何もできなかった。ただただ、国が、世界が狂気の渦へと落とされる前に綴られた、一松の美しい文字の羅列を思って、唇を噛んだ。一松が書きたいのは、こんな虚構のものではないというのに。だというに、周りはそれを強要する。戦場へと赴く弟を悲しみ紡いだ詩が偏見の憂き目にあったことを、知らぬ俺でもない。
 一松はただただ、棒のようになった腕と指で、カラッポの文章を綴り続けた。何も思わず、何も考えず、ただただ周りに期待されたことをそのままやってのける一松の文章は新聞だとか、雑誌だとかに掲載され、それを読んだ人々は感動の涙を流し、そうだそうだと拳を握る。それを、俺はやはり、ただただ見ているだけだった。震えもせず、憤りもせず、悲しみもしない一松の身体をそっと支えて、子守唄を歌ってやることしかできなかった。その時ばかりは、あの無表情を打ち消し、うるせえよ、と一松は笑った。それが何よりうれしかった。


 俺に赤紙が来たのは数日前のことであった。そして、徴集は明日である。母がいないからと、近隣の人々が協力して作ってくれた千本針は今、大事に家の仏壇の戸棚にしまわれている。俺は一松がその針の一端となったのか、知らずにいた。訊いたところで答えてくれないだろうし、気軽に訊ねられる話題でもなかった。
 俺たち兄弟全員が全員男であるからか、俺たちの母は大層周りから称賛された。お国の為に戦える男を六人も、それもそろいもそろって青年ときた! なんとめでたいことだろう! 周りはそう言って母を褒め称え、父を誇らしげに扱った。父も母もその言葉を笑顔で受け止めて、そうです、うちの子は皆立派です、と言った後、夜になれば家でひっそり、互いの肩を抱きながら泣いていた。俺たちはそれを知りながら、それでも戦場に赴いて行った。一番初めにおそ松とチョロ松、その数カ月後に十四松とトド松、そしてその数カ月あとに、俺。一松はきっと、ずっとこの家を守る為に疎開もせず、どこにも隠れず、ずっと文章を書き続けるのだろうと思った。あの虚しいだけの文章を一人書き続ける一松を思って、俺はマッチに火をつける。
 難なく火をともしたそれに、一松はまた一つ、チッと舌を打った。俺はそれに苦笑しながら、戸棚から持ってきた線香に火を付け、それをご先祖様が眠る墓石の前に置いた。ゆらゆらと、湿った空気の中白い煙が立ち昇っていく。それはまるで、骨を焼いた後の光景のようで自然、俺は眉が下がる。
 兄弟たちの訃報は、未だに俺たちのもとに届いていない。ということは皆、無事なのだろう。こんな国も世界も何もかもがぐちゃぐちゃな今、確かな情報が俺たちのもとに届くことはあまりにも少ない。この前の戦争のときだって、それが終わって何年もしてから戦死したという旨を伝えられたり、最後までその訃報を聞かぬまま、骨も回収できずに帰らずの人となった人間を知っているからか、俺はその届かない訃報を、何とも言えない面持ちで受け入れることしかできなかった。


 おめでとうございます、と赤紙を渡された俺の後ろで一松がどんな表情をしていたのか、知る由もなかった。ただきっと、人前であるということがあって、とてもじゃないが悲しい顔などできるはずもないということだけは分かっていた。きっと、あの言われるままに文章を書くときと同じ、無機質で冷たい表情であろうことは、いやでも想像できてしまった。だから俺はその時、一松が廊下を歩いて居間に戻るその瞬間まで、振り返ることができなかった。ねっとりと肌に絡みつく空気をまとったまま、微動だにせず、自分の名前の記された、だいぶ薄い赤で染められた紙を見つめることしかできなかった。
 俺のゆく戦場はどのような場所なのだろう。おそ松とチョロ松は海、十四松とトド松は陸、だとしたら俺は、空だろうか。顔を上げて、白い煙の筋を吸い込む青へと視線を向ける。青は、俺の流しの色でもあった。小さい頃は軒並み一緒だった俺たちの着物は、思春期を迎えると同時に個々の色を有して変わっていった。母もよく、六人全て違う色の着物をつくろえたものだ。そもそも、六人分の着物を作れることに、俺はやはり、あの偉大な母に途方もない感嘆の息を漏らすばかりだった。六人同じだった時期をとうに過ぎた俺たちは、やはりいきつく先も異なってしまうようだ。それはあの二人が海に、他の二人が陸に行ってしまった時から、分かっていたことだった。分かっていたことだけれど、途方もなく悲しかった。産まれた時ですら一緒だった俺たちは、もうばらばらになってしまったのだと思って、どうしようもなく悲しくなった。勿論そんな表情を表に出せば石を投げられるのだから、俺は必死に、一松をまねて能面の振りをするしかなかった。

