∴そうしてれば楽になれた?



 私が彼を愛すようには彼は私のことを愛せない、というのが彼の主張だった。理由、とすこしはマシな響きで彼はそれを突きつけたけれど、結局のところそれはただ彼のエゴに変わりない。しんと静まり返った、虫の声も聞こえない深夜のことだった。
 私はあまり、エゴが好きではなかったので、批判的な目で彼を睨みつけたけれど、その視線のなかに私自身のエゴが含まれていることに気づいて目を伏せた。君も人のことを言えないでしょう、と言われればそれでお終いだった。だから私はそれ以上彼を責めることをせず、彼もそれ以上言葉を重ねず、ただひっそりとお互いの背骨を抱いた。



 それが、3ヶ月ほど前のことだった。

「土曜日、ここを出て行きます」

 朝餉に出た鮭の塩焼きの、てかてかした皮と朱色の身を箸の先で丁寧に選り分けて、彼は言った。お椀にすこし唇を押しつけて味噌汁をすする私を見ようとしない彼の眉間にはうすい皺が刻まれ、それがさらに悩ましさを演出した。「はい」とも「わかった」とも、「行かないで」、とも言えない私は、舌に張りつくうすい玉葱をまるごと飲み込む。上唇にやわらかく絹ごしの豆腐がぶつかった。

 皮と骨とを完璧に選り分けて完璧な焼鮭を完成させた彼は、それから一呼吸分なにかを考えるように箸を止めたかと思うと、今度はおそろしく忙しく食事をとった。彼は高校の教師で、今年は2年生に世界史を、3年生の何クラスかに倫理か何かを教えていると言っていた。おそらく世界史を教える日のほうが、彼はいくらか愉快そうに見えた。今日は、さて、どちらの日だったか、私にはわからない。教えてもらっていなかったことに、初めて気づいた。桜が散って、もう半年たっていた。
 窓に目をやって、それから、ああ、今の一呼吸の間は私への譲歩だったのだな、と心のどこかが察した。結局私はなにも、言えなかったわけだけれど。



 勤め先の文具屋で昼休憩に入ったとき、私は彼と出会ったときの自分のことを思い出していた。彼は、3つ年上の、かつての恋人の友人だった。
 あのときの私はたしかに恋人のことを愛していた。うまくいかなくなったのがなぜだったか、わからない。もしかしたら、うまくいかなくなってなどいなかったのかもしれない。あの人と音信不通になってどれくらい経っただろうか。私と彼の同居が始まった2年前より先だったか後だったか。そういえば、あの人はどこにいるのだろう。幸せに暮らしているだろうか。私があの人といた頃、私たちは幸せだっただろうか。私と彼の、今の「私たち」は、幸せだったのだろうか。戸惑う私の瞼の裏には、今朝の彼の姿がこびりついている。忌み嫌っているのか、悪質な執着なのかもわからない。真っ白な製紙の端で指を切る。過失。顔をしかめるも、彼のようなしわにはならない。私が一番嫌いなのは私だ。

 昼休憩が終わる直前、もう引っ越し先は決まっているという旨のメールが届いた。



 搬入先の業者の対応が遅れて、巻き添えを食う形で帰宅の時間が遅れた。彼はもう帰ってきていて、どこかから持って帰ってきた段ボールに彼の物を静かに詰めていた。彼の空気が減っていくことにもう動かせないものを感じつつ、けれどそれはおかしいのではないかという違和感に頭を重くさせながら、爪先は浴室に向かう。月に何度かの長風呂を今日と決め、2時間ほど居座り、出てくると、彼は作業の手を止めてなにかをじっと読んでいた。
 立てた片膝に沿って丸められた背中に呼ばれて、私は彼に寄り添う。まだ湿っている髪がいくら彼のシャツを濡らそうと、彼の目はずっと手元に注がれていた。ゆっくりゆっくり、うしろから抱きつくかたちで体重をかけていく。かぷり。うなじにうすい歯形をつけるようにかみつけば、腕の中の彼は震えた。「なにか味でもしましたか」。「いいえ、なにも」。答えると、うすっぺらく笑った。いつもと変わりない笑い方に、またわからないことがひとつ増えた。

「私はあなたを愛しています」
「僕も、君のことを愛していますよ」
「それに、致命的な違いでもありましたか」

 ありますよ、ありますとも。それはなにですか。気づきませんか。気づけません、愛してるだけじゃ、だめなんですか。ええ、だから、言ったでしょう。

「君が僕を愛すようには、僕は君のことを愛せない」

 彼はわたしの顔を見ずに、悲しい言葉を繰り返す。愛せませんか、どうしてもですか。彼のシャツがなにによって濡れているのか、そろそろわからなくなってきた。逃げるんですか、そうなんですか。私を置いて、幸せになるんですか。
 彼はなおも俯き続ける。先程の手元はもう見てはいないのに、意識は頑として私に傾けようとはしない。そうなってしまえば、これはもう冷たい拒絶だった。冷たく冷たく、私が彼を愛せなくなるように、仕向けている。そのことに気づくことを願っている。

 私は結局、なにもかもわからないままである。私の愛と彼の愛にどういう違いがあったのか、私はどうしたら彼のことを手放せるのか、今の彼が幸せでなくて、私から離れることで幸せになるのなら、なんて一抹の感情はなんだろう。私は彼を愛している。信じられるのはそれだけではないか。
 頬に背骨があたる。舌でなぞった。彼はまた静かに震え、口をつぐんだ。



150414
title : meson
















×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -