一カ月ほど前から一松に監禁されている。いや、一松は俺に足枷をつけることもしなければ手錠をすることもなく、つまりなんの拘束もしていないのだから軟禁という表現の方が正しいのかもしれない。ただ俺を座椅子に座らせて、一松は淡々と一松の日常を回していく。いつの間に契約したのか分からないこのぼろアパートには俺たちしか住人がいない。だからどれだけ音が漏れようと北風が隙間から吹きつけようと、困るのは俺たちだけなのである。俺たちだけのおんぼろアパート。それを作り上げるために、一松はこんないつ崩れてもおかしくない物件を選んだのかもしれなかった。
 一松は今コンビニアルバイトをしている。時給の高い深夜タイムで働くことがほとんどだが、極々稀に昼間のシフトにも組み込まれることがある。実家に何も言わずに出てきた俺たちに仕送りなんてあるはずもなく、生活費を稼ぐために一松は我武者羅に働いていた。親の顔を、兄弟の顔を忘れるため、一松は汗水たらして必死に働く。それは何かから必死に逃れようとしている子供のようにも見えた。
 がちゃり、と音がして、一松が扉を開ける。深夜アルバイトから帰ってきた一松は、ただいまも疲れたも何も言わない。死人のような顔をぶら下げて、ただただ俺がいる部屋に帰ってくる。本当はあの温かい箱庭に帰りたくて帰りたくて仕方がないのに、一松はそれでも俺のもとに戻ってくる。これではどちらが監禁されているのか分からない。
 俺はげっそりと痩せこけてしまった一松に対して何も言えない。もともと細く薄い一松の身体は、俺を監禁してから更に骨と皮だけの存在になってしまった。ふらふら、ふらふらとおぼつかない足取りで靴を脱ぎ、手に持つビニール袋の重みにすら負けそうになりながら部屋に上がる。
 そして合いも変わらず座椅子に鎮座している俺を見て、絶望したような、失望したような顔をする。まだそこにいたのかと、猿ぐつわさえさせられていない俺に対して、何故そこにいるのかといったような目を向ける。おかしな話だ、俺をここに連れてきたのは一松自身に他ならないというのに。だというのに、一松はそんな顔をする。その顔がどうにもこうにも可愛らしくて、俺もついつい意地悪をしてしまう。もっともっと可愛い、他の誰も、兄弟すらも見たことのないような表情が見たくて、俺の中の悪魔が頭をもたげる。だから俺は、何も言わずに一松を出迎える。いつも通りの、この一カ月一日も欠けることなく続けられている、俺たちの日常だった。

 一松は落ちくぼんだ目を十秒ほど俺に向けてから、そっとその視線をそらした。それが残念で、俺はますます意地悪をしたくなる。もっと俺を見て欲しい、もっと俺だけに向けるその表情を見せて欲しい。だから俺は倒れそうになる身体を支えるため壁に手をつく一松に、何も言わない。びゅうびゅうと壁の隙間から入ってくる北風だけが、俺たちの間にぶら下がっていた。
 一松は数秒、壁に手をかけ項垂れると、またのっそりとした動作で動き始めた。がさごそとコンビニバイトで手に入れた廃棄弁当を安っぽい材質のテーブルに放り、温めることもしないままそれを開封する。ぴりぴりとビニール包装を剥き、それを床に放る。片付ける人間がいない部屋は、そんなゴミでいっぱいだった。きっと臭気も酷いことだろう。しかし俺たちしかいないおんぼろアパートに、苦情を言いに来る人間などいるはずもない。この城の周りに民家はなく、あるのはただ鬱蒼とした廃墟ばかりが立ち昇っている。よくこんなところの物件を出そうと思ったものだ。会ったこともない業者の方々に呆れを通り越して敬意を払ってしまった。
 しかし今の俺たちにとって、これほど恵まれた物件は他にない。周りに何もなくて、俺たちしか住人のいないおんぼろアパート。いくら北風に吹かれようが、ちかちかと点滅する電気しかなかろうが、俺たちには関係ない。誘拐犯である一松にとって、人に目立たないという条件でここまでに適した土地はきっとこの一件を除いて存在しない。俺にとっても、可愛い可愛い弟が犯罪者としてトップニュースに躍り出ることは御免被りたいので、この土地はむしろ俺たちにとって楽園だと言えた。

