「あら、蓮華先生。こんな所でどうしたんです?」


薄暗い教室に自分を呼ぶ声が響く。振り向けば、長いスカートをふわりふわりと揺らして歩く椿の姿があった。手には授業に使うのだろう、プリントが抱えられている。


「…椿か」
「はい、椿ですよ。それで蓮華先生は一体何を?」


因みに私は忘れ物です、と椿はニッコリ微笑む。ふわりと辺りが春の日だまりに包まれたかような笑顔。それを目の当たりにして蓮華、これがあの噂の笑顔か、と静かに納得した。椿はこの学園で英語教科を担当している教師だ。解りやすいと生徒にも人気の高い教師。「あの子、一部の生徒達から“女神”って呼ばれてるんだって」と何時だったか雪柳が蓮華の紅茶を飲みながら言っていた。何となくあの時の雪柳は不機嫌であったような、そんな気がして、いつもなら直ぐに忘れてしまう教師間の噂もその時の事は忘れずにいた。

その、噂の女神が目の前にいる。

確かに、穏やかでいて何処か母性を感じられる様な笑顔は女神と称されても違和感のないものであった。


「俺は雪柳に頼まれた物を取りにきた」


そう言って、重ねた段ボールを持ち上げる。蓮華の腕でも一抱えはあるような大きさの箱は、中に何が入っているのかは知らないが割りと重い。タメを込めてから持ち上げれば、その様子を椿が凄いですねぇと感心するように見ていた。


「……忘れ物は見つかったのか」


その視線に居心地が悪くなって此方から尋ねれば椿はにこりと微笑んだ。


「はい。シャープペンだったのですけど教卓に置いてありました。誰かが見つけやすい様にと置いておいてくれたみたいです」


嬉しそうに微笑む姿はまるで邪気を知らない子供の様で、自分とそう変わらない年齢の人間がそんな笑い方を出来ることに少し驚いた。自分はとっくに無くしてしまったもの、そういったものを椿は大切に抱えて要るのだろう。それが羨ましくもあり、自分には必要の無いものであると切り捨てる自分がいる。


「私が鍵、閉めますね」


椿の言葉にそれまでの思考を停止して、蓮華は廊下へと出た。

既に廊下は明かりがついている。

校内に生徒達は残っておらず、既に寮の門限も近い。コツコツと足音を響かせ廊下を歩く足音が二人分響いた。向かう先は同じなので自然と共に歩く形になる。暫く無言で歩き続けていると、椿の方が口を開いた。


「蓮華先生は雪柳先生と友達なのですか?」


椿の言葉に蓮華は思わず足を止めた。仲が良いというのは言われ慣れている。本人達がどうであれ、一緒にいる事が多ければ周りはそう認識するのだろう。けれども友達、というとそれは違う気がする。ニコニコと此方の言葉を待っている椿を見下ろして、蓮華は口ごもらせた。自分は雪柳に助けられた側で、雪柳は気まぐれに、もしくは意図的に蓮華を助けた。言ってしまえばそうゆう関係だ。恩は感じているがそれが友情を伴っているかというと、少し違う気がする。


「その様子だと違うようですね。ということは、まだ雪柳君の悪癖は治ってないのですね」
「……?」


蓮華の様子に椿が苦笑して言った。疲れたような、そんな表情。“まだ”という言葉と“雪柳君”という呼び方に違和感を感じていると椿は直ぐに答えを言った。


「わたし、実は彼と幼なじみなんです。小さい頃は色々と付き合わされていたんですよ」
「アイツに幼なじみなんて居たのか」
「ええ、居たんです」


しみじみと言われた。


「流石にあの頃のように一緒にいる事はなくなりましたけれど、そうですか。あの人、まだ変わってないんですね」


そう呟くと、椿は俯くように下を見た。雪柳のものより更に明るい色の髪の毛がサラリと顔にかかる。その様子にふと、ある女学生の姿が重なった。他人の為に、自分のその感情を無かったものにしようと、そう必至になっているあの生徒。どこか痛たましいその姿が、隣を歩く同僚に重なってみえた。だからだろうか。蓮華の口は自然とその発見を口にしていた。


「椿は雪柳が好きなのか」


疑問系の形をとっていながらも、確信しているその言葉。俯いていた椿の顔が蓮華へと向けられた。


「…驚いた。蓮華先生、鋭いですね」
「そうでもない。よく鈍いといわれる」


隣からふいを衝かれた、というふうにひゅっと息を飲む音がしてから吐き出すようにして告げられたのは先の蓮華の言葉を認めるものだった。


「でも、私のそれには気づいてしまったんですね。やっぱり蓮華先生は鋭いです。それとも私が分かりやすかったのでしょうか?」
「………どうだろうな」


自分が気づいたのは偶々その表情を見たことがあったとそれだけである。そして椿の表情をみるかぎり、椿自身が誰かにそれを伝えた事もないのだろう。


「雪柳先生に言わないでくださいね」
「あぁ」


別に元より言うつもりは無かった。それでアッサリと頷けば、何故だか椿はきょとんとして、それからクスクスと笑い出した。


「蓮華先生は誰かと違って口が固そうでたすかります」
「そうか」
「はい。私、一生言うつもりがないので」


一生の言葉に力を込めて椿は言った。強い意思を感じるその様子に尋ねれば、笑って椿は答えた。浮かぶその表情は確かに笑顔を型どっているのに、先程までのものとは受ける印象が全く違う。


「本当は言わないんじゃなくて、言えないんです」
「……それは、」


どういう意味なのか。続く言葉は椿によって拾い上げられた。


「彼は、愛と言うものの存在は知っていても、それが自分に向けられることについては信じていないんです。だから私が、その一言を伝えた所で笑われて御仕舞い」


馬鹿ですよねぇ、と椿は言った。
思わずといった風に呟かれたその言葉は、誰に向けられたのか。彼女自身でもあり、雪柳でもあり、そんな質問をした俺自身にも向けられている様な、そんな気がした。


「だから私は、好きだ。なんて一生言ってあげないんです」


歌うように告げられたその言葉が、暫く耳に木霊した。





****


「お帰りー、和哉君。少し遅かったね」
「そうか」


バタン、と理事長室の大きな扉を開けるとその延長上にある理事長の机に雪柳が座っていた。ニコニコと、椿のものとはまた違った意味で子供のような笑顔。あちらが無垢な子供であるとしたら、雪柳のは蟻の巣を砂で埋めて遊ぶような、そんな残忍さを思わせるもの。その笑顔に何故だか蓮華はほっとしていた。その事に首を傾げつつも、蓮華は持ってきた段ボールをドン、と雪柳の目の前に置いた。それから習慣となっているお茶の用意を始める。さて今日は何をいれようか、とそう悩む蓮華に雪柳が段ボールを開きながら、後ろから声をかける。


「別にとっても遅かったわけじゃあなかったけど、いつもは迅速な君が珍しいね。何かあった?」
「とくに大したことではない。教室で椿とあったから少し話していた」
「へぇ。椿ちゃんと」


温度が変化した気がした。なんの、といわれれば空気の温度。けれど振り返っても雪柳は段ボールを開くので手一杯のようであったし、この場には自分と雪柳しかいない。それで蓮華、気のせいだろとそう結論付けて、お茶の用意を再開した。カチャと食器のぶつかる音と、向こうから紙の擦れる音が部屋を包む。


二つ分のカップをお盆に乗せて、机まで運べば、何故か雪柳が紙をビリビリと引き裂いているところだった。既にもう何枚も破かれてしまっているようで、足元にはこんもりと白い山。蓮華の眉間に皺がよる。


「……何をしている」
「んー?ゴミの処理?」
「なら素直にゴミ箱にいれてくれ」


一体誰がその処理をするんだと思っているんだ。睨む様にして雪柳を見るも、本人はあの笑顔を浮かべ笑うだけ。溜め息でもついてやろうかと思ったが、それでは逆効果な気がして結局は黙ったまま箒と塵取りを取りにいく事にした。残念なのは用意し終えた紅茶。自分が飲むころには冷めてしまっているだろうが、仕方がないと諦めた。

自分だけ紅茶を楽しんでいる雪柳はさておき、散らばった紙を集めていたら、その紙に書かれていた内容に合点がいった。


「改築計画…?」
「そう。生徒ぷらす保護者からの学園への要望でねぇ。流石に無視出来なくなってきちゃって」


段ボールの中を覗き込めば中には計画書と銘打った書類が幾つもあった。中には模型まで共に入っている。なるほど、これであの重さか、と納得していると雪柳が口を開いた。


「別に無視してもいいんだけどねぇ。けどそんなことで態々対立するのも面倒だし」


全寮制であるこの学園。設備なんかは多額の寄付金から十分過ぎるほど賄われているが、それでも娯楽の類いは薄い。学校であるのだからそれでよいだろう、と蓮華は思ったが雪柳によればそう簡単に切り捨てられるものでもないらしい。この学園、一般家庭からの入学生もいるにはいるが、大半は何やら訳のある生徒たちばかり。あまり表に出したくない事情、というものがある。そしてそういった事情を抱えているのは大抵が権力だったりお金をもっているのだ。直接的生徒自身が力を持っているわけで無いにしろバックには大きな存在。そしてそんな子供達に手を貸す尾屋も多いという。そこが面倒である。

求められているのは我が子の待遇の改善。愛しい我が子の為にとそういった要求。とくに悪意のあるものでもないし、ならば要求を飲んだ方が利口ではある。けれどもまぁ一応ここは学園である。教育の場としての節度と生徒達の要望。そのバランスの取り方が大変だと雪柳が呟いていた。


「人様に、と言うか僕に迷惑をかける事を除けば素敵な親子愛じゃない?」
「素敵、なのかこれは」
「まぁお金の使い方を誤った馬鹿ともいうけどね。でも愛というものは総じて素晴らしいものとされているんだよ」


素晴らしい、と言いながらもそう口にした雪柳は嘲笑うようにして段ボールの中身を見ていた。目が、くだらないとそう言っている。


「…素晴らしいとそう本心から思っているようには思えないが」
「いや、これは紛れもない本心だよ?」


ただ、と言葉を続ける。カップをおき、顔をあげた時に見えた表情はいつものあの子供のような笑顔だった。


「誰かにお膳立てされた環境で、それでもその事を疑わず愛を語れるって何だか馬鹿みたいだよね」


歌うように告げられた言葉は誰かの言葉と重なって聞こえた。




知ってはいる。けど信じてはいないもの。
(例えば愛とか)






(20120917)

ユメ、なんだろうかコレは。