∴終の煙



 朝目覚めると、あの人が動かなくなっていました。いつものように目を覚まして、さあ今日も働かねば、と微睡を切り捨てて現実に身を置く中途でした。一組と一組の敷布団の間をこえて伸ばした手にだんだんと力が入りました。私とこの人の起きるのは、いつもそう変わりはしないしどちらも寝起きの良いほうだったのに。辰朗さん、辰朗さん。シンヤさん。揺り動かすのといっしょに唇を震わせても、確証でないことを思いだしてやるせなさが加速するだけでした。
 胸や腹は生ぬるいのに顔だけが真白でした。手のひらを彼の呼吸器官にかざしてもただ朝の白けた空気が通るだけで、生き物の気配はなく、思わず時計を見てしまった私はついに受け入れることしかないことを悟りました。名前を呼ぼうとしましたが今度はなにも喉から出てこずに、ただ彼の手を握っていました。硬直した指に自分の指をねじ込むのはまるで彼を虐げているようでした。けれど、たぶん、彼は許してくれるでしょう。懇願にちかいことを考えながら、窓の明るくなっていくのを眺めていました。

 そのあとは、くわしいことをあまり覚えていません。住み込みで私たちを雇っていた女主人に彼のことを話して医者を呼んでもらって、自然死の証明を突きつけられて、そうして。もし、万が一のときにはと彼から託されていた封筒を破ると住所と電話番号の走り書きがでてきて、連絡したこと。その紙に書かれていた、おそらく彼の本当の名前を言うと電話の向こうの人間は絶句したのに、私はどうしてもそれが彼の名前だとは思えませんでした。そんな男は、知りません。彼をこちらに連れてきてほしい、と頼まれて、私は彼らが手配した車に乗って彼の生まれ育った場所に向かいました。乗り込む前、振り返ったこれまでの住処には私たちのものはなにひとつなくなっていました。そのようなつもりはなかったのですが、ここに戻ってくることはないのだろうと静かに諦めました。



 冷たい業者の車に揺られて、揺られて、降りた場所は私の知らない土地でした。縁もゆかりもないところ。山と林ばかりの、おそらく田舎です。車がつけた場所は坂の上でとおくに海が見えました。日本海なのか、太平洋なのか、よくわかりませんでした。このような場所に私たちは寄生して生きていたのに、このような心細さは初めてでした。

「…櫛引さんですか」

 長らく呼ばれることのなかった名前に驚いて振り向くと、そこにいた人間達も瞠目して私の姿を上から下までじっくり見ました。「櫛引美子さんですよね?」。何度も確認をされて、私も違和感に逆らってでも頷くほかないのでした。彼の本当の名前を知ってしまった、という後ろめたさから、私も思わず本当の名前を名乗ってしまったのでしょう。途端に彼らはすこし安堵した顔をして、それから「愚息が大変お世話になりました」、と深々と頭を下げるのでした。

 そのあとは、おそらく彼の遠縁の女性に民宿に案内されて、そこで明日の葬式には出席しないでほしいと言われました。特段抵抗のある提案でもなく、従順に頷きます。すると彼女は目を見張って、それから耐えきれないとでも言うように「あのこの過去を櫛引さんはご存知なのかしら」と半ば叫ぶように言いました。いいえ。「あのこはね、」。知りたくありません。「あのこは、」。知りたくないです。

「聞きなさい!!」

 物静かな民宿に怒号が響きます。心の奥底を爆発させたかのような叫びでした。睨みつける視線は私のことを見ていません。覚えのない恨みと傷つけるための視線です。体中からぼとぼとと発散させる怒気は、彼と私のふたりぽっちの生活にはないものでした。失った感情はこんなにも生々しい色をしていたのでしょうか。

 なにがこの人をここまで駆り立てるのだろうかと思っていれば、私と暮らしていたあの人は私によく似た幼なじみと心中未遂を図ったようなのでした。ひとり生き残った彼はそのあと、出奔して、それから私と一緒に逃げるように暮らしていた、と。
 強い憎しみの宿った女性の瞳は力づくで彼のことを私に暴いてやろうと昏く爛々としていました。その背景にはきっと、彼の一族がその出来事で負った数々の不名誉に端を発しているのだろうとは容易に想像がつきましたが、私にはやはりどうすることもできず、ただ私の知る彼の姿が揺るがないように、脳裏で引き留めることに終始するのみでした。

 女性が去ったあと、宿のくたびれた女将がやってきて、気の毒なものを見る目で「お部屋を変えましょう」と部屋の移動を勧めてきました。ほぼ反転しただけの部屋でしたが、「窓から火葬場の煙突が見えます」と俯いた女将に、ただ何も言えず、すこし頭をさげました。感謝しているとも、余計なお世話であるとも、どちらとも思えない自分はどうやら相当参っているのだと、この頃になってようやっと気づきました。



 翌朝、民宿のちかくにあった商店に行ってジャムの小瓶を買いました。砂糖の含有量が半分だという苺のジャムです。ここに余所者がくることはやはり珍しいらしく、年老いた店番に「どこから来たの」と訊ねられました。どこから、なんて、私にも分からず、しかし分からないなどと言うのは異質であることも十分知っていて、私ははにかんでジャムを受け取ることしかできないのでした。陳列されている中で一番小さいものを買ったのに、ガラスの瓶は重く手のひらにうまるようにおさまるