2020/09/16
「文盲という言葉があるだろう」
 依那古の庭を、まるで己の実家の庭園かのように闊歩しながら、?木は口ずさんだ。よくもまあ煙草を咥えたまま喋れるな、と一種の感心、そうして会話の際にも絶対に手放さない?木の執着心に少しだけ呆れを滲ませながら、ええ、と依那古は答えた。
「俺はあれをずっとぶんもうと読んでいてね。本当の読み方を知った時はひどく驚いたよ。ぶんもう、の方が、絶対に語感がいいと思うんだけどな」
「けれど、もうそう辞書に登録されてしまったんだから、変えようがないわ」
「君は実に詰まらない女だな」
 まるで自分の作品さえ詰まらない、と言われてるように感じて、依那古は眉をぎゅっと潜めた。?木は不躾なことを言った自覚がないのか、それとも不躾だと自覚した上でそれを聞いた他者がどのように思おうが興味がないのか、気まずさを全く滲ませない顔でくるりと振り向いた。相変わらず、髪は女がうらやむほどに艶やかな、線の細い美青年だわと依那古は思った。しかし、?木を見た人間が彼に情欲を覚えることはまずない。美術館に飾られた裸婦画に性をかき立てられる人間がそういないように、?木を見た人間も性欲を刺激されることはないのだ。彼自身、自分のことを童貞だと宣っていた。それを聞いた時、依那古はほっとしたような、逆に不安なような、ひどく不思議な境地に陥った。
「まあ、ぶんもうだろうが、もんもうだろうが構わないのだけれどね。最近、文章の意味をくみ取れない人間が多いと世は憂いているだろう。あれは実に馬鹿らしい考えだとは思わないか」
 虐待と一緒さ、と?木が紫煙を吐き出し、煙草の灰を依那古の庭にある小さな池に落とした。餌だと思ったのか、優雅に泳いでいた鯉が口を開閉させて水面に顔を出す。?木はそれを心底愉快げに見下ろしながら、口から離していた煙草を再度吸い始めた。
「昔だって、文章の意味をくみ取れない奴なんて馬鹿みたいにいたよ。けれど皆、その存在を知らなかっただけさ。インターネットが普及して、そんな存在が目に這入るようになったから、最近の人間は、だなんて愚かな物言いをするのさ」
「嘆かわしいことね」
 依那古は目を細めて吐き捨てた。文字を理解しないことは人間を理解しないことに等しい。文章の意味をくみ取る能力は、場の空気を読むことと同義だと依那古は考えていた。それができないということは、つまるところ人を慮ったり気遣ったりということができない不出来な人間だと依那古は心底そういった者たちを睥睨していた。それを?木に伝えた時、?木は心底面白そうに唇をゆがみ、君がそう思いたいだけだろ、と含ませたような目を依那古に向けた。君は、そう思いたいだけだ、自分の小説を理解しない人間は、人間として不出来だと、そう思いたいだけさ……。依那古は確かに、?木の真っ黒な眸からそのような声を聞いた。
「嘆かわしいかな。むしろ、それが人間の面白いところだとは思わないかい」
「本当に貴方は人間が好きね」
「ああ、面白くて、愉快で、愚かで、こんなに可哀想で可愛い存在はまたといない」
 ?木はそう言って、短くなった煙草を池に落とした。水面にぶつかり、煙草の断末魔の悲鳴が響くと同時に、鯉が吸い殻を水しぶきとともに呑み込む。ああもうあの鯉はだめだわと依那古は冷静に思った。



2020/09/11
「現代作家なんて滅法読まないから、とても新鮮な気持ちだったよ」
「お嫌いなの」
「嫌いではない」
 彼はそう言って煙草の煙を窓の外へと吐き出した。気障ったらしい所作ではあるが、彼の黒髪がきらきらと日の光に照らされて、それを紫煙が白く濁らせる様は、嫌味なほど絵になった。私が画家だったらこの姿を一枚の絵に収めたいのかと思ったのかしら。しかし彼女は画家ではなく小説家であったがために、彼の髪の一本一本、煙草を挟む指に埋まった爪、薄い唇から吐き出される紫煙を、文字で表現しようと頭の中を巡らせた。黒髪は樹木が地面に落とした影、爪は子供が割った花瓶の破片、紫煙は荼毘の煙。
