一松兄さんの趣味はちょっと、否かなりおかしい。六つ子という異端者の集まりである僕たちの中でも抜きんでていると思う。その理由は公衆の面前で平然と尻を出し脱糞しようとしたりする痴漢であることでも、バッドにくくりつけられそのまま素振りをされるという虐めっ子も真っ青なドMの所業をなしているからでもない(この場合、バッドを振りまわしている十四松兄さんも十四松兄さんで相当イカれてるんだけど、十四松兄さんだからセーフ。だって十四松兄さんだから)。その真の理由は今この瞬間、僕の隣にある。
 短い髪を出来る限りセットしてふわふわなラインにした小さな頭の上に載せられた黒いハット、目頭から目尻にかけて濃くなっていくラメ入りのアイシャドウ、限界まで塗り手繰られた黒いマスカラ、その目を縁取るアイライン。そしてそれらの下地に被せられた今季発売されたファンデーション。極めつけには、肌の白さを強調するような真っ赤な口紅。そういえば赤い口紅が流行ってるって女の子たちが言ってたな。でもデート向きではないのだそうだ。飲んだり食べたりして落ちるとかなり目立つし、なんだか遊び人のようで男受けはしないのだと。僕は可愛いと思うけどね、赤リップ。デートにつけてこられたらその唇から目が離せなくなることだろう。もっとも今は、目をそらしたくて仕方がないのだけれど。
 スマフォに視線を落としていない通行人たちは一様に僕たちに振り返る。それは同じ顔が二つあることに驚いているのではなく、単純に隣の人物に視線が向かうのだろう。赤リップには誘蛾作用でもあったのだろうか。ならばなるほど、女の子たちがデートする際につけたがらないはずだ。デートの時はデートらしく、可愛らしいピンクでも塗るのがお似合いということだろう。
 喉仏を隠すために上げられた白いタートルネックはだぼだぼだ。体型を誤魔化すためだろう。もともと隣の人物はひやりとするほど細い。チョロ松兄さんもチョロ松兄さんで細いのだけれど、あれは均整がとれている細さだ。この人の細さは、見る人の不安を煽る。それはきっと、拒食症患者を見た時のものと似ている。
 膝より少しだけ高い位置まである赤いスカートから伸びる足にはロングブーツが履かされている。そのヒールのせいで、隣の人物の頭が常より高い位置にある。猫背だから分かりにくいが、この人は僕より身長が高い。そこにヒールなんて履かれたら目も当てられない。周りからは微笑ましい視線をもらうことだろう。キチガイを見る目じゃないだけマシだと思うべきか、微妙なところだ。

「あそこだよ」

 目的地であるパンケーキで有名なお店の看板を見つけ指差す。隣の人物の視線がこちらに向けられ、嬉しそうに眦が下げられる。
 嬉しそう? それはようやっとパンケーキ屋についたことへの安堵からではない。こうして、こういった格好で外を出歩き、SNSにきらきらとした画像を投稿する女の子たちと同じことができることへの、歓喜からだった。反吐が出る。それに付き合う僕も僕だ。僕の頭はトチ狂ってしまったのだろうか。兄弟の中では、一番の常識人だと思っていたのだけれど。
「じゃ、いこっか」
 ぶら下がっていた手を取る。骨ばったそれはとてもじゃないが女の子のやわい肌とは似ても似つかない。
 どこからどう見ても背の高い女の子にしか見えない一松兄さんは、声を出さずに頷いた。そこに浮かぶ愉悦の表情は見なかったことにした。


 一松兄さんには女装癖がある。それもただレディースの服(そもそも一松兄さんの体型に合うサイズがあることにまず驚いた。つーかどこで買った)を着て姿見の前で恍惚に溺れるだけの、そんなソフトなものではない。僕以外の兄弟に隠れてこっそり高い化粧水と乳液をつけ、エロ本と共にワックスやらコテやら髪留めやらを隠し持っている。そして宝箱だと自称する箱(僕からしたらただのクッキーの入っていた安っぽちな缶だ)の中には、女子大生だって気軽に手を出せないようなちゃんとしたメーカーの化粧道具がぞろりと揃っている。口紅だけで六本も持っていると知った時はさすがに引いた。どんな用途で使い分けるんだ、それ。
 女の子が一番好んで使いそうなピンク色のものから、オレンジっぽいもの、限りなくベージュに近いもの、真っ赤なもの、ラメ入り、僕には色の違いが分からないようなものまでなんでも揃っている。今一松兄さんがつけている真っ赤な赤リップは最近のお気に入りらしい。世の中のことなんて全く興味がないくせして、こういう流行にだけは敏感らしい。その心意気を少しでも就活に生かせたらと、このことをチョロ松兄さんが知ったらそう思うことだろう。
 いや思わないか。運ばれてきた甘味を控えたカフェラテを啜る。あの自称常識人がこのことを知ったら、目を剥いて仰天した後信じられないようなものを見る目で一松兄さんを凝視するに決まっている。その弊害がこちらに来ないように、きっと僕は素知らぬ顔で雑誌を読みふけるのだ。意味分かんねーよ。呆然と呟くチョロ松兄さんの声が容易に想像できる。そう言われた一松兄さんの表情は、残念ながら僕の頭では予想できなかった。
 カフェラテより少し遅れて運ばれてきた女子力が爆発し四散したような食べ物に一松兄さんの顔はきらきらと輝いている。いつもは酷く淀んでいる目も今は化粧も助けて死んだ魚のような目というより色っぽいお姉さんみたいなことになっている。おかしい、僕に女きょうだいはいないはずなのに。
 甘いものは嫌いではないけれど、このパンケーキという、小麦粉と生クリームの比率が偏り過ぎている食べ物を頼む気にはなれなかった。だからお洒落なテーブルの上に載せられているお皿は一つだけ。その隣には紅茶が湯気を立てて鎮座している。いつもはブラックコーヒーしか飲まないくせに。そういう些細なところにまで女の子であろうという気遣いをするのが、この松野家四男松野一松という僕の二つ上の兄だった。
 一松兄さんはスマフォを持っていない。というか僕以外兄弟のうちで誰一人としてそれを手にしている者はいない。だから一松兄さんは可愛らしいカバーに包まれたスマフォでパンケーキを撮ることも自撮りをすることも叶わない。SNSのアカウントだって勿論持ってないから(持っていたとしても知らないし、少なくともこの光景を載せることはないのだろう)、これではまるで女子力アピールをするためではなく本当に、単純に、パンケーキのこの甘さを味わいに来ただけのようにも見える。勿論そんなわけがない。甘いものがそこまで得意ではないのだ、この兄は。
 だから、そう。
 本当に、女子力をアピールする為だけにこの店に赴いている。

「はーい、こっち向いてー」

 間違っても兄さんなんて呼ばない。意外と隣席の会話というものは聞こえるものだ。そして今の一松兄さんは、良くも悪くも目立っている。今だって近くの席の男たちが目の前の彼女をほっぽりだしてちらちらと視線を寄こしている。その放置された彼女たちですら一松兄さんに視線を送るのだから、行き過ぎた美貌は嫉妬すら湧かせないのだなと理解した。美貌という表現は、いささか大袈裟すぎる気もするけれど。
 スマフォを構えた僕に向かって、一松兄さんが控え目に笑う。紅が引かれた唇が、上品に弧を描く。無意識なのだろうか。そうである気もするし、計算である気もする。女の子に成りきる為に、一松兄さんは女子よりも女子を研究しているから。一松兄さんのエロ本の山に挟まれて、その量をゆうに超える女性雑誌があることを、僕は知っている。だからこそ、無意識の、無防備な笑顔だとは信用しきれなかった。まあ女の子ってそういうもんだしね。可愛く見えるよう計算してなんぼっていうか。
 かしゃりと写真を撮って液晶を見る。そこにはショートカットの可愛らしい女の子が映っている、わけもなかった。他の人が見たら紹介しろと言われるような画像であるのだろうけれど、僕からしたら女装癖持ちの変態兄貴がパンケーキの前で計算高くはにかんでいるようにしか見えない。実際その通りの光景である。しかしこの画像を見るのはきっと僕の友達であって兄弟ではないので問題ないだろう。兄弟だったら一発でばれてしまう。これが一松兄さんだということが。
 一松兄さんに撮った写真を見せれば満足そうにしてフォークとナイフに手を伸ばした。納得のいく角度だったのだろう。やはり自分が一番可愛く見える角度を知り尽くしている。僕なんかよりよっぽどあざといじゃないか。このデートごっこの代金は全て一松兄さん持ちだから一向に構わないけれど。
 何重にもぐるぐると積み重ねられた生クリームを崩さないように気をつけながら、一松兄さんはパンケーキをナイフで切り分ける。上に乗ったその白い塊を端にどかさないことも、女子力なのだろうか。絶対皆どかしてるでしょ。僕だったらどかす。邪魔すぎる。
 切り分けたパンケーキに生クリームと添えられていたブルーベリーを載せ、一松兄さんが小さく口を開けて頬張る。これが僕のバイト先で脱糞未遂をしでかしたキチガイだなんて、誰が信じてくれようか。きっと兄弟しか信じてくれないに違いない。しかし悲しいかな、その同意を得てくれる唯一の兄弟にはこのことは絶対に漏らしてはいけない決まりとなっている。漏らしたが最後、僕は三途の川への通行券を叩きつけられることだろう。勿論片道分だけである。
 口を最小限に開けてパンケーキを食べる一松兄さんは女の子そのものだ。この格好になってから一度も声を出さないところも徹底しすぎるほどに徹底している。どうあっても、どんな角度からでも、一松兄さんは今この瞬間、女の子だと思われたいのだ。女の子だと、認識されたいのだ。桜色のマニキュアを塗られた爪がきらりと光る。


 一松兄さんのこの悪癖もとい女装癖が始まったのがいつからなのか、実を言うと僕も知らない。僕が知った時にはもう既に一松兄さんは女装の仕方をマスターしていて、どこからどう見てもいい匂いのする可愛らしいお嬢さんになる術を知り尽くしていたからだ。
 ねえトド松、デートしてよ。
 そんな一言から、僕たちのこのおかしな関係は始まった。完璧に女の子になりきった実兄との、秘密のデート。誰向けだ。そして誰得だ。一松兄さん得か。行く店行く店の代金は全て一松兄さんの財布からということでタダでおいしい食事やデザートを食べられるから僕にメリットがないわけではないのだけれど、如何せん状況が奇抜すぎる。なんだよ、女装した兄とデートって。ネットのエロ広告の方がもっとマシなシチュエーションを提供してくれる。
 それでも僕は一松兄さんのこの誘いを断ったことは一度としてなかった。一度何故デートの相手に僕を選んだのか訊いたことがあったが、返された言葉は馬鹿馬鹿しくて笑う気にもなれなかった。トド松が一番女子力高いから。僕が一松兄さんの女装にドン引いてそのまま家族会議になる流れを想定しなかったわけでもあるまいに。結果として僕の心が銀河より広いおかげで事なきを得たが、なんだかそれは一松兄さんの思い通りに動かされているようで気に食わない。カフェラテを飲み干す。一松兄さんは生クリームの高層ビルと格闘中だ。その様すら計算されつくされた動作で、呆れを通り越して感動した。本当に、何故その熱意を他に向けられない。

「なんで女装なんてしてるの」

 その質問を、僕は記念すべき一回目のデートで投げかけた。見送り三振されるかと思ったその質疑は、当時可愛らしい春色に囲われた口から、あっさりと打ち返された。そう言えば、デート中に一松兄さんの声を聞いたのはその時が最初で最後だった。その言葉はあまりにその唇の色にそぐわないもので、いっそ笑い飛ばしてしまいたくなったものだ。ばっかみたい。そう言ってあげていたら、一松兄さんはこんな馬鹿な真似をやめていたのだろうか。こんな、すらりとした美人を模倣することを、やめたのだろうか。そうである気もするし、構わずそのまま女装を続けていた気もする。どちらでも構わない話だ。だって僕には関係ないから。兄であるとはいえ傍から見たら綺麗で可愛らしい女の子だ。それを連れている僕に向けられる羨望問嫉妬が綯い交ぜになった視線。これを手放そうとは到底思えなかった。

 だから僕は何も言わない。一松兄さんのお誘いに笑顔で頷くし、腕だって組んであげる。女の子が好きそうな可愛らしいお店を案内して、そこに入って仮初の女の子を演じる一松兄さんを温かく見守る。今被っているハットだって僕が選んであげたものだ。ううん、やっぱり僕っていい男だなあ。
 いい男は何も言わない。女の子の言うことに笑顔で頷き、そうだねと同調する。意見なんて言わない。そんなことをしたら見るに堪えない修羅場が待ち構えているに決まっている。男女の差というのは、どうあっても取り払えないものなのだ。

「ね、おいしい?」

 笑みを浮かべて問えば、目を細めて頷く一松兄さん。耳にかかった髪がさらりと偽りの頬染めをした顔にかかる。どこからどう見ても、綺麗で可愛らしい僕の兄。不憫で可愛そうな僕の兄。


「カラ松が女の子を好きになるから」


 だいぶ前に聞いた低い声の解答が、耳の奥で反響した気がした。



BGM:ワイフbyシド




×