レジに商品を放り投げると、従業員である若い女の子の顔にサッと赤が差した。もともと人工的な頬染めをしていたのに、そこに更に血行がよくなったものだからまるで長距離を完走したかのような有り様になっている。マスカラをばっちり決めて、カラコンまで嵌めている子だったから意外だった。あんたの方がこれのお世話になってそうだけど、と喉まで出かかった言葉を寸でで止める。いくらなんでも失礼すぎる。というか、女子高生にしか見えないこの子にそんなこと言ったら最悪通報される。それだけは御免被りたい。そもそも初対面の女の子に声をかけるコミュ力が、僕にあるはずもなかった。
 マニュアル通りにことを進めていく彼女に従って金額ぴったりのお金を差しだし、袋を受け取る。あまりに軽すぎた。こんなもので、こんな千円ちょっとで買えるこんな安っぽちなもので生命の有無が確認できるだなんてギャグでしかなかった。
 化粧コーナーできゃらきゃらと口紅の色を選んでいる女子高生の声をBGMに店から出る。自動ドアのところでさびれたサラリーマンとすれ違った。パリッとしたスーツとは対照的に虚ろな表情をした彼はまっすぐ栄養ドリンクのコーナーに行くと適当に何本かを籠に入れ、レジへと向かった。社会の荒波にもまれた末の人類を見ているようで、敬礼したくなる。ありがとうございます、貴方がたが税金を納めてくれているおかげで、僕たちは病院や綺麗な道路を使うことができています。消費税くらいしか納めていない非勤労者は彼に向って会釈をする。目があった彼は、一瞬だけ海馬からこれが自分の知り合いであるかを探って、すぐに違うと分かると目をそらしてレジの女の子へと視線を戻した。正しい判断である。
 外に出れば、夕方だというのに容赦なく照りつける夕日の斜線にうんざりした。クーラーの効きすぎた店内にいた分、尚更である。グッピーなら死んでた。
 安っぽい袋に入った安っぽい箱を持って、帰路に就く。下校時間とぶち当たったのか、高校生やら中学生やらと何度もすれ違う。今日あったこと、授業のこと、気に食わない教師のこと、友達の悪口。そんなことをけらけらと無邪気に笑い合いながら、彼らは家へと向かう。温かい食事が待っている、我が家へと帰っていく。あのくらいの年頃だと親が煩わしい時期だろうか。反抗期だもんね、仕方がない。
 僕たちにも反抗期があったことにはあったのだが、親に当たったことは一度もなかった。六つ子という、テレビ番組にも出られそうな多児出産を命がけでしてくれ、なおかつ皆平等にしっかりと育ててくれた両親に対しての敬意が、皆の根っこにあるからということもあるのだろうけれど、母さんは異常なほどに僕たちとの距離の取り方がうまかった。父さんは特別へたくそというわけではないが、ちょっと口うるさい。普通のうちだと反対なのかな。高校の時耳にするのは(クラスメイトとその話題で盛り上がったわけではない。教室でしていた会話が聞こえてきただけだ。つーかそんなことを話す友達とかいなかったし)母親が口うるさいだとか、そういったものだった気がする。父親の話題もあったのかも知れないが、それはもう記憶の中から抹消されている。無駄なキャパは取りたくないからね。
 両親へと向かわなかった反抗期の矛先は、当然社会と学校に向かっていった。学内放送で何度松野の名前が出たことか。圧倒的におそ松兄さんが多かったけれど、他もどっこいどっこいだ。高校生になってからは、そんなこともなくなったけれど。今思うと、何故あんなにも学校に反抗していたのか当時の僕たちの脳内を覗かない限り思いだせそうにもない。もっともこの年になっても定職もアルバイトもしていないところを見ると、社会への反抗期は未だ健在なのかもしれない。こじらせすぎだ。
 でもごめんね母さん、父さん。真っ赤に染まったアスファルトを歩きながら、心のうちで謝罪する。命がけで産んでくれ、ありったけの愛情をこめて育ててくれた両親に向かって頭を下げる。父さん母さんごめんなさい、僕たちは今から世界で一番の親不孝ものになります。返答は、勿論なかった。怖くてその謝罪を口にすることも、その返答を聞き入れることも、僕は一生できないのだろう。きっとずっと、死ぬまで心のうちでしかごめんなさいと言えないのだ。許してくれだなんて請うつもりは毛頭ない。僕たちはきっと、初めから間違っていたのだ。初めから間違っていたものは、最初から誤っていたものはどうあがいても間違いのままで、誤りのままでしか成りえない。だから僕は、両親に向かって謝罪する。ごめんなさい、許さないでいいから、これだけは聞いてください。こんなつもりはなかったんです。

