多分、一番初めに喉を突いて出たものは絶叫だった。母音だけで構成された、とても日本語だとは思えないようなそんな声というよりも音と称したほうが正しいであろう、そんなもの。随分長いこと叫んでいたように思う。後々唾液を飲み込むのでさえ苦痛を伴っていたことを考えると、おそらく喉が擦り切れていたのだろう。まさに血を吐くような叫び、いやこの場合、実際血を吐きながら僕は叫んでいたようだった。濁点の代わりに血を塗り手繰って、音を迸らせていた。だというのに、当時の僕は全くその音を感知できていなかった。聴覚というのは別に鼓膜からだけではなく、骨を伝ってだって刺激されるというのに、それすらされなかったということは、音を感知する皮質がいかれていたか、もしくは聞こえていたが認知できていなかったか、それともその音だけをすっぱり忘れ去っているのか、そのうちのどれかなのだろうか。どちらにしろ、僕には僕の絶叫が、叫換が、咆哮が、喚呼が、聞こえなかった。ただただ肺が勝手に空気を送って、声帯が勝手に震えて、口が勝手に開いていた。びりびりと空気が震える感覚だけを肌が感知し、眼筋がおかしくなったかのように狂った動きをする眼球がとらえる視界で、タンマウォッチを使われたみたいに動かない四つの顔があった。一様に固まって、瞬きさえせずに僕を凝視している。それでも僕の喉は止まらなかった。自分の肺活量はこんなにあったのか、と目を覚ましてから思い返して驚くほどの長い時間、僕は叫び続けていた。ぱたん、と本棚にあった本が振動で倒れる。それを最後に、僕の視界は真っ暗になった。チョロ松兄さんに言わせれば実際には僕がきっちり失神するまでには叫び終わってからまるまる三時間を要したそうで、その気絶の仕方が十四松による手加減なし容赦なし躊躇なしの鳩尾への殴打だったのだから、ははあ僕って存外体力と筋力があったんだなあと感心してしまった。被害が子供部屋と称しつつそこで寝泊りしているのは成人男性というちぐはぐな一室と、チョロ松兄さんの左の上腕骨と尾てい骨、十四松の右拳の骨頭部と全身の打撲、トド松の右腓骨と左頬の痣、そして僕の鎖骨と右耳朶とまあその他諸々まる三日は目覚めなかった怪我だったという時点で、僕ってもしかして六つ子の中で一番のダークホースなのでは? と思ってみたり。ちなみにおそ松兄さんは僕が暴れ回って壊し回って狂い回っている間、ずっとベランダで煙草を吸っていたらしい。よっておそ松兄さんの被害は窓が割れた際に飛んできたガラスで切った右頬の一本線くらい。いったかったよおいちまちゅう、と絆創膏をさすりながら言ったおそ松兄さんの頭をチョロ松兄さんが渾身の力で殴ったから、二次被害も含めれば脳天のたん瘤も一応入る。六つ子保険はもちろん適用されない。いや、この場合誰にも適応されないわけであるのだけれど。先にもいった通り、僕はほぼ三分間叫び続けた結果手に入れたほぼ三ヶ月は声が出ない上に出せるようになってもひどい嗄声になるであろうという声帯の損傷と、三時間に渡って子供部屋を廃屋にしようとした結果訪れた身体のいたるところに発生した身体の損傷と、そして何より、三秒にも満たない時間で告げられた言葉によって三日間眠っていたわけである。そして今は夏だった。夏というのは物が腐りやすい。そりゃもう腐りやすい。なまものを冷蔵庫から出してそこらへんに放っておいたら数時間もすれば異臭を放ってしまうような猛暑だったのである。つまり、僕が眠っている間に、松野カラ松の葬儀はそつなくこなされ、そしてあいつのたくましい密度が高そうな骨は、小さく折りたたまれて小さな壺へと収容されていたのだった。これが、松野カラ松が死んでからの、僕たち六つ子の三日間の全容である。僕の地獄がけたたましいファンファーレとともに開幕された、ある夏の日のことであった。


