梅雨入り前の

「ただいま!親父は?」

「おーおかえり鯉の坊、大将なら爆睡中だぞ」

「えーまたぁ!?」



今日露骨に残念そうな声をあげる鯉伴を出迎えたのは狒々だ。ぺいっと脱ぎ捨てられた小さな草履を律儀に並べるのも今や無意識の行動になりつつある。

床から顔を上げ振り返ればあんなに元気よく帰ってきたはずだった鯉伴は、口を尖らせて眉を寄せて、俯いたまま長い廊下を歩いていた。



「この雨のなか遊んでたのかい」



ペタペタと裸足で後を追う。



「流石に皆居なかったから蛙と遊んだ」

「蛙と?」

「あいつら歌上手いのな、いろいろ教えてもらったんだ」



たん、たん、と足音に合わせて幼い歌声が小気味良く響く。高い音程に苦戦しつつも息継ぎを繰り返して上手に歌えている。
思わず狒々の口元に笑みが浮かぶ。
大木の下で雨をしのぎながら蛙たちと歌を唄う幼子を思い浮かべると堪らなく微笑ましく、愛しく思えたのだ。



人の子と遊ぶ事の多い鯉伴だが、梅雨入りを控えた今の時期ではなかなか外ではしゃぐ相手も居ないようで、最近聞くのは専ら近所の妖の話ばかり。
話を聞くに人の親は風邪をひくからとなかなか外に出してくれないそうで。

勿論奴良組の姐さん、珱姫も鯉伴に出歩かないよう言い聞かせてはいるのだが片時もじっとしてはいられないようだ。
雨が降る度出掛けては空振りして帰ってくる。




あめあめふれふれ母さんが〜……


ワシでなくアイツに聴かせたいだろうにな


微笑ましいのと同時にどこか切なさを感じつつペタペタと着いていく。
ふぅとため息をついた狒々は口を開いた。



「坊もなかなかにうめぇじゃねえか、大将に聴かせてこねぇのかい」

「狒々さっき寝てるって言ったじゃねぇかよ。それに起こして聴かせるほどのもんじゃない」

「けど坊お前さんこっちは大将の部屋だぜ?」

「…………」




ぴたり、と足を止めるのに合わせて狒々も足を止める。
間を置かずにひょいと鯉伴の顔を覗きこめば不服そうな、どこか不貞腐れたような顔で廊下の先を見つめていた。

無意識に父の部屋を目指していたということだろうか。




「行きゃあいいじゃねぇか」

「……親父疲れてるよ」

「疲れただぁ!?んなわけねぇだろ、百鬼の主がすぐへたばりゃしねえさ」

「けど最近おれと遊ぶ時すっげぇ眠そうなんだ!!」

「あーまぁ坊と遊ぶのは真っ昼間だしな」

「それに気づいたらおれを抱っこしたまま寝てたりする」

「………………」

「やっぱりおれと遊ぶの疲れるし嫌なのかなぁ」




しゅんと項垂れる鯉伴。
その頭を少し乱暴にグシャグシャと撫でると、脇に両手をさしこんでひょいと抱き上げた。




「別に嫌われちゃあいねぇさ。それは大将がちっと馬鹿で配慮がねえだけよ」




豪快に笑う狒々の背後で床がみしりと鳴る。



「でも、、でも、寝ちまうんだぜ?」

「大将は坊や珱姫といると安心するんだ、俺と居るときなんか一瞬たりとも隙なんかありゃしねぇんだぜ。…そうさなぁ、お前さんと居るときのアイツは例えるなら隙だらけのマグロだ…ぐふっ!」

「狒々!?どうした!?」

「いや……なんでもねぇよ」



突然呻いて振り返った狒々に鯉伴は慌ててばたついたが不思議なことに聞こえるのは雨音だけだ。
すとん、と床に下ろされ遥か上の狒々をじっと見つめる。




「とにかく大将は別に坊と遊ぶのが嫌なわけじゃねーから安心しな」

「うん……」

「おいおい、奴良組の若様がんな顔するんじゃ…」

「なるほどなぁ、最近遊びに来ねぇと思ったらそういうことかい」

「親父!!」

「……。やっと出てきやがった」




一瞬空間が歪んだかと思えばゆらりと揺れた影が形を成して、あっという間に若く麗しい男が狒々の背後に現れた。
黄金色の髪を揺らめかせて鋭い瞳と口元を綻ばせたその男に鯉伴はぱたぱたと駆け寄った。



「親父寝てたんじゃねぇの?」

「鯉伴の声がしたからな、飛び起きたんだ」

「…バカ言え、最初っから着いてきてただろうに……いてっ」



ぼそりと呟く狒々を軽く蹴飛ばしつつ、ぬらりひょんはにっこりと鯉伴に微笑みかける。



「鯉伴、ワシはそんなすぐに疲れたりしねぇから安心しな。子どもがいらん心配するもんじゃねぇぞ?」

「鯉伴が遊びに来ねぇって心配してたやつが何言ってんだか」

「む、うるさいぞ狒々」

「くくっ」

「じゃあ親父遊ぼう!狒々も一緒に!」

「おぅ、いいぞ。何して遊ぶ?」





あのねあのねと身振り手振りで説明する鯉伴をぬらりひょんが優しい瞳で見つめる。
その温かい視線はしとしとと降りやまない雨の如く幼い息子を絶え間なく柔らかく包み込んでいた。


本格的な梅雨を前に、屋敷内で無邪気な笑い声が木霊する。
憂鬱の雨の中で花を咲かす紫陽花が水滴を弾いて生き生きと揺れていた。








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