自分のやり方が分からなくなった。そう口にすると、一番目の兄はなんだそりゃあ、みたいな顔で「どゆこと?」と煙草に火をつけた。相変わらず、ニコチン依存症だ。僕もおんなじようなもんだから口出しできないけど。
 煙草なんていう身体にとって毒にしかならない麻薬に手を出さないのは、二番目の兄だけだった。あとは二人総じて肺真っ黒。そしてお先も真っ暗。笑えない冗談だ。

「いや、だからさ、僕ってどんな人間だったんだっけ、って、思い出せないんだよ」

 一番目の兄にならって煙草を手に取る。どうして他人がタールを吸い込んでいると自分も同じことをしたくなるのか、きっと偉い学者は知っているのだろう。もしかしたら名前も既につけられているのかもしれない。でも僕はクズでバカだから勿論そんなことは知らない。知ったところで、この現象が収まるとは到底思えない。
「なんていうか、昔の僕ってもっとこう、人の感情とかそういうものに敏感だったと思うんだよね。直感的に相手が何を考えているとか、どんなことがあったかとかを分かっちゃうエスパーなやつ」
「トウシツかよ」
「否定できない」
 しかし高校生くらいの子に鬱病や統合失調症のような症状が出ることはよくあることらしい。ホルモンバランスがどうのこうのと宣っていたのをネットで拝見したことがある。
 ライターを手に取り、咥えていた煙草に火をかざす。少しだけ吸って煙草をふかしてから、「それに、誰に対しても平等だった」と紫煙と共に吐きすてる。少しだけこの一番目の兄の反応が怖くて様子を伺えば、先ほどと変わらない、何を考えているのか、そもそも何か考えているのか分からない視線とかち合って咄嗟に目をそらす。
 この動作も、僕が僕を見失ったと気づいたことの要因の一つだ。昔は人の視線なんて怖くなかった。授業中堂々と保健室にサボりに行くような生徒だったのだ。人の視線なんて構わず赤色の目立つジャージを羽織っていたのだ。
 それだというのに、今はどうだろう。人の視線が怖くて怖くて仕方がない。人の視線から、人が自分の表情を読み取ることから逃げるために伸ばした前髪は僕の目を分厚く覆っている。このことで先輩に迷惑をかけたのは記憶に新しい。それでも、前髪を切る気にはなれなかった。僕は撫子ちゃんのようにまだ踏ん切りがついていない。いやそもそも、踏ん切るべきものがないというべきか。
「平等ねえ」
 零コンマで視線を外されたことには全く触れず、一番目の兄は煙草をふかす。ゆらゆらと揺らめく紫煙が空気に溶けていくのを眺めながら、「でもそれを崩したのはアイツだろ」と何でもないように言う。その言葉に、僕の心はちっとも痛まない。昔だったら鋭い刃物で一突きされて、その上有刺鉄線でぐるぐる巻きにされているかのような激痛を伴ったというのに、今の僕ときたらそれを明日の天気を告げられたかのような面持ちで受け止めているのだ。これも、僕が僕を見失った原因の一つ。
 そんな僕の心情を察したのか、一番目の兄は苦笑するように表情を緩めた。いや、もともと表情筋がゆるゆるの人に何を言っているんだという話なのだけれど。
「お前、今兄ちゃんに失礼なこと言わなかった?」
「言ってない」
 少なくとも声に出して言ったわけではないのだ、嘘ではない。長男も大してそれを気にしてないのか、あっそ、とだけ言ってフィルターぎりぎりまでになった煙草を灰皿に押し付ける。吸うスピードがいくら何でも早すぎだろ。
「別にいいんじゃねーの?」
「よくない」
 ぐりぐりと煙草を押し付ける兄に断言する。いいわけないだろ、このクズ野郎。「いいわけないだろ、このクズ野郎」
 しまった、今回のは口に出してしまった。今度こそ兄の表情が怖くて視線をそらすが、しかし罵倒された側といえば「何がよくないの?」と疑問を投げかけてきた。何がよくないのか。何が悪いことなのか。僕にだって何が正しくて何が正しくないことなのか曖昧にしか分からない。でもこれだけは断言できる。これは、よくないことなのだ。
「人の感情とかやってることとかが分かんなくても、平等じゃなくなっても、別によくね?」
「よくねーよ」
 いつもそうだ、この兄と話してるとついつい口が悪くなる。二番目の兄に対しては激情に任せた時にしか口にしないような言葉が、この一番目の兄に対してはするすると呼気のように流れ出る。それはこの兄が自分と同じように、どうしようもないクズだからだろう。
 そう、僕はどうしようもないクズだ。僕と比べたらこの兄だって常人レベル、二番目の兄に至ってはもはや聖人レベルだ。
 鬱、統合失調、自律神経失調、自傷癖。一瞬で挙げられてしまう項目は、すべてクズに相応しいものだった。はいはいクズです、ゴミの方がリサイクルされて社会に貢献しているようなそんなゴミ以下の存在。そんな自分に嫌気がさす。
「昔は、そんな自分を隠せてたんだ。周りに合わせてノリのいい奴とか言われちゃってさ。それに比べて今はどうよ、人の視線に怯えて人との関わりから逃げ出して。これでどうやって社会に紛れ込めっていうんだ」
 溶け込む、じゃない。紛れ込む。これが僕が社会に入る上で一番的確な表現だった。だって僕みたいなメンヘラが社会に溶け込めるわけがない。正常ぶって紛れこむのが関の山だろう。なのにそれすら困難になってきている。どうしようもない。ほんとに。