「一番最近に読んだ現代作家の本は、石田衣良の娼年だったかな」
「あれはただの官能小説よ」
「その通り」
 にやりと彼が笑う。卑しい笑みであるはずなのに、どこか少年のような無垢さがある。
「ただ、官能小説だったとしても小説は小説さ。小説に偉いも偉くないもない。官能小説だったとしても、堅っ苦しい純文学だったとしても、現代作家が手がけた砕けた文章だったとしても、ライトノベル作家が作った奇天烈な作風の小説も、全て小説さ。小説にあるのは偉い、偉くないではなく、好みか好みではないかの二つだけだ」
 彼女は開こうとしていた口を、そっと噤んだ。確かに彼の言う通りかも知れない。そもそも、それはきっと小説に限ったことではないのだろう。小説も、絵も、その他の創作物、人が作り出したものは皆、いや人工物に限らず、この世にあるものは皆そうだ。偉い偉くないではなく、好みか好みではないか。そうして、人数が多い方を、常識と人々は呼ぶのだ。彼女はここに来てようやく、彼と話す、この煙草くさい時間を好ましく思った。ああ、私はこの時間を、好ましいものだと認識している。それはきっと、素敵なことだわ。



2020/05/27
 虫が飛んでいる。小さな黒い羽虫だ。別に煩くはない。ただ時々視界の隅に這入って気が滅入る。こういう場合蠅が集ると思っていたのだけれど現実は違うらしい。この部屋には蠅もゴキブリもおらず、いるのは僕と小さな羽虫だけだ。異臭はしない。けれどそれは僕の嗅覚がとっくの昔におだぶつになっているからかもしれなくって、要するにいつ隣人にあそこの部屋匂うんですけどとか通報されても抵抗するすべを持たないということだ。最近自粛自粛で皆部屋に引きこもっているから、いつもならば気にならないことも気になってしまうんだろう。皆気が立ってるし。ちらりとキッチンの前に放置しているあれに目をやる。中身を覗いたことはない。この部屋を飛び交う羽虫がその中に所狭しと蠢いていたらしばらくご飯が食べられなくなりそうだからだ。あれ、どうすればいいんだろう。セブンで買ってきたグレープフルーツソーダを飲みながら独りごちる。匂いはしない。くゆる紫煙の中で小さな羽虫だけが羽ばたいている。消臭剤でも置いておこうかな、と思ったけれど、そんなものなんの意味もなさないことを思い出して溜息を吐く。頭をがりがりと掻く。焦燥感はない。不安感もない。あるのは、ただの面倒くささだけだ。この羽虫の元凶である、ビニール袋に這入った、あの、



2020/04/16
 なんと言いますか。文豪風に言うのならば恥の多い人生を歩んできた、とでも始めればよいのでしょうが、俺は俺の人生のことがよく分からないのでそんな書き出しもできません。恥の多い人生だったのでしょう。でもそれって、みんなそうなんじゃないのかしら。でもみんな、それを忘れたり、受け入れたりして、生きていくんじゃないのかしら。俺はそれができませんでした。自分のいいところが分かりません。そもそもあるのかすら知りませんが。人に褒められても真っ向からその言葉を受け入れられません。友人と喋っていても、副音声で俺の悪口を言う言葉が聞こえます。自意識過剰というやつでしょうか。そうなのでしょう。でもそれって、治るものなのかしら。病院には行っていません。昔は行っていた気がします。今は、もう、何もかもが面倒で、お薬をもらっても飲まないものですから(面倒くさいので)、お金が勿体ないなあと思って、行かなくなったのだと思います。俺はいつからこうなってしまったのでしょう。涙は出ません。だって、泣いたところでどうにもならないですし、自分が何をすべきかなんて、自分が一番よく分かっているのです。ちゃんとすればいい。それに尽きるのです。ちゃんと働いて、ちゃんと生活して、ちゃんと笑えばいいのです。昔はできていたはずなのです。でも、今はそれができません。なんだか骨が泥にでもなってしまったみたい。身体を持ち上げるのに時間がかかります。でもばかみたい、お酒だけは飲むんですよ。お酒は、いいものですね。嫌な気持ちを忘れさせてくれる。たくさん飲んで、いっぱい吐くと、なんだか自分が少しだけ綺麗なものになった気がします。自分の中の汚いものを全部吐いて、綺麗になったような気になります。錯覚ですが。自傷もやめられません。なんででしょうか。痛いですし、血が出て汚れますし、でも、なんでしょうね、これをすると、なんだか自分が生きていていいような気がするのです。錯覚ですが。だって、誰も俺を裁いてくれないのです。人間は生まれた時点で罪人だと説いたのは、いったい誰だったかしら。みんながみんなそうだとは思いません。でも、少なくとも俺は罪人なのでしょう。いいやこれすら違う。俺は自分のことを罪人だと思い込んで、普通に生きられないのは罪人だからと勝手に理由を作っているだけなのです。人でも殺せばいいのでしょうか。でも、家族に迷惑がかかると思うと殺せません。本当のところ、俺はさっさと死んだ方がいいのだと思います。首を吊るなり、ビルから飛び降りるなり。でも怖くてできない。中途半端ですよね。俺はできれば、人のために死にたい。生きたいと思っている人に、臓器をあげて、人にいいことをして死にたい。だって、人のために死ねるって、素敵なことじゃあないですか。なんだかそれだけで、救われた気になるんです。お前は産まれてきてよかった人間なんだよと、言われている気分になります。脳死になるには、いったいどうすればいいのでしょうか。わざと脳死になるっていうのは、難しいですね。献血が好きです。人のために何かをしてあげられている気分になるから。俺は、何がしたいのでしょうか。俺は、どうすればいいのでしょうか。いいえ、いいえ、こんなこと、訊くなんて、野暮ですね。簡単なことです。ちゃんとするか、死ぬか、の、二択なんですよ。ああ、俺、どうしたいんだっけ。何がしたいんだっけ。もう、よく分かりません。俺が死んだら、みんな、びっくりしたあとに、ああやっぱり、と思うのではないでしょうか。俺を助けてくれようとした人がいました。でも、離れていきました。俺は手に負えない人間なのだそうです。しょうがないと思います。本当は、あのとき、お前に助けて欲しかった。でもそれって、俺の独りよがりなんです。それからは、人に助けてもらいたい、とは、あまり思いません。誰も救ってくれないので。人って、寂しいですね。みんな、一人きりで死んでいくしかないんです。ああ、主語が、大きかったですね。少なくとも、俺は、多分、一人で死んでいくのだと思います。ああ、一人で死ぬって、寂しいことだけれど、とても、安心することですね。俺は、人と話すの、嫌いではないですが、どうしてか、副音声が聞こえるんです。俺を蔑む声。分かってますよ、それが幻だってことくらい。でも、頭が痛いとき、その副音声が大きく聞こえて、もう、どうしようもなくなるんです。分かってますよ、自分が死んだ方がいい人間なんだってことくらい。でも、それって、どうすればいいのかしら。ああ、ばかなこと、言いましたね、死ねばいい、ただそれだけなのに。さっきから同じところをぐるぐる回っています。俺は病気なのでしょうか。よく分かりません。でも、昔、誰だって死にたいと思ったことがある、と言われました。お前だけじゃないと言われました。だから、病気じゃないのだと思います。俺は、病気じゃなくて、ちょっと怠けているだけで、はは、はは、ははははは。ああ、頭が、痛い。切った腕が痛い。早く、誰かのために死んで、お前は産まれてきてよかった人間なんだよと頭を撫でてもらいたい。そんなこと、夢物語であることは、それこそ痛いほど、分かっているけれど。