「ただいま」
「おかえり」

 返答は一つだけ。両親はまだニート六人を養うために仕事に向かっているし、他の松はどうだか知らないけどいなかった。最初から知っていた。こいつがどう手筈を済ませたかは知らないが、今日は夜まで僕たちの他に誰一人として家にいないように仕向けたのだ。別にいてもいいのに。そう言えば、記念すべき日に野暮なことは起こしたくないだろうとにこやかに言われた。本当はもっとごてごてと、女子高生のプリクラよりも盛りつけられた言葉で囁かれたのだけれど、それらを外して直訳すれば、そんなようなことを言われたのだ。野暮。野暮なのは僕たちだろうに、どんな皮肉だと笑い飛ばしたくなった。それこそ野暮だから、そんなこと勿論言わなかったけれど。
 玄関に腰掛けているせいで見上げる形になっている奴の目はとてつもなく澄んでいる。こいつの自意識と一緒。透き通り過ぎているほどに、透き通っている。硝子というのは不純物が入っているからこそ透き通っているのだとどこかで聞いた。だとしたらなるほど、こいつの目がこれほどまでに透き通っているのも納得がいく。不純物だらけのこいつは、透明なのだ。うんざりするほど、ゾッとするほどに。
「ずっとここで待ってたの」
「ああ、待ちきれなくてな」
 僕がサンダルを脱いで家に上がれば、それにとたとたとカラ松は付いてくる。それは親鳥だと思いこまされた玩具についてくる雛鳥を思わせる。自分を産んだわけでもないのに、初めて目にしたからという理由でそれが自分を守り育ててくれる親だと信じ込まされた哀れな雛鳥。
 歩くたびに手にひっかけたビニール袋が水子のように揺れる。だとしたら窓から差し込む夕日は、堕胎の際の出血か。笑えない表現だ。
 トレイの前にたどり着くと、僕はそれをカラ松に渡した。袋から取り出した箱はあまりに小さい。両手に納まってしまうそれは、今か今かと使用されるのを心待ちにしていた。その有り様にうんざりする。茶番だ、こんなの。でも最初から間違いに間違って誤りに誤りまくっている僕たちには茶番すら茶番にすることができない。少なくとも今目の前にいる透き通った瞳の持ち主は、これをまるでサンタクロースからのプレゼントのように思っているのだ。いや、サンタクロースからのプレゼントというより、ネバーランドへの渡来チケットかもしれない。何時まで経っても子供のままでいられる夢の国への切符。もちろん片道分である。僕たちに帰りの分のチケットは渡されない。ずっとずっと、子供のままでいられる時間の歪んだ島に幽閉される。お似合いだと思った。僕たちみたいな人間は、そこに一生監禁されるのがお似合いなのだ。
 安っぽい箱で包まれたそれに、カラ松は花が綻ぶように破顔した。表情筋が腐りきったかのようにだらしない顔で微笑み、目を細める。透き通った不純物だらけの目を、細める。それは神の子を抱く聖母を思わせた。バブみとやらは勿論感じない。むしろ妊婦の腹を無理やり裂いて這い出てきた赤ん坊を抱く悪魔を思わせるそれから目をそらし、「じゃ、僕は上で待ってるから」と踵を返す。

「ああ、すぐに知らせに行くからな! 楽しみにしてろよ!」

 何をどう楽しみにしろっていうんだ。上る階段はまるで十三階段だ。十四段目は勿論ない。まっさかさまに落ちて、宙づりである。その末路がお似合いなのに、僕は落ちることなく部屋の襖をあけることができた。縄に首を通して空中ブランコすることが当然なのに、僕はそれができない。する気もない。それは僕が臆病であることもあるし、カラ松に負けず劣らず僕の頭の螺子も数本、緩んでしまっているからだろう。もしかしたら螺子の代わりに蛆虫でも嵌めこまれているのかもしれない。だとしたらなるほど、僕のこの腐りきった脳みそにも納得がいく。僕の頭は、どろどろに溶けきって、腐りきっている。きっと蛆虫に捕食され穴だらけであることだろう。その穴に埋め込まれるのが何であるのか、知ろうとも思わない。世の中には、知らない方がいいこともあるのだ。
 ソファに座り込み、膝を抱える。まるで胎盤で眠る赤ん坊のようだ。あの頃が一番、僕たちが正しかったときではないだろうか。胎盤にぎゅうぎゅうと六人で押し込まれ、狭い狭いと泣いていたあの頃が一番、僕たちは人間として間違っていなかったに違いない、と考えて、そんなこたぁねえかと苦笑する。きっと僕たちは、受精卵が六つに(本当は八つだったのかもしれない。何かの本で読んだ気がする。だとしたら、残りの二人はどこに行ったのだというのだろう)分裂した時点で、どうしようもなく間違ってしまったのだ。どうしようもなく、修正のしようもなく。
 おそ松兄さんだったら笑い飛ばすかもしれない。チョロ松兄さんならキチガイを見るような目で否定するのかもしれない。十四松ならば首を傾げてそれは違うと首を振るのかもしれない。トド松ならば笑えない冗談だと無視するかもしれない。
 でも僕は兄弟たちが取るであろう行動の片鱗すら実行することができなかった。カラ松のあの笑顔に頷き、薬局に赴いた。否定する言葉など、持つはずもなかった。いや、持ってはいたのだろうけれど、それを口にできるわけがなかった。不純物だらけのあいつに、純度の高い言葉をかけることなんて、できなかった。それは僕が優しいからでもなんでもなく、弱虫だったからだ。弱虫で、臆病で、今のこのへどろを敷き詰めたかのような状況を、漱ぐ気にはなれなかったから。他の兄弟ならきっとそのへどろを落とそうと躍起になったことだろう(……本当に、そうだろうか)。でも僕は何もしない。弱くて脆くて小さい自分を守ることに精いっぱい。だから何もしない。何も言わない。僕もハッピー、カラ松もハッピー。これが本当のハッピーエンド。なんちって。
 脳漿の海で溺れている僕の意識を、階段を駆け上がる騒がしい音が浮上させる。一段飛ばしでもしているのか、階段を上る音の回数が少ない。そんなに急いだら転げ落ちるだろうがとも思ったが、屋根から落ちてもピンピンしているこいつが階段から落下したところでたんこぶ一つ作らないだろうと、そんな考えを杞憂に終わらせる。本当に、何もかもがおかしな実兄だ。
「見ろ一松!」
 外れるのではと思わせるほど勢いよく、カラ松が襖を開ける。というか実際外れた。がたがたと歪な音を立てるそれに、さすがに直さないと母さんあたりに怒られるなとそんな的外れなことを思った。とても、今から襖を壊すどころの話ではない惨事を起こそうとしている人物の思想だとは思えない。カラ松と一緒にいすぎて、僕にもこいつのサイコパス気質が移ってしまったということだろうか。狂気は伝染する。それは本当のことだったようだ。

「陽性だ! 俺の、俺たちの赤ん坊が出来たんだ!」

 涙ぐんで騒ぎ立てるカラ松の手には妊娠検査薬が握られている。ぐいぐいと僕の顔に押し付けるそれを手にとり、目の前に持ってくる。そこにはしっかりと、十字架が刻まれていた。救世主が磔刑させられた十字の印。これを生命の有無に使うだなんてとんだブラックジョークだと思った。
「これでずっと一緒にいられるな」
 とうとう涙を零しながら、カラ松が俺に抱きつく。ぎゅうぎゅうと力加減を知らない子供のように抱きつかれては息ができない。子供のような有り様ではあるが、こいつは正真正銘の成人男性、それも兄弟の中で一番の馬鹿力だ。肋骨や背骨がみしみしと嫌な音を立てて、軽く咳き込む。それにすら気付かず、カラ松は僕を力強く抱きしめながらよかった、よかったと涙声で何度も繰り返した。
 よかった。いったい何が。いったい何がよかったというのだろう。抱きしめられた際に手から零れおちた十字架に視線を落とす。
 歪な十字架が、早く俺たちを処刑したげにひっそりと嘲笑っていた。





