「人を殺した」
 まるで今の天気の情報を教えるように、こいつは青い唇でそう言った。だから俺はこいつの手を掴んで、財布とアイフォンと煙草とライターくらいしか入っていない小さな鞄だけで部屋を飛び出した。もう夜中の一時を過ぎていたから、田んぼくらいしかない田舎町であるここは真っ暗だ。街頭さえろくになくて、ずっと遠くにあるはずのコンビニのライトと、星くらいしか光源がない。
 初夏とはいえ夜は冷える。薄いパーカー一枚で出てきたことを少し後悔した。こいつの手だって氷のように冷たい。失敗したな、と舌打ちする。
 真夜中だから電車だって動いてない。俺は免許持ってないから車も運転できないし(隣にいるこいつは免許を持っているけど、今は運転なんてさせたくなかった)、人を殺して逃げるのにタクシーというのもなんだかお間抜けだ。自転車でいけるとこまで行ってみようかな、なんてバカみたいなことが頭に浮かぶ。
 とりあえずパトカーの音も何も聞こえないので死体は見つかっていないのかもしれない。それとも、夜中だから気を使ってるのか? いやでもそんな気の使い方はされたいような、されたくないような。

「死体ってどこにあんの? もう見つかっちゃった?」

 結局街頭もない真っ暗な道を、星と月の頼りない光と記憶で辿りながら訊ねる。俺が引きずるような形で歩いているから、こいつは一歩ほど俺の後ろをついてきている感じになっている。首だけ後ろに向けると、青い唇のまま、見つかってない、と、そこだけははっきりとこいつは言った。なら安心だ。誰にも死体が見つかっていないなら、誰かの目に触れる前に消してしまえばいい話だ。どこかで鋸と、包丁と、ミキサーを買って、バラバラにして、刻んで、ぐちゃぐちゃにして、公衆トイレにでも流してやればいい。骨は、確かじっくり焼くといいんだっけ? なんかそういう殺人事件をモチーフにした映画、見たな。もっとちゃんと見ておけばよかった。実際にあった事件を基にしてるから、ウィキペディアとかに載ってるかな。
 これからの行動を頭の中で組み立てながら、死体ってどこ? と重ねて訊ねる。こいつは震える声と手で、雑木林、と死体の場所を差した。ああ、あそこね。確かに普通の人間はあんなところ、動物やゴミを不法投棄するときくらいにしか立ち寄らないだろう。
 本当はすぐに工具を買って死体の処理をしたいんだけれど、こんなド田舎だと深夜もやってる工具店なんてない(そもそも二十四時間営業の店自体が希少だった)。だからどっちにしろ、地元の工具店が開く時間まではその死体の大きさとかを見たり、死後硬直をどうにか食い止めて少しでも解体しやすくするようにするしかない。いやでも、死後硬直って一定時間過ぎると解けるんだっけ? ドラマの知識だし、得たのがだいぶ前だから不確定要素がありすぎる。まあそこら辺はググればいいか。
 とりあえずその死体を見てみないことには始まらない。もしかしたら、こいつが動転して殺してしまったと勘違いしているだけで、気絶していることだってあり得る。だとしても、それって傷害罪とかになるのかなあ。いやでも相手が酔っ払いとかだったら誤魔化せる可能性もある。……こいつが殺したの、酔っ払いだといいんだけど。

 そんなバカなことを考えてるうちに、こいつが人を殺したという雑木林に着いた。雑木林は本当に真っ暗で、月光のわずかな光さえも遮ってしまう。だから俺はアイフォンの光で雑木林の中を歩いた。いやあ、今の携帯ってすごいよね。懐中電灯にも、電卓にも、電話にも、メールにも、スケジュール帳にも、ゲームにもなる。なんにでもなる携帯は、まるでドラえもんの四次元ポケットだ。
 ドラえもんがいたら、この状況もちゃちゃっと、綺麗に片付けてくれるんだろうか。助けてドラえもん、だとかいうつもりはない。俺はそもそも眼鏡じゃないし、黄色いシャツに半パンなんて履いてない。ついでに小学生でもない。だから、青い狸は来てくれない。きっと俺が眼鏡で、くそダサい黄色いシャツに半パンを履いている零点常習犯の小学生だったとしても、ドラえもんは来てくれないだろう。それはただ単純に、俺には未来なんてものがないからだ。未来というより、繋ぐ命というか。後世に残す命というか。単純に言うと、結婚も出産もしない俺は、自分のお先祖様をどうにかして、だなんて言ってくれる曾孫(ん? 孫だったけ? 曾々孫だっけ? 覚えてない)はいないのだ。だから、ドラえもんは来てくれない。