午前二時
2020/03/01

人って案外簡単に死ぬんだなあ。煙草を吸いながら君が言う。僕は君になんて言ったらいいか分からなくてただおろおろと目を泳がせていた。君は特に困った風もなく、どこか感心した様子で今さっき絞め殺した女を眺めていた。
「なんだか、女の人って別の生き物みたい。こんな簡単に殺せるなんて」
だから女の人が被害者の事件って減らたいんだね。だって、同じ人間だとは思えないもの。君はそう言って煙草を吸う。僕はおろおろしながらこんなところで煙草吸ったらまずいんじゃないと君に言った。君がぽかんとして目を瞬かせる。
「なんで?」
だって、ほら、証拠が。
「そりゃ、吸殻とか残してったら証拠になっちゃうけど、匂いくらいじゃ分からないでしょ」
君はそう言ってケラケラ笑う。人を絞め殺したばかりだというのにケラケラ笑う。僕は君を心底恐ろしく思った。逃げようよと震える声で言うと君はこれ吸い終わったらねと呑気に言う。僕は本当は背を向けて逃げ出してひまいたかった。けれど、逃げるという行為にも勇気は必要で。僕はただただ震えてその場に立ち竦んでいるしかなかった。
なんで殺したの。
「えー、なんでかなあ。殺せそうって思ったから、殺しちゃった」
君の彼女じゃなかったの。
「うーん、わかんない。えっちはしたことあるけど、付き合ってたのかなあ」
君、女の人、嫌いなの?
「好きとか、嫌いとかで考えたことないなあ。だってほら、別の生き物だし」
君はそう言って煙草の火を舌で消した。熱くないのと聞くとコツがあるんだよと君は笑った。これからどうするの。僕がそう聞くと、君は頭を掻いて、どうもしないよおと新しい煙草に火をつける。
「捕まって、刑務所行って、そこで自殺しておわり」
自殺するの?
「だって刑務所だと、煙草吸えないし」
でも映画とかだと、刑務所でも煙草吸ってたよ。
「それは映画の話だろお」
君はそう言って笑う。人を殺した後だというのにさっぱりした笑顔だ。どうしよう。僕は途方にくれた。君に捕まって欲しくない。君に死んで欲しくない。でも僕は君の罪を隠せるほど度胸のある人間じゃない。今だって、死体が目の前にあるという事実に泣きそうになっているのだ。なんで君は大丈夫なんだろう。君は、女の人が別の生き物に見える、と言った。僕はそう思えない。女の人も僕と同じ人間で、ちょっと身体の作りが違うだけだ。なのになんで、君はあっけらかんと別の生き物だなんて言えるのかしら。
僕がおろおろしてるのが分かったのだろう、君は煙草を咥えながら猫みたいに笑った。
「警察に通報していいよ」
ぶんぶんと頭を横に振る。
「じゃあ一緒に捕まる?」
ぶんぶんと頭を横に振る。
「お前、面白いなあ」
そう言って君はケラケラ笑った。僕たちと死体と煙草の煙だけがある部屋の中心で君は笑う。僕は途方に暮れて、君を見つめるしかなかった。さっきまで人間だと思っていた君が別の生き物に思えて、でも君も人間で、僕はただただおろおろとするしかなかった。死体は動かずごろりと畳の上に転がっている。君は笑って煙草を吸っている。僕は途方にくれておろおろしている。紫煙が目に入って視界が滲んだ。涙で歪んだ部屋の壁にかかった時計は午前二時を差していた。丑満時だ。



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