夏休みから数週間が経って、もう皆あの浮き足立った感じがなくなってきた。夏休みが明けてすぐの頃は、やれ日本は休みが少ないだの、課題が多くて全然遊べなかっただの、部活で休みなどなかったと騒いでいたのに、今ではすっかり夏休み前の、あの毎日席について生真面目に授業を受けるという週間を、すっかり思い出していた。蝋がすべて溶けてしまった蝋燭のように、夏休みはあっさり僕らの前から煙だけを残して消えた。そして、もうその煙すらも空気に溶けてしまった。
 そのことを寂しいとは思うけれど、嫌悪感はなかった。皆、そうやって忘れていくのだ。そうやって、悪いことは忘れて、綺麗なことだけを覚えて、思い出を作っていく。海馬に刻みつけて、あああんなことがあったな、と綺麗なところだけをとって組み立てられたちぐはぐなパズルを眺めて懐かしむのだ。ああ、あの頃は若かった、と。
 僕だってきっとその一員だろう。きっと夏休みに起こった出来事なんてすぐに忘れて、いや忘れないにしてもあの脳みそを焼き切りそうな嫌悪感や、脊髄を駆け上がってくる恐怖を僕は忘れてしまう。忘れて、綺麗な記憶だけしかないパズルを、必死に組み立てる。なんて滑稽なんだろう。
 ペットボトルの蓋を開ける。炭酸が溜まっていた空気は勢いよく蓋の間から弾けとびどこかに飛んでいった。口に含んだ飲料水は炭酸がすっかり抜けて、ただの生ぬるい甘味料になっている。
 それでも僕は構わずに飲み続けた。炭酸がある程度抜けているとはいえ、休止を入れずに飲み干すのはきつい。
 僕は飲み続けた。せり上がってくる胃に収めた飲料水を無理やり飲み込んで、飲料水をかき入れた。胃がしゅわしゅわと嫌な音をたてている。
 最後の一口を飲み干して、僕は勢いよく吐き出した。今まで飲んだ飲料水をすべて、校舎裏の日の当たらない駐車場のコンクリートの吐き出した。勿論胃液も付属品で出てきてしまたため、喉が焼かれて痛い。
 涙目で咳き込む僕の視界に影が差して、手の甲で口を拭いながら視線をずらす。
 見慣れた制服に身を包んだ女は、見当がついていた。
 僕は空っぽになったペットボトルを手にとってくるりと回れ右をする。もう秋だというのにうだるような暑さだ。こんなに気温が高いから、最初は冷たかったはずの飲料水だってあんなことになってしまったのだ。地球温暖化とは恐ろしい。
「ねえ」
 呼ぶ声に、僕は仕方なく(飽くまで仕方なく、だ)足を止めた。丁度日陰から出て直射日光に当たる所に来てしまったから、じりじりと紫外線が肌を焼いて痛い。
 彼女は何か期待するような、それでいて恐るような感情を視線に乗っけて、僕を見ていた。僕は、彼女が何を言いたいかなんとなく分かっている。わかった上で、僕は素知らぬふりをした。知らないふりを、無知のふりをして首を傾げた。きっと今の僕は不自然の塊だろう。
「どうしたの。もうすぐチャイム鳴るよ」
 笑いもせず、かといって眉間にしわも寄せず、まあつまり無表情で僕は言った。彼女の目が下に向くのも、何か言いたげに動かされる唇も、所在無さげにスカートをいじる指も、見なかったことにして全部全部知らないことにして、僕はもう一度日陰に、完結に述べると彼女の方に歩み寄って、そのか細い手を掴んだ。触れた肌はじんわりと冷たい。手汗もかいている。そんなに僕に話しかけることに緊張を覚えたんだろうか。なら話しかけなければいいのに、よく分からない。
 僕は彼女の手を掴んで歩き出した。僕の遅い、ときどきふらりと倒れそうにバランスを崩す生まれたての小鹿みたいに覚束無い歩調に文句も言わず、彼女は黙って僕についてきた。
 何故か、ないはずの左腕が痛んだ気がした。


 夏休みが始まってすぐ、僕は車に轢かれた。真っ白いキャンパスを泥水に落としたかのように薄汚れたボンネットに乗り上げ放り出され、綺麗な放物線を描いてコンクリートの地面に不時着した。痛い、と思うより、僕は必死に視線を動かすことで精一杯だった。唯一動き回せる眼球を必死に動かして、彼女の姿を探した。
 ガタガタと震える彼女はすぐに見つかって、僕は今度は身体を起こそうと腕を突っぱねようと頑張った。頑張ったはずなのに、持ち上げようとした身体はぴくりとも動いてくれやしなかった。どうしたんだろう全く。
 ああねえ、そんな顔すんなよ、僕がしたくてしたことなんだから、気にすんな。気にしないでよ、なんか僕がバカみたいじゃないか、庇った僕が。
 周りは騒々しいはずなのになんにも聞こえない。まるで耳に何百匹ものイナゴが羽ばたいているかのように雑音がばかりが出しゃばって人の声が何一つ聞こえない。
 僕はここで死ぬんだろうか。酸素が行き渡る前に蒸発してしまっている脳みそで、僕は考えた。ここで死ぬんだろうか。彼女を庇って、ここで死ぬんだろうか。ここで死んだら、彼女はどう思うだろう。泣いてくれるかな、それとも怒るかな。どっちもだろうな。
 ただ、こんな泣きそうな彼女が最期の景色だなんてついていないと思った。どうせなら満面の笑みで三途の川に突き落としてもらいたい。