「昔はそんなことができた。だから今もできるはずなんだ、マニュアルさえあれば。なのにそれが思い出せない。昔の自分がどうやって周りに紛れ込んでいたのか思い出せない。思い出せないんだよいちにい」

 ここに来てようやく僕は一番目の兄を呼んだ。長兄だからいちにい。我ながら安易な呼び名だ。こいつは髪が青いわけでもロイヤルなわけでもないのに。
 長兄はまた煙草に手を伸ばし、そのついで、いやもはや呼吸のついでとばかりに「いいんじゃないの、それで」と僕に言った。
「アイツだって言ってたじゃん。人間は人間だから変化するって」
 まあそれは西尾先生の受け売りだけど、といちにいはからから笑う。
「お前は真面目すぎるんだよ。別にいーじゃん、昔みたいな人間になろうとしなくても。人の機微に疎くて視線から逃げ出すようなヤツでも」
「だからよくねーって言ってんだろ!」
 煙草が手にあることにも構わず長兄に掴みかかる。長兄はそれを予測していたのか、右手をサッと挙げて煙草の火の危険性を潰す。僕と違って、この人は右手の指で煙草を支える。そんなことにすらイライラして、いっそのことその火を眼球に押し付けて欲しいとさえ思ってしまった。ブルブルと震える僕を、長兄はやはり何を考えているか分からない顔で見下ろす。それが怖い。それが何より怖い。相手が何を考えているか分からないというのは、過去相手の心中を手に取るように把握できた僕にとっては苦痛でしかなかった。
 このままでいい。相手の気持ちを読み取ることができない対人恐怖症のメンヘラ野郎のままでいい。ふざけんな。
 それを認めてしまえば、それを受け入れてしまえば過去の僕が、過去の俺がしていたことが全て無駄になってしまう。何のためにあそこまで社会に紛れこもうと奮闘していたと思っているのだ。何のために、何のために、何のために、「自分のため、だろ?」
 雁字搦めの僕の思考をぶった切ったのは煙草の火でも紫煙でもカッターナイフでもなく、長兄の静かな声だった。
 視線を上げれば、やはり目があう。でも今はそれを、そらそうとは思わなかった。

「自分のためだよ。ジブンのため。後ろ指さされんのが怖くて、人からキチガイ扱いされんのが恐くて、人が離れていくのがこわくてそうやってたんだろ?」
 じりじり。追い詰められていたのは煙草の灰なのか、それとも。
「別にいいじゃん。鬱?トウシツ?対人恐怖症?自傷?なんでも来いだ。兄ちゃんたちは全部受け止めてやるよ。

だからお前はクズでいいんだよ。自分を偽ることはそりゃ社会に出る上で必要だけど、疲れたらやめちまえ。全部俺らが受け止めてやっから」

 ぽとり、と灰が床に落ちた。僕のだった。長兄の煙草はゆらゆらと紫煙を揺らめかせ、そしてそれはゆっくりと、音もなく空気に溶けていった。
 兄の言葉は毒だ。猛毒だ。一番目の兄の言葉も、二番目の兄の言葉も。
 
 しにてえ、と口にすれば、それだけはやめとけよ、と一番目の兄は言った。
 その毒はぐるぐると僕の血液に流され、じっくりその身体を蝕んだ。その毒に殺される日を夢見て、長兄から手を離す。だったら早く僕をころしてよ、にいさん。



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