 松野カラ松の訃報を不幸にも最初に受け取ったのは、何かと貧乏くじを引きがちな三男坊ではなく、騒々しく受話器を取りがちな五男である松野十四松だった。その日に限って玄関扉を吹き飛ばすこともなく静かに電話を取ったのだから、もしかしたら何かと動物的勘とも呼ぶべき第六感が優れているこの弟は、相手の言葉を聞く前からなんとなくことの内容を察していたのかもしれない。だとしたらひどい男であるものだ。その言葉を僕に、僕たち兄弟に告げる前に松野一松をボンレスハムか何かのようにぐるぐる巻きにしてしまっていれば、莫大な医療費やリホーム代を両親に払わせることもなかったのに。後の祭りもいいところだ。後の祭り、というか、たられば、というか。まあ僕がどれだけ過去を恨んだとしても僕の喉はもう聞き取りにくいことこの上ないがらがら声しか出せないわけであるのだし、みんなの怪我が治るわけでも、部屋がきれいに元通りになるわけでもない。だから僕は、ごめんねと謝りながら僕の鬱血した腹をさするこの五男坊に、首を振るだけだったのである。内臓破裂はしていなかったのだから、もしかしたら無意識に加減してくれたのかな、とも思うし、十四松の腕力に勝る内臓の耐久力を僕は持ち合わせていたのかもしれない、と夢想する。どちらにしろ、どうでもいいことだ。僕たちの目の前に横たわるのは医療費でも部屋の修理費でもなんでもない、松野家次男、松野カラ松が骨になってしまったという、ただそれだけのどうしようもない事実だけだった。
 納骨は僕が退院するまで済ませなかった。というか、僕が退院したあとも済ませることはできなかった。理由は、僕がカラ松の骨が入った壺を後生大事にずっと抱きかかえていたからである。風呂の時でさえ手放さなかった僕をトド松が諫めようとして、結果家の風呂場の修理費まで付け加えられることになってからは、誰一人として胎児を守るかのように青い骨壺を抱く僕をとがめるようなことはなくなった。墓はもう決まっていると言っていた。もともとあった墓では六人入るには窮屈すぎると、父さんの知人のつてで大きな、それでいて静かな霊園に墓石を建てることができたといつだったか耳にした。僕はそれを、ふうん、でもカラ松の骨が入るのはだいぶあとなんだから、今建てるのはいくらなんでも早すぎないかなあとぼんやり思った。みんなは無表情で父さんの言葉を聞く僕を、悲しそうに、哀れそうに、それでいて気味悪そうに見つめていた。ただ一人、おそ松兄さんだけがよかったねえいちまつう、カラ松と一緒の墓に入れるってよお、俺たち死んでも一緒じゃん! と笑ってトド松に蹴り飛ばされていた。壁に激突したおそ松兄さんより、蹴ったときの衝撃が骨折に響いて悶絶するトド松のほうが痛そうだった。僕はそれを、つるりとした骨壺を撫でながら眺めていた。まだ八月が終わってから数日しか経っていないはずなのに、肌にべったり張り付くような残暑の空気や、折れた鎖骨を伝う汗のくすぐったさを全く感じない、不思議な九月のことだった。おそ松兄さんはいってえなあ、と頭をさすりながら、いじけるように唇を尖らせていた。


 カラ松が死んだとしても地球は回り続けるし太陽は昇るし季節は巡るし時間は過ぎ去る。その回った地球の上で、昇った太陽の下で、廻った季節の中で、過ぎ去った時間のもとで、僕とおそ松兄さんと青い骨壺だけが何も変わらなかった。チョロ松兄さんは年を越す前に就職を決めて寮に入ることになった。トド松はフリーターをやりながら友達の家に居候させてもらうらしい。十四松は、ついこの前北海道のほうへと飛行機で飛び去って行ってしまった。なんでも、そっちに例の彼女がいるらしい。リア充だねえ、とおそ松兄さんは笑った。十四松は笑わなかった。十四松の笑顔どころか、カラ松が死んでから、おそ松兄さんを除いた兄弟のうちの誰一人、笑うことがなかった。おそ松兄さんがそれを気にしていた風な様子は全くない。いつものように笑ってたし、いつものように煙草をふかしていたし、いつものようにパチンコで玉を打っていた。僕もおそ松兄さんについてパチンコ屋に入ったこともあったのだけれど、胸に抱えた骨壺を頭の悪そうな金髪男に揶揄われて、その男の肋骨を胸を突き破らせて外界と外科医にこんにちはさせてから出禁になってしまって、それから一度もあの騒々しい空間には赴いていない。そんなことをしておいてなんで警察は僕を捕まえにこないのだろう、別に死刑にならなけらば数年間くらい大人しく刑務所のお世話になるのにと不思議に思っていたら、どうやらミスターフラッグが手を回してくれたらしい。持つべきものは友と金だなあと思った。青い骨壺はやっぱりつるりと輝いたまま静かに僕の腕に収まっている。
