月光のさす場所3

皆守はアロマパイプに煙草のような物を挿して火を付け、超至近距離で嗅いでいる。たまに吸っているから煙草みたいに見えるが、いわば咥えるタイプのお香だ。

皆守の愛用しているアロマパイプはショットガンという煙草のヤニ除去装置に似ていた。ショットガンと比べて皆守のやつはデザインがかなり凝っていて、シルバーアクセみたいに大きい。専門職の人間が作らないといけないレベルだろうから、買うとしたらいうまでもなく高いやつだ。意外と金持ちだな、あるいは自作したならかなり手先が器用だ。カレーにあれだけ凝るんだからありえない話ではない。市販しているショットガンを使ってもいいわけだが、デザインがかなりダサい。だからアロマパイプを持ってるんだろう。

ちなみにショットガンの役目はフィルターだ。ニコチンとタールを濾過して肺に吸い込む量を軽減し、葉が口の中に入ってしまうのを防ぐ。中が開けられ、フィルターのカートリッジが入っていて、何本か吸うたび中のカートリッジを差し替える。

皆守が煙草ではないと主張しているから、あのパイプ煙草にはタールでもニコチンでもないアロマの煙がかなり吸着しているんだろう。

皆守が吸っているアロマはいうまでもなくラベンダーだ。シソ科の植物で学名はlavo(洗う)やliveo(青みがかった鉛色)が由来だと言われている。

アロマテラピーでのラベンダーは葉と花から抽出した香りの成分(これを精油という)を使用する。青い小瓶がラベンダーの「精油」が5ミリ900円前後。一回に使う精油の量はそんなに多くないのでこの価格と量でも結構長持ちする。天然のもので1年ほどで使い切り。

効果は優れた心身共の鎮静作用、安眠の為に使われ、体には皮膚の炎症やかゆみに効果あり。自律神経のバランスを取り、体全体の免疫作用を上げるといわれている。消毒殺菌、抗ウィルス作用、火傷、不快なにおいを取り去る。

基本の使い方はオイルを水に希釈して風呂にいれたり、嗅いだりするんだが、合成香料だから直接吸うとまずい。

だから皆守曰く、アロマスティックは特別な燃焼財にスティックのオイルを染込ませてシガーもどきを精製している製品なのだという。意外と手間がかかる。

しかも皆守はかなり高い濃度でラベンダーを摂取していることになる。濃度が高ければその分強い効果が在るというわけでもなく自分が「心地いい」と思うくらいが一番効果を発揮する。男性は女性と比べて嗅覚が鈍いので、それも要因かとも思うが、皆守の場合は心理的な要因が大きいからなんともいえない。

1回試してみるかと言われて渡されたことがあったのだが、皆守はなれてるからこそ美味いというのだろう。私は煙草の要領で吸ってしまったせいでラベンダーが利きすぎた。少々舌がピリピリした。メントールとは違うスースー感がかなり残ってしまい、笑われた。

だから、それだけ大事なはずの皆守のアロマパイプが教室の机においてあるのをみたとき、忘れたかポケットから落ちたのを誰かが拾ったのだろうと思ったのだ。

「甲ちゃん、アロマ忘れてるよ」

「......あァ、わるい」

精神安定剤を忘れるなんて、相当《生徒会》のことで頭がいっぱいなんだなと思ったのだが、皆守はポケットに入れてしまった。あれ、吸わないんだろうか?と不思議に思ってみていたら、ばつ悪そうに目をそらされた。

「最近、そういう気分じゃないんだよ」

葉佩たちの存在がそれだけでかいのか?いいことだけど。

1回スルーしたはいいのだが、次の休み時間わざわざカバンにアロマパイプをケースに入れてしまっていたのをみた私は、わざと置いてきていた事実に驚いた。たしかに學園祭が終わってから、吸ってるところ見ないなあと思っていたが平気になっできているんだろうか。

最近イライラしていることが増えているのだから、アロマを手放せるような状況じゃないのになんで私は能天気に構えていたのだろうか。忘れたら授業サボってでも取りに帰るくらい依存しているというのに。