「一松」

 俺はこの霊園に来て初めて、喉を震わせた。少し後ろに佇む一松の視線が自分に向けられたのか、俺には見当もつかない。だからカラッポのカラ松だと言われていた。だというのに、今カラッポになってしまっているのは、俺をそう罵倒して譲らなかった一松自身なのだ。それがどうしようもなく悲しくて、どうしようもなく悔しい。あんなにキラキラとして美しい文章を作り出していた指を、こんな棒きれのようにさせ、無情な文字を作り出すだけにした時代が、憎くて憎くて仕方がない。
「俺は兄弟のうちで一番力があるから、きっと立派に役目を果たせると思うぞ」
 俺たちを除いて人っ子一人、この周辺にはいないというのに自然、俺はそんな口調になってしまった。まるでお国の為に使命を果たすことだけに執心しているような、そんな、一松をこうさせた人間と同じような物言いになってしまったことに、俺は絶望した。人目がないというのに、俺は一松を安心させるようなこと一つ、言えなくなってしまっていた。知らず、唇を噛む。初夏だというのにかさついたそれは、音もなく血を滲ませた。
「でもあんたは、俺の次にのろまじゃないか」
 いつもと変わらぬ調子で、一松はそう言った。振り向けば、一松は煙草をふかしていた。何もかもが不足している今、煙草なんてどうしようもない高級品だ。きっと褒美か何かでもらったのだろう、線香を立てる時は何度やってもともらなかった火は、どうやらその棒にだけはすんなりことを済ませてくれたらしい。ぷかぷかと煙草を吸いながら、一松は俺を馬鹿にするように一瞥した。
 確かに俺は、力こそ強いがチョロ松のようなすばしっこさも、十四松のような俊敏さもない。ならばおそ松のような勘のよさがあるのかと問われれば首を横に振るし、トド松のようなしたたかさがあるのかと言われればそれも否だった。ただただ俺は、力だけが自慢の、他には何のとりえもない馬鹿な男であった。
 煙草をくわえたまま、一松が俺の横にしゃがみこむ。体温が低いこいつにとっては初夏の温度でも暑さを感じるのか、ぽたりと一つ、その拍子に汗が石畳に黒点を作った。
「平気さ」
 視線を再び墓石に戻す。ご先祖様は、こんな俺たちを見て嘆いているだろうか。お国の為に死にに行く気概のない俺たちを、非国民だと貶して斬りつけるのろうか。それを思ってもう一度、手を合わせる。どうかどうか、他の兄弟たちに大事がありませんようにと、ただただ祈った。一松はそんな俺を、煙草をふかしながら静かに見つめていた。