 正月になっても、チョロ松兄さんとトド松は理由をつけて実家には帰ってこなかった。唯一十四松だけがちゃんと帰ってきて、いまだに僕の膝の上にカラ松の骨があることに目を見開いて、そしてそれを誤魔化すように曖昧に笑った。おそ松兄さんが、もう一松に会いに来なくていいよお十四松、と言ってから半年、僕はあの弟と一度も顔を会わせていない。十四松だけじゃない、チョロ松兄さんとも、トド松とも、僕はこの半年、一度も会っていなかった。僕がふらりと散歩をしている間に帰ってきているらしいので、完全に疎遠になったわけではないらしい。別に会いたかったわけでもないので、僕は少しでもみんながあの家で団欒できる時間を増やすべく、カラ松が入った青い壺を抱えながらあっちへふらふら、こっちへふらふらと歩き回った。町を歩く僕を見る目は赤塚区で有名な六つ子を見るものから、兄が死んで狂ってしまった可哀想な男へと変貌していた。誰も近づかないし、誰も声をかけない。ただただ目を合わせないように、早く僕から離れるために速足で横を過ぎ去っていく。別に取って食うわけじゃないんだから、と思いながら、僕はぴかぴかな骨壺を大事に大事に抱えていた。


 おそ松兄さんが家を出よう、と言ったのは、カラ松が死んでから一年と少し経ったあとだった。相変わらず、カラ松は青い壺に入ったまま僕の腕の中に鎮座している。
「おそ松兄さん、一人暮らしできんの」
「ばあか、お前も来るんだよ」
 意外に思いながらそんな言葉をがらがら声で放れば、それはきれいな放物線を描いて僕に返された。おそ松兄さんは鼻の下を擦りながら、相変わらずにやにやと楽しげに笑っている。その日のうちに、僕は二十数年間慣れ親しんでいた実家から誘拐されることとなった。連れていかれた部屋は、家から一時間ほど歩いたところにあるぼろいアパートだった。いつだったかトド松が一人暮らしをするために借りたなんちゃら荘よりも老朽した雰囲気を醸しているこの建物の住人は僕たちだけであるらしい。そりゃそうだ。カラ松しか持ってきていない僕は着替えとかどうするんだろう、ごはん大丈夫かな、そもそもガスとか水通ってるのかな、と割と現実的なことを考えていた。
 甲高い音と濁った重低音の不協和音を立てながら錆びだらけの扉を開ける。どこか夢心地で足を踏み入れた部屋は、擦り切れた畳の小さな箱だった。ここで孤独死したら片付けが大変そうだなあというのが第一印象である。おそ松兄さんはやっぱり得意げに鼻の下を擦りながら、ハタ坊に頼んで格安にしてもらったんだぜ、と言った。格安だろうがただではないのだし、いったい誰がその生活費を出すのだろうとも思ったが、ふうん、とだけ返して、僕は固い畳の上にカラ松を抱えて座り込んだ。窓から入る西日で宙に舞っているほこりがきらきらと輝いている。カラ松の上に落ちるそれを払っている僕の横に、おそ松兄さんがどっかりと腰を下ろした。
「なあいちまちゅう」
 安っぽいライターの音をさせて、おそ松兄さんが煙草に火をつける。煙草のすすけたものと、どこかかび臭いこの部屋のものが相まって独特のにおいを作り出していた。
 ぎょろり、とおそ松兄さんの目玉が回って僕を射止める。おそ松兄さんの目に映り込んだ僕は相変わらず青い壺を大事に抱えたまんまだった。その棒切れのような僕の手を、おそ松兄さんがやんわりなぞる。少しだけ伸びた爪は白く僕の肌を傷つけて、そしてすぐにうっすらと蚯蚓腫れを作らせた。
「ずるいじゃん」
 何をいまさら、と思いながらおそ松兄さんの言葉を聞いた。おそ松兄さんの指は僕の肌から青い壺に移り、僕が毎日毎日丹寧に磨き上げていたおかげでぴかぴかなまんまの陶器の表面をいとおしそうに撫でていた。