「なーなー、翔ちゃん。甲太郎知らない?」

「甲ちゃん?先行ったみたいだよ」

「まじか、もー。いちいちトイレ行くのに2階まで降りなくてもいいだろ」

「......?」

「なんかさ〜、甲太郎、最近変じゃないか?イライラしてるわりに、頑なにアロマ吸わないし、ラベンダー自体避けてるような気がするんだよ」

「えっ、そんなに?たしかにイライラしてるとは思ってたけどさ」

「だろ?実はここだけの話、アロマ吸おうとしてむせたり、気分悪くなってきたのかこっちが心配になるくらい咳き込んだりしてるんだよ。俺が背中さすってるうちに気にしたのか吸わなくなってきてさ」

「えーっ!?」

「あんま心配かけたくないから黙ってろって言われてたんだけど、さすがにさ〜......?」

「不味くないかな、それ。甲ちゃん、かなりアロマを精神安定剤代わりにしてる印象あったんだけど」

「精神安定剤に吐き気がするって相当まずいよな......でも話してくれないんだよ」

はあ、と葉佩は心配そうな顔をしたまま、ため息をついた。

「ラベンダーに思い入れがあるみたいなのに、なにがあったんだろうな〜?」

「ほんとにね......なんで気づかなかったかな、私。うかつだった」

今の皆守はかなりまずい状況にいる気がしてならない。彼の精神安定剤たるラベンダーは、起源となる記憶がない状態だからこそ有効だ。もともと《黒い砂》は揺さぶりをかけるだけで暴れだすレベルで危ういものであり、万能薬ではない。それを思い出すような強烈ななにかがあれば、中途半端な形ではあるが思い出してしまう可能性があった。

目の前でラベンダーの香水を愛用していた女教師、おそらく皆守が母を殺したヒノカグツチ並の罪悪感を抱くにいたるくらい大切な存在だった人、がハサミで自殺したというトラウマをだ。

もともと、香りと記憶は強烈に結びついているものなのだ。鼻に入ってきた香りは、鼻の内部から脳の下部に沿ってある嗅球で最初に処理される。嗅球は、感情と記憶に強く関与している脳の2つの領域、「へんとう体」と「海馬」と直接つながっている。

奇妙なことに、視覚、聴覚(音)、触覚の情報は、脳のこの領域を通っていない。だから、おそらく嗅覚は他の感覚よりも、感情と記憶を呼び起こしやすくなっている。

実は嗅覚は視覚や聴覚とは違い、扁桃体と海馬という記憶と感情を処理する部位に接続されているため、記憶を呼び起こすトリガーになっている。

匂いから思い出される記憶は、概念的というよりも、より知覚的なもの。たくさんのことよりも特定の感覚を思い出すことが多い。

ゆえに、ある特定の匂いがそれにまつわる記憶を誘発する現象は、フランスの文豪マルセル・プルーストの名にちなみ「プルースト効果(プルースト現象)」として知られている。

この現象はもともとプルーストの代表作「失われた時を求めて」の文中において、主人公がマドレーヌを紅茶に浸し、その香りをきっかけとして幼年時代を思い出す、という描写を元にしているが、かつて文豪が描いた謎の現象は現在、徐々に科学的に解明されつつあるのだ。

例えばある神経科学者は脳の中において、視覚や嗅覚、味覚や聴覚といった情報がいかなる形で格納されているかを調査し、またある心理学者は嗅覚によって想起される記憶がより情動的であり、また他の感覚器によって想起されるいかなる記憶よりも正確であるという結果を明らかにしている。

嗅覚、そして脳の情動を操る部位には、特殊な関係があるのだ。嗅覚による脳の刺激は決してそれだけに留まるものではない。一度脳に入り込んだ嗅覚の刺激は、まるで触手のように脳の様々な部位へと刺激を送る。

つまり、たとえ直接的な記憶は《黒い砂》によりもやがかかっていたとしても、脳の構造上の関係でその時の感情までは完全には消せないのである。そこに揺さぶりをかけるような何かが學園祭のあと、あったのだとしたら。

「今日さ、夜会の前に探索行こうと思うよ、俺。甲太郎が心配だ。《遺跡》に潜らなくなってからおかしくなったし」

「そっか......わかった。気をつけてね」

「一緒に行けなくてごめん、翔ちゃん」

「なんか話聞けるといいね」

「うん」

「甲ちゃん、《夜会》には行かないっていってたけどさ、連れてきてくれよ」

「よっしゃ、任しといて」

葉佩はそういって更衣室に向かっていった。次の時間は体育なのだ。グラウンドで再開した皆守はいつもより機嫌がよかったので、私は少し安心したのだった。

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