 おそ松が志願すると言いだして、チョロ松がじゃあ俺もと手を挙げた。いつもは僕だとか、そういった風な口をきくのに、その時は昔の粗暴だった頃を思わせる口ぶりで、俺も行くよと言った。おそ松兄さんだけじゃあ心配だからね。その危懼の矛先が国や戦況でないことくらいは、いくら馬鹿な俺でも察しがついた。おそ松はそんなチョロ松の頭を、お前は心配性だね、と言って撫で回していた。そして間を置くことなく、二人は海へと去っていった。ばんざーい、ばんざーい。そうやって送り出された二人は、きりりとした表情で、大丈夫だと両親と俺たちに言った。大丈夫。無事に帰ってくるから。そう雄弁に語る二人の背中に、母は泣いた。誰にも知られまいと、夜中にひっそりと泣いていた。
 十四松とトド松は医学に精通していた。大学の病院で働いていたのに、何の因果か軍医になるよう言い渡され、それでも二人は笑顔で大丈夫だと、やはりおそ松とチョロ松と同じように俺たちに言った。母はどうしてと言って泣いた。医者は滅多なことでは戦場に送り込まれないから、安心していたのだろう。だというのにこの仕打ちは何なのだと、そう喚いて叫びたかったに違いない。それを許さない世間から逃れるために、母は暗がりの中、父に支えられながら泣いた。大丈夫。軍医だから、安全な場所にいさせてもらえるよ。そう言うように笑う二人を、俺はしっかりと抱きしめることしかできなかった。一松はそんな様を、ただただじっと見据えていた。

 そして俺も、明日を最後にここから旅立つこととなる。最初は六つだった顔は、いつの間にか二つに減っていた。明日、それが一つになる。もう何時間もしないうちに、一松は一人きりになってしまう。そればかりが心残りだった。
「一松」
 もう一度、一人きりになってしまった弟の名を呼ぶ。声の代わりに、半分しか開いていない目をぎょろりと動かして、一松は俺を見た。たった一人きりになってしまった兄の顔を見た。
「絶対、帰ってくるから」
 一松は何も言わなかった。小さくなってしまった煙草を石畳に放って、静かに立ち上がる。そしてくるりと踵を返した。俺もそれに何も言わず、同じように立ち上がって、歩き出した一松の背を追った。記憶よりだいぶ細くなってしまったその身体は、風に吹かれているわけでもないのにふらり、ふらりと左右に揺れて、まるで髭を切られた猫のようでもあった。
 だとしたらきっと、一松はおそ松とチョロ松が、十四松とトド松がいなくなったあの日に、髭を鋭い日本刀で切断されてしまったに違いない。血を流すこともなく短くなったそれは、一松に涙を流させることも、喉を震わせて慟哭させることもなく、ただ静かに、一松の世界を奪い去っていった。こんな有り様であるからか、一松への仕事もだいぶ減っていた。それは一松がこういう風体になってしまった以外に、もうそんな、文字で皆を奮い起こす必要も、そして余裕もなくなってきてしまっているからかもしれなかった。そんな雰囲気を十分に感じ取りながら、俺たちはそれでも突き進む。出口に何があるか分かりきっている迷路を、ただひたすらに突き進む。もう戻るべき入口も、帰るべき場所もない。だからもう、進むしかないのだ。それがどんな結末を、迎えるとしても。


 貴重な米と、壺に大事にしまってあった梅干しと、庭になっている小さな檸檬と、配給の細い薩摩芋をふかした夕飯は、たいそう豪華であるといえた。おそ松とチョロ松を送り出す時も、十四松とトド松を送り出す時も、こんな風に夕飯は豪勢であった。
「ちゃんと近くの家の人たちと仲良くするんだぞ」
 母さん特製の酸っぱい梅干しを口に放りながら一松にそう言えば、煩いと口の代わりに語る目が俺を睨みつけた。こんな豪勢な夕飯を取り囲んだ一度目は、俺たち兄弟は馬鹿みたいに騒いだ。これでもかというほど笑って、これでもかというほど転げ回った。これからの未来を考える隙を脳みそに与えないほどに、俺たちは肩をたたき合った。二度目は、意外と歌のうまい十四松が少し前に流行っていた曲を大声で歌い始め、それに倣って俺が歌い、そしてトド松も同じように歌った。一松だけはその有り様を恭しく見守りながら、さびしそうに笑っていた。
 そして今、三度目。笑い合う相手はもういない。歌い合う相手はもういない。だから三度目の豪勢な夕飯は、とても静かな、それでいて気まずさも何も感じさせない、そんな不思議で、心地のいいものだった。
 一松は黙って俺の皿に、自分の分の食べ物を乗せた。「あんた筋肉だけはあるんだから、ちゃんと食べなきゃ駄目だよ」そんなことを言って箸を動かす指は、やはり芋の重みで折れてしまいそうなほどに細く、か弱かった。きっとうら若き乙女の方が逞しいだろうと思わせる指は、震えもしなければ強張ってもいなかった。それだけが、俺にとっての救いだった。
 俺はそれに「今日だけだからな」と言って、笑って渡された芋を食べた。中身のないすかすかのそれは、すぐに歯にすり潰されて跡形もなく消えていった。

 そうして俺たちは、いつもの夜と変わらない、とりとめもない話をして、三度目の豪勢な夕飯を終わらせた。そしていつものように皿を洗い、一松の淹れた茶を飲み、身体を湯で清めて布団に入った。いつもと違ったのは、一松が一枚しか布団を敷かなかったことだった。

「一緒に寝る」

 そう断言して、一松は一枚だけ敷かれた布団に寝転がった。俺はそれに少しだけ目を見張ってから、すぐに「たまにはいいな」と朗らかに笑って、いつもよりだいぶ狭い布団へと潜り込んだ。着物越しに触れる一松の肌は、やはりひんやりと冷たかった。それをどうにかこうにかして温めてやりたくて、そっと身を寄せる。一松は、それを拒まなかった。それどころか、俺と向き合う形になるよう、ぐるりと身体を反転させた。布団が小さいからか、鼻と鼻が触れ合うような距離で、俺たちは見つめ合った。一松のひび割れたびいだまのような両目に、俺が映り込んでいる。
「大丈夫だよ」
 一松がそう言った。俺ではなく、一松が大丈夫だよ、と言った。それが何を意味するのか、俺は理解することができなかった。
「あんたは、大丈夫だよ」
 もう一度そう言って、一松は薄く笑った。そのなんと儚く、脆く、美しい様であることか。俺は堪らず、その痩躯を力一杯抱きしめた。力だけが自慢の俺に加減なく抱きしめられたものだから、苦しくないはずないだろうに、悲鳴一つ、うめき声一つ上げずに、一松は同じように俺の背に手を回した。死人のように冷ややかな温度の中で、とくんとくんと脈打つ心の臓だけが、一松がここにいると、生きていると証明していた。

「必ず帰ってくる」

 ぎゅうぎゅうと、この細くなってしまった弟を抱きすくめる。きっと、一松が戦場に立つことはないだろう。国を鼓舞した文豪であるということが、一松をあの赤い紙から守っていた。この家の周辺の人々も、そうした一松のことを尊敬し、大事に扱ってくれることだろう。だから一松は、安全なのだ。きっとこの息苦しい時代もいつか終焉を迎える。そうすればきっと、一松は昔と同じように、あのキラキラとしたルビィのような、サファイアのような宝石の輝きを持つ文章を綴れるようになるだろう。その時、俺がいなくともいい、ただ一人でもいいから、隣でよくやったと褒めてやれる兄弟がいればいいと切に願った。おそ松ならきっと頭を撫でてやれるだろう。チョロ松なら俺では汲み取れない文字の表現を見て微笑んでやれることだろう。十四松ならこの痩躯を胴上げしてやれることだろう。トド松なら様々な人がこの文章を読んで褒め称えていると誇ってやれることだろう。
 だから、そう、俺でなくてもいいのだ。
 全てが終わった時、隣にいるのは俺でなくても構わない。ただただ、その文章のきらめきに心を震わせる兄弟が、一人でもいてくれればいいのだ。そうすればきっと、一松はずっと、永遠にあの美しく輝かしい文字を綴れることだろう。
 偽りの言葉を吐く俺に、一松は何も言わない。ただ一つ、その唇が俺の口を静かに塞いだ。
「大丈夫だよ」
 ひんやりとした死の冷たさを持った弟はそう言って、儚く笑った。どんよりとした眠気が襲い来る暗がりの中で唯一、月の光を浴びてぼうっと浮き上がった白い顔が、俺を愛し子のように見つめ、もう一度俺の唇に自分のそれを触れさせた。
「だから、安心しておやすみ、カラ松兄さん」
 そう言って一松はやはり、儚げに笑うのだった。





 家の中でも響くほどの歓声が、俺の意識を急速に浮上させた。驚いて身体を起こせば、まるで二日酔いのようにふら付き、立ち上がろうとすればガンガンとした喧しい鈍痛が俺を襲い狂った。
「一松?」
 隣にない体温の名前を呼ぶ。そして明け方とは思えない空の様子に、サッと血の気が引いた。ふら付きも頭痛も殴り捨てて、俺は夢中で一松の名を叫びながら部屋中を探し回った。そして仏壇にあった千本針と、俺の荷物がないことを知って、目の前が真っ白になった。
「一松!」
 下駄も履かずに、俺は家を飛び出した。道行く人は俺を見て驚いたかのように目を見張ったが、それが松野一松と同じ顔であることを察して、すぐにああ、いつもの精神衰弱かと興味を失った。彼らが関心を向けるのは、今か今かと発車せんとする列車のみだった。
 喉が焼けるように痛む。百足でも這っているかのような鈍痛が脇腹に響く。足の裏も、何かで切ったのか滑っていた。それでも俺は、必死に自分の足と肺を叱咤して、人々の関心の渦中である場所へと駆けた。
「一松!」
 人込みをかき分け、必死にその列車に近づかんとする。自分を押しのける存在に、人々は喜色に染まっていた顔に不快な表情を植えつける。それがどうした、一松が、俺の弟が、あの列車に、あの死に向かう不気味な鉄箱に乗っているのだぞ!

「一松!」

 最前列に躍り出た俺に、列車に乗っていた人物がくるりと振り返る。もう既に発車し始めた棺桶は、するりするりと俺の弟を戦場へと向かわせていた。硝子越しに向かい合った同じ顔が、昨晩と同じように静かで儚げな笑みを浮かべ、それを俺に向ける。
「待ってくれ、乗っているのは松野カラ松じゃない! 一松だ! あの大文豪、松野一松だぞ!」
 そう喚きながら列車と一緒に走る俺に、周りは憐憫とも不快とも奇異ともとれぬ目を向ける。俺たちは確かに流しや着物は各々の色を持っていたが、寝巻に関してだけは皆総じて同じものであった。そして今、俺はそれを着て、松野カラ松を松野カラ松たらしめる色を一切まとわぬまま、己は松野カラ松であると叫び回っている。ああ、ああ、ああ天よ! どうして俺に、俺たちに同じかんばせを持たせたのですか! これでは俺が松野カラ松だと、今死ににゆかんとする弟が松野一松だと証明できないではありませぬか! ああ、ああどうして! どうしてこんなむごいことを!
「一松! 一松! 一松!」
 まるでそれしか言葉を知らぬ白痴のように、俺は弟の名を何度も叫んだ。どんどん速まる棺桶は、ぐんぐんと俺と一松の距離を開かせていく。儚く笑う一松を、遠くにやってしまう。死に、追いやってしまう。

「一松! 一松!」

 とうとう自分の血で滑った俺は、どすんと顔から地面に転げ落ちた。砂利を吐き出しながら、俺は血を吐くように一松の名を叫び続ける。愛しい男の名を、叫び続ける。
「一松! 一松! 一松ッ!」
 ばんざーい、ばんざーい。とうとう列車が見えなくなるほど小さくなってしまって、俺は空に向かって吠えた。そんな俺の慟哭を、地を殴り血反吐を吐く男を、観衆の声が嘲笑う。ばんざーい、ばんざーい。ばんざーい、ばんざーい、ばんざーい、ばんざーい、と。



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