 一松は新発売と書かれたシールの貼ってあった弁当を開封し、ちらりと俺に視線を寄こす。その視線には明確な怯えが浮かんでいて、いよいよどちらが誘拐犯であるのか俺は分からなくなる。俺をここに幽閉したのは一松であるはずなのに、まるで俺の方が犯罪者であるようだった。ただその表情がこれまた可愛くて、可愛そうで、俺はまた意地悪をしてしまう。弁当に手をつけようとしている一松を、じっと見つめてしまう。
 その様子に、一松はとうとう嘔吐した。あわてて立ち上がり、げーげーと流し台に向かって吐瀉物を吐き出す。つんとした酸っぱいにおいが部屋に充満したのだろうが、それを上回る煙草やゴミの交じった臭気のせいで有耶無耶にされた吐瀉物は、俺の鼻腔をくすぐる結果にはならなかった。
 大して吐くものもなかったのか、苦しげに呻きながら、一松は蛇口をひねって吐いたものをすぐに流した。くるくると回り排水溝に吸い込まれていくそれは、きっと胃液ばかりの黄緑色のものであるのだろう。この一カ月、一松はほとんどものを食べられなくなってしまっていた。俺の前でともなれば尚更。それが可愛そうで、可愛くて、俺は無表情を貫きながらひっそりと心の中でほくそ笑むのだ。こんな姿、兄弟のうち俺以外誰一人として知ることはないのだろう。こんな、弱々しい一松の姿など。
 一松はよれたパーカーの袖で口を拭いながら、またよたよたと俺の前に腰を下ろした。俺はふかふかの高級な座椅子に座っているのに、一松は畳の上にぺたりと尻を付けている。誘拐された側より誘拐している側の方が待遇が悪いとは何事か。そう思ったことは何度かあったが、一松がかたくなに俺を座椅子から下ろそうとしないので、俺はそのままここに座っていることとなった。
 一松がまた俺に視線を向ける。びくびくとしたその様子は、悪戯が発見されるのを恐れる子供にも似ていた。叱られることに、怒られることに怯えて背筋を丸める哀れな子供。きっと今頃俺たちを探し回っている兄弟たちから逃れている一松には、なるほど的確な表現だと言えた。
 俺だって同じようなものだ。こんな弱々しい、俺だけの一松を他の人間に見られるなんてゾッとしない。たとえ同じ受精卵からなった愛しい兄弟であったとしても、この一松を見せることなんて許されない。本当はアルバイトにだって行って欲しくないのだ。だというのに、一松は俺を置いて、何の拘束も何の束縛もせずに仕事に行く。それに行くなと怒鳴りつけたいところだが、仕事に行こうとするたび名残惜しげに俺を見る一松や、帰宅して俺がまだいることに絶望する一松を見ていると、それもチャラにしてやろうかという心の余裕が生まれてくる。俺はもともと、心の広い男なのだ。だから、アルバイトだけは許してやろうと、監禁された当初から決めていた。

 一松はしばらく俺と視線をかち合わせていたが、そのうち再びそれをそらし、開けかけの弁当へと手をつけ始めた。電子レンジのない我が家では、これを温める術がない。だからいつも、賞味期限の切れた食物は冷えたまま食されることとなる。それもすぐに排水溝やゴミ袋に吸い込まれていくのだから、これぞ不毛というものだろう。
 一松は震える手で不格好に割れた箸で白米を一欠片掬う。がたがたと震える指で割ったそれが綺麗な半分になっている筈もなく、一松の手を傷つけはしないかとそればかりが気になった。一松はそんな俺の心配も露知らず、俺の口元へと白米を近づけた。
「ねえ、食べてよ」
 指と同じように震えた声が、縋るように俺に請う。これがつい一カ月ほど前まで俺を罵倒し暴行していた人間の出す声だとは到底思えない。しかし現実として、この声の持ち主は一松に他ならなかった。わずかな希望を乗せた表情で、食べてと俺に懇願する。その姿の、なんと可愛らしいこと! だから俺はその表情がもっと見たくて、やはりその行為を無視するのであった。
 そんな俺に、一松に浮かべられていた一縷の希望の糸がするすると解かれていく。食べて、食べてと何度も言いながら、一松はぐいぐいと俺の唇に白米を押し付ける。ぼろぼろと白米が落ちて、とうとう箸に何も載せられなくなれば、もう一度それを弁当の中から掬って同じ動作を繰り返す。壊れたブリキのように、一松はその行為を何度も何度も繰り返した。白米がなくなれば、今度はそれに備えつけられていたおかずに箸を向ける。
「ほら、お前の好きな唐揚げだよ」
 そう言って、一松はひんやりと冷たくなった唐揚げを俺の前に差し出す。一松のぶるぶるとした震えを伝える衣のかかったそれは、きっとたいそう美味しいことなのだろう。だってこんなに可愛らしい一松の手から俺の口に放られるのだ、美味でないはずがない。
 しかしそれでも、俺はそれを口にしなかった。ただただ黙って、そんな様子の一松を見つめ続ける。一松はとうとう泣き始めてしまった。「食べて、食べてよ!」ヒステリックに喚きながら、一松は俺の顔に弁当箱を叩きつけた。そして床に散らばった弁当の中身を手にとり、「食べて、食べて」と泣きながら俺の唇にそれらをぐいぐいと押し付ける。ぽろぽろと流れる涙は、まるで天使のそれだ。なんと美しく、神々しいことだろう。

「お願い、食べてよぉ、カラ松兄さん……」

 そう言って、一松は泣き崩れた。項垂れて泣いていては、あの美しい涙が見られない。それが残念で、俺は心の中で眉を潜める。ああその顔を上げておくれと顎を掴んでやりたい。もっと可愛そうで可愛いそのかんばせを見せておくれと囁きたい。それでも俺は動かない。そんな俺に、やはり一松はますます泣きじゃくるのだった。
「ごめんなさい、ごめんなさいカラ松兄さん」
 何を謝ることがある。こんな可愛い一松の姿を見られるのならば、監禁くらいなんてことはない。むしろ何故もっと早くに監禁してくれなかったと眉を下げるばかりだ。だというのに、一松は泣き続ける。涙を流しながら、ごめんなさいと、許してと俺に請う。そんな一松に、俺はますます胸を打たれるのであった。なんて可愛らしく、美しく、哀れな男であることだろう。この男のこんな姿を見るのは、俺だけで構わない。俺だけでなくてはならない。


 だから今日も今日とて、死体である俺は腐り落ちながらこの可愛そうで可愛らしい弟を見つめ続けるのだった。



BGM:しかばねの踊りbyきくを





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