 十分ほど歩いたところで、ずっと握っていた手がずるりと滑り落ちた。振り向いてみても、ほとんど真っ暗な雑木林の中では相手の存在さえ確認するのが難しい。唯一、はっきりとその存在を確認させてくれていた冷たいままの手は、数秒前に離れてしまった。
 本当に真っ暗な雑木林の中を適当に歩いたせいで、どこが今まで歩いた道だとか、方角だとか、そういうものがほとんど分からなくなってしまった。そんな不確かな世界で、不確かなこいつが相変わらず震えた声で、もうやめよう、と言った。

「やめるって、何を」

 何の音も立てずに、アイフォンの光が消えた。きっと充電がなくなったんだろう。ずっとつけっぱなしだったし、そもそも充電あんまりなかったし。よく頑張ったほうだと思う。
 どこにも光源がなくなった、目をよく凝らさないとそこらじゅうに生えている木だとか、地面だとかの輪郭も見えない真っ暗な世界で、こいつの震えが止んだのだけが分かった。

「死体なんて、ないよ」

 全部、嘘だよ。
 俺は手に持っていたアイフォンを、下に何があるかも分からない地面に落とした。わざとだ。もういらないと思ったから。ついでに、壊れてくれたほうが都合がいいと思ったから。
「知ってたよ」
 死体がないことくらい。お前が誰も殺してないことくらい。全部知ってたよ。
 俺の言葉に、こいつがふにゃりと、肉が腐り落ちたかのように笑ったのが分かった。きっと予想通りの答えだったのだろう。そのまま泣いているのまでなんとなく察してしまって、抱きしめるべきなのか、撫でるべきなのか迷って、俺は結局最初と同じように手を握った。冷たい手。愛しい手。
「なら、なんでここに来てくれたの?」
「――ここが、丁度いいと思ったから」
 お前も、そう思ってここを選んだんだろ?
 苦笑すると、こいつは冷たい手で俺の手を握り返してきた。真っ暗な世界で、相手の手だけがはっきりと分かる。
「大丈夫、痛く、しないから」
 分かってるよ。分かってるから泣くなよ。握った手をそのまま引っ張って地面に転がせて、俺の上に馬乗りになったこいつに心の中で呟く。本当は声に出したかったんだけど、けっこう大きな尖った石が背中に入ったせいで咳き込んでしまって、呼吸さえ碌にできなかった。
 こいつの冷たい手は、相変わらず俺の右手を掴んだままだ。じっとりと汗で濡れている。興奮しているのか、緊張しているのか。たぶん両方だろう。
 ようやく呼吸が整ってきた頃、つぷり、と首に注射針が刺さったかのような痛みが走る。そのまま生暖かい液体が首から一筋滑ってくすぐったい。
「お前が、悪いんだよ」
 冷たいものが頬に落ちてくる。手も冷たければ、涙も冷たいのか、お前は。そう思いながら、舌で頬に落ちた涙を掬い取る。しょっぱい。冷たいくせに、ちゃんと涙の味がするのか。

「だって、お前が、お前が、お前が、」

 結婚、してくれないから。

 その言葉とともに、俺への殺意も零れ落ちたのか、数ミリほど俺の首へと食い込んでいたナイフ(……だと、思う。暗くてよく見えないけど)がこいつの手から滑り落ちる。
 俺はため息を一つ吐いて、手探りで闇の中のこいつの頭を探した。……あった。とりあえず撫でておく。よかった、頭は温い。
 ……結婚、結婚なあ。そんなにしたいもんかね、結婚。俺は、してもしなくても、どうでもいい。別に、結婚できなくても、お前といれるならいいと思うんだけどなあ。ほら、事実婚とかあるじゃん。そんなに結婚したいなら、外国にでも行くか?
 その言葉を全部掌にのっけて、頭を撫で続ける。こいつが泣き続けるせいで俺のシャツはぐしょぐしょだった。気持ち悪い。
「……ごめんなあ」
 なんとなく謝りたくなって謝ると、こいつは泣きながら俺の胸を軽く殴った。ちょっと痛い。
 ごめんなあ、ごめんなあ。
 お前と結婚できなくて。



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