「俺も誘ってくれたらよかったのに」
 にんまりと笑いながら、いたずらっぽくおそ松兄さんが言う。同じようにカラ松が入った壺をなぞりながら、だって、と瞬く。
「カラ松と一緒になった僕を食べたほうが、おそ松兄さんも手間取らないかなあって」
 僕らは世にも珍しい一卵性の六つ子。つまり一卵性だったってことは、もともと一つだったのだ。一つだったものは、また一つにすべきだろう。だって本当は一つで生まれるはずだったんだから。六つに分かれて生まれてきたのは神様の手違いだ。だから僕は、僕とおそ松兄さんはそれを戻してあげようと思っていただけ。神様の間違いを優しくただしてあげようとしていただけ。だからこうなることは必然だった。僕が兄弟のうちの誰かを殺して食べて一つになることは当然だった。
 本当はもっとあとになるはずだった。もっとちゃんと手順を踏んで、みんなに納得してもらって、誰が誰を食べるか決めてもらってからこうするはずだったのに。カラ松が全部悪い。カラ松がすべて悪い。だって、結婚しようと思ってるだなんて言うから。お前だけに教えてやるぞだなんて、幸せそうに言うもんだから。全部が狂った。すべてが狂った。だから殺した。カラ松が、六つ子のうちの誰かが兄弟以外のものになるだなんて許されることじゃない。許されていいことじゃない。だから殺した。殺して食べた。でも僕一人じゃ食べきれなくて、だからおそ松兄さんに会って、相談して、ちょっと計画が狂ったけど、ちゃんとみんなを説得して少し早くなってしまったけど一つになろうと思っていたのに。ちょっと目を離して、おそ松兄さんと話すために家に帰った少しの間で、カラ松は見つかってしまった。まだほんの少ししか食べていなかったのに。まだ少ししか一つになれてなかったのに。まだ、まだ、まだ。そうして僕は絶叫した。叫換して咆哮して喚呼した。おそ松兄さんはそれを見て、すべて察して、静かに煙草を吸っていた。
 カラ松の骨を食べるのに一年もかかってしまった。骨壺というのは案外大きくて、燃やされた人間というのは案外骨が残っていて、こんなにも時間がかかってしまった。でもこれで大丈夫だ、これで何もかも大丈夫だ。だってこれで、松野カラ松と松野一松は一つになることができたのだから。
 ぱかり、と青い骨壺を開ける。そこにはあとほんの一口だけ、カラ松の骨が入っていた。これを食べれば、これを飲み込めば、僕とカラ松は完全に一つになることができる。計画は完璧だ。多少のイレギュラーはあったが、もう何も恐れることはない。壺に手を入れて骨を取り出す。夕日に照らされるそれは燃えているようでもあった。にこりと笑って、おそ松兄さんに振り返る。
「あとはよろしくね、おそ松兄さん」
「あたぼうよ、任しとけって」
 おそ松兄さんはそう言って、得意げに笑った。ああなんて安心できる存在だろう。僕らはおそ松兄さんから分裂して生まれた。僕らはおそ松兄さんの一部だ。おそ松兄さん自身だ。だからおそ松兄さんと一つになることに恐れなんて抱くわけもなかった。
 ごくり、と僕が最後のカラ松を飲み込むのと、おそ松兄さんの指が僕の喉に絡まったのは、ほぼ同時だった。気道をふさがれる圧迫感に思わず呻く。見上げた先のおそ松兄さんは、優しい、慈しむような笑みを浮かべて、穏やかに僕を見つめていた。そのことに思わず涙がこぼれる。ああ、おそ松兄さん、おそ松兄さん、僕らの兄さん、僕らの、おかあさん。ああ、なんて甘美な時間だろう。とてつもないほどの安堵感に身体が歓喜でわななく。震える手を伸ばしておそ松兄さんの頬を撫で、僕はゆるりと笑った。
「ただいま、おそ松兄さん」
 おかえり、と静かに重ねられたおそ松兄さんの唇のぬくもりを最後に、僕の意識は完全に闇へと墜落していく。不安はない。恐怖もない。あるのは、途方もないほどの多幸感だけである。それにうっそり笑いながら、最後に一言。
 チョロ松、十四松、トド松、それじゃあ、まあ、

「一足お先に」
 


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