 赤ん坊ができた、とカラ松が言い出したのは今朝のことだった。朝ごはんを済ませ、だらだらと猫と戯れていた僕に向けて、そんな言葉を放った。俺たちの子供ができたんだ、一松。その異常な様子に、猫は一目散に窓から逃げ去ってしまった。当然、残されたのは僕とカラ松だけである。
 さっきまで猫がいた空間からカラ松に視線を向ければ、やはり不純度百パーセントの笑顔がそこにあった。溜息を吐こうとして、やめる。今この瞬間そんなことをするなんて自殺行為に等しい。だから僕は、「それ、本当なの?」と嘆息の代わりに声帯を揺らすしかなかった。
「ああ、本当だ」
 どこからそんな自信が出てくるのか。さすがサイコパス。いもしないカラ松ガールを探して日夜奮闘する男。神様も今頃どこでこいつの作り方を間違ったのかと頭を抱えていることだろう。それはきっと、僕にも言えることだろうけれど。
 猫じゃらしを放る。音もなく畳に落ちたそれを見ながら「証拠は?」と質問してみた。こういった風に言えば、こいつの目が覚めて少しはまともになるんじゃないかと思ってのことだった。視線を再びカラ松に向けると、不思議そうにこちらを見つめる目とかち合った。本当に、何を言っているのか分からない、とでも言いたげな目だった。何を言ってるか分からんと言いたいのはこちらの方だというに。知らず、頭を抱えそうになる。
「証拠? 証拠が必要なのか?」
「必要だよ。母さんたちとか納得させるために」
 何を納得させるんだ。うちの次男はとんでもないサイコパスキチガイですという証拠か。それならこの言動だけで首が折れるほど頷かれ、そのまま精神病院にぶち込む手筈は整うはずだろう。
 カラ松は僕の言葉に納得したように顎に手を当てると、「じゃあ証拠を作らなきゃな」ととんでもないことを言った。くそ、僕の偏差値ではどうやらこいつを正常に戻すことは叶わなかったらしい。きっと東大卒名誉教授だとしても、そんなことは無理なのだろうけれど、一縷の望みでも持っていなきゃやっていけない。世知辛い世の中なもんである。
 立ち上がる。証拠。証拠ねえ。その作り方をこいつに任せたらとんでもない大惨事になることは目に見えている。明々にして白々だ。だから僕は立ちあがった。さすがにニートというだけで世の中に迷惑をかけているというのに、これ以上世間様に迷惑をかけるわけにもいかない。テレビのトップニュースに産婦人科を襲った殺人鬼として自分と同じ顔が映し出されるのも寝覚めが悪い。
「妊娠検査薬、買ってくる」
 本当に手にするべきものは精神科への紹介状であることは明白だったが、そんなものを書いてくれる人物に心当たりはない。だとしたら僕がやるべきことは、こいつに現実を叩きつけてあげることだけだった。少しでも、少しでもこいつがまともになるようにと、奮闘するだけだった。
 カラ松はそれは名案だとまたにこやかに笑った。何が名案なんだか、まったくもって分からない。僕がやりたいことも、全然分からない。僕はいったい、この実兄をどうしたいのだろう。
 薬局に行く間も、薬局で品定めをする間も、学生たちとすれ違っている間も、僕はずっと考えていた。僕はこいつを、どうしてやりたいんだろうって。どうしてあげたいんだろうって。勿論答えは出なかった。とんだポンコツである。死に晒せ。


 よかったよかったと泣きながら笑うこいつのせいで肩口がどんどん湿っていく。震える身体を抱きしめる。カラ松は泣いていた。当然、歓喜の涙ではない。悲しみと虚しさと不甲斐なさとどうしようもない感情からの、からい涙だった。
 本当はこいつも分かっている。僕も男、こいつも男。当然子供ができるだなんて有り得ない。もう少し科学が進歩すればできるようにもなるのかもしれないが、普通のセックスをすることでありもしない子宮に赤子ができるわけもない。それは、僕も、そしてカラ松も痛いほどに分かっていた。痛いほど、苦しいほど分かっていた。
 検査薬は陰性だった。それを無理やり陽性に見えるようにマジックで線を一本加えただけ。幼稚園児だって見破れるそんな誤魔化しは、僕たちにとっては絶望でしかなかった。非生産的な関係。何も結ぶことのない関係。それが残酷なほどに、僕たちの前に叩きつけられる。だいたい突っ込まれるのは僕の方なのにどうやってカラ松に赤ん坊ができるというのだ。どんなミラクルだ。それでもカラ松は縋った。赤ん坊という希望にしがみついた。伸ばした手は払いのけられ、いもしない赤ん坊にせせら笑われる。それが、僕たちの関係性だった。どうしようもなく間違っていて、誤っている関係。
 泣くカラ松の頭を撫でながら、どうして僕は女じゃないんだろうと強く思った。そうしたらこの胎に、こいつの子供を宿すことができるのに。大きくなっていく腹を見て微笑むこいつを見ることが叶ったのに。どうやら僕はとことん神様に嫌われているらしい。どれだけ精子を注ぎ込まれても、どれだけ愛を囁かれても孕まないこの身体はとんだ欠陥品だ。そんな身体を愛するカラ松も。

 今度産まれる時は女にしてもらえるよう神様にお願いしよう。そうして柔らかな身体でカラ松を抱きしめながらセックスしようと思った。二人でささやかな結婚式を挙げて、誰にも知られず二人で暮らそう。子供を育てて、当たり前の幸せを手にしよう。
 そんな馬鹿みたいな夢を見ながら、カラ松を透き通らせている諸悪の根源である僕は囁いた。好きだよ、カラ松。そんな僕を、歪な十字架が睨みつける。どうやら僕の死因は磔刑らしい。お似合いだ、と苦く笑う僕の頬に一筋、何かが伝った。それを拭ってくれる相手など、いるわけもないのに。ああもう誰でもいいから、僕たちを助けてよ。



title by 唾恋
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