 幸か不幸か、僕は死ななかった。
 死ななかったが、左肩から下がすっぽり失くなっていた。どういう経過かは知らないが、目が覚めたら既に失くなっていた。身体を起こしたときのあのバランスの不安定さは、きっとなってみないと分からない。立ちくらみとも貧血とも違うあれは、なんだか妙に異次元じみて僕に伸し掛った。
 事情聴取に来た若い警察官は、僕の何もない潰れたパジャマがある左を見ないようにしていた。ずっとボールペンの先と睨めっこして、絆創膏がべたべたと貼られた身体をまるで恐ろしいものかのように扱った。
「一人で信号待ちしていたら車が突っ込んできたんです」
 僕は起きてから警察が来るまでの間ずっと考えていたセリフをすらすらと言った。
 一人だったんです。学校からの帰り道で、一人で信号待ちをしていたら車が突っ込んできて避けようがありませんでした。あの日は終業式で早帰りだったんです。僕以外にあそこに人がいないのは不幸中の幸いでした。居眠り運転だったんですか、運転手の人はなんて? いや、別に謝ってほしいとかじゃなくて。もう一人いなかったかって? いませんよ、僕ひとりでした。運転手さん、寝ぼけてたんじゃないですか。それか人を轢いて動転していたか。僕は一人でした。何度も言わせないでください。一人だったんです。
 警察官はそうですか、分かりました、とだけ答えてそさくさと出て行った。病室は一人部屋で、一人ぼっちになった僕は窓の外を見た。冷房が聞いている部屋からは想像もできないが、外はきっと蝉がうるさく喚き立てる夏が謳歌しているんだろう。生憎、僕の今年の夏休みは病室で過ごすことになりそうだ。
 窓に映った自分を見てピアスがはめられていないことに気がつく。病院に運ばれた時にきっと外されたんだろう。ぽっかりと穴があいている耳朶をなんとなく触りながら、なんにもない左腕があった場所を見る。痛み止めが効いているせいか、痛みは全くない。
 備え付けのテーブルに置いてあったスマフォを手に取る。電源をつけると、安否を伺うメールが何件も来ていた。そういえば目が覚めてから初めてスマフォを弄る。呼吸をするのと同じように弄っていたというのに。
 メールを流し読みして、最後のメールを読んで、僕は静かに電源を切った。確か病院は携帯の使用は禁止されてるはずだ。
 かと言って暇なので、母親が目を真っ赤にして持ってきた本の一冊を手に取る。普段あんなに家にいないで仕事ばかりに構っているのに、こういうときやはりあの人は僕の母親なんだなと思う。
一粒も涙をこぼさない僕の分まで、母はわんわん泣いた。あまり喋らない父親でさえ唇を噛み締めていた。東京に出ていた兄貴も慌てて帰ってきて、僕の何もない左肩から下を見て母のように泣き出した。僕はどうしたらいいかわからなくて、東京土産はないのと場違いな質問を兄貴にしていた。
 手にとった本は星の王子様だった。多分僕の部屋にあった本を母が適当に詰め込んで持ってきてくれたんだろう。久しぶりに見る王子様の絵は、何故か僕をじっと見つめているような気がして怖くなった。
 僕は本を放り投げて、バランスの取りにくい身体をずらして添えてあったスリッパを履く。
そのまま立ち上がって、転がった。立ち上がっただけなのに転がった。
はてなマークを目に貼りつけながら、僕は片方になった手を突っぱねって身体を起こす。包帯が巻かれた頭が痛んだ。
幸いにも左腕だけが重症だったらしく、というか正確に言うと肩から少し下の部分がもうどうしようもないほどだったらしく切断を余儀なくされたらしい。他は大したことがなかった。運がいいのか悪いのか分からない。どうやら彼女はあそこからすぐに逃げたらしいし、そんな元気があるなら怪我は何もしていないのだろう。彼女が無事だったから運がよかったことにしてしまえ。
首を何回か回して、潰れている左の病院服の袖を見る。触ってみた。やっぱりなんにもない。
ベッドに寄りかかりながら立ち上がる。腕一本分の重量がないだけでここまでふらつくだなんて思ってなかった。でもそういえば機械鎧を軽くしたエドもよろけていた気がする。そういうもんなのか。
仕事を休もうとする両親と休学すると言い出した兄貴を追い出したから、今は僕ひとりしかここにいない。真っ白い空間で、僕だけが浮いている。
ここは、利き腕じゃなかったことを喜ぶべきなのかな。
すんと空気を吸ってみる。薬品に塗りつぶされた下で、あの日の血の匂いが鼻にこびりついているような気がした。


 そのあとの経過は順調で、別段合併症を伴うこともなく僕は退院した。夏休みはとっくに終わっていて、その間に先生や友達が何度も見舞いに来てくれた。事前に左腕がないことは知らされていたのか、そのことにはなるべく触れないようにして接してくれた。僕は別に、気にしていないんだけど。
 彼女は、
 彼女は、一度も来なかった。
 メールも何もせずに、僕に存在を知られたくないかのように、一度も僕の前に姿を現さなかった。
 しょうがないことだろう、と僕は諦めている。きっと彼女は僕が学校に行くようになっても、以前のように話しかけてはくれないだろう。それが左腕を失うことより、寂しかった。
 彼女は、庇って左腕を失った僕のことをどう思っているんだろう。罪悪感? 嫌悪感? 倦怠感? 何を思って、今授業を受けているのか僕には見当もつかない。
 ただ別に、いいかなと思う。これでいいと思う。これでいいんだ。変に気を使われても困るし。
 久しぶりに戻った自分の部屋は綺麗に掃除されていた。母親が忙しい合間を縫って綺麗にしてくれていたらしい。申し訳ない。その綺麗に整えられたベッドの上で、僕は大の字になって寝転んだ。もっとも、左腕がないから随分不格好な大の字なんだけれど。
 退院した日の夕食は随分と豪勢なものだった。事故の前は両親はどちらも仕事で忙しくて揃って食事だって滅多にしなかったし、兄貴だって正月くらいしか帰ってこなかったのに、この日は家族揃って母親が作った料理を食べた。
この一ヶ月程度ですっかり片腕で食べることは慣れていたのだけれど、隣に座っている兄貴はやたらに僕の方をちらちらと見てちゃんと食べられているか気にかけていた。母もやたら大丈夫かと聞いてきて、僕は頷く度にご飯が喉に詰まりそうで心配だった。
 夕食のあと兄貴にゲームをしようと誘うと兄貴は驚いたように目を見開いて、それから、でも、と言いよどんだ。
「いいんだ。やろうよ」
 腕のことは気にするなと暗に言って僕はテレビゲームの電源を入れた。コントローラーを二つ用意して片方を兄貴に放り投げた。
「兄貴ゲーム弱いだろ。僕に勝ったことなんて一度もないじゃないか。いいハンデだ」
 兄貴は涙ぐんだ目で僕を見て、大きく頷いてコントローラーを手にとった。
 ちなみに、僕の圧勝だった。
 兄貴は気を使っているように見えなかったから、きっと実力だろう。いったいこの人はどれだけゲームが弱いんだ。


「ねえ」
 彼女が僕を呼んで、回想から戻ってくる。立ち止まって少し後ろを歩いていた彼女に振り向くと、彼女は今度はまっすぐ僕の目を見て言った。僕より背が高い彼女が僕を見ると必然的に見下ろす形になるが、今はまるで下から覗き込まれているような気分になる。
「どうして私をかばったの」
 彼女が、ゆっくり、一言一言を噛み締めるように言った。疑問符のない質問だった。
「どうしてだと思う?」
 僕は、しっかりと疑問符をつけて質問した。質問を質問で返すという、短気なやつ相手なら引っぱたかされそうな行為をしても、彼女は今にも心臓がぼとりと胸から落ちそうな表情で僕を見下ろしていた。僕はそれを黙って見上げていた。
 何も言葉が生まれない空間に痺れを切らして、僕は彼女の手を離した。そしてそのまま、どこぞの露出狂のように半袖のワイシャツを脱ぎ捨てた。彼女の目が見開かれて、そして左肩でぎくりと止まる。
「触ってもいいよ」
 僕はなんにもなくなった左肩から先を諭すように誘った。まるで殺人鬼にでも遭遇したかのようにガクガクと震えだした彼女の姿はあの事故の日を思い出させた。
 震えるだけで動かない彼女の掌をひっつかんで無理やり左肩の切り口に触れさせる。上下した喉を無表情に見据えながら、僕は静かに彼女の手を離した。もう自由になる手を、彼女は下ろさなかった。下ろさずに、まるで赤子の頭を恐る恐る撫でるかのように僕の左肩を触った。
「なんにもないんだ」
 なんにも。だから君が罪悪を感じる必要も、責任を負う必要もないんだよ。そう伝えたかったのに、彼女はぼろぼろと涙を零し始めた。後悔からのものでも、責任を感じてからのものでもないことは、いくら僕でも察しがついた。
 それでも僕は、彼女が抱く感情に気がつかない振りをして、何にもなくなった左腕を見つめ続けた。透明になってしまったそれが何かに触れることはもうない。それでいいと、僕は思った。
「なんにもないよ」
 そう言って僕は、彼女の左腕を取った。しっかりとした骨格を持ったそれが、責めるように僕をねめつける。このエゴイストが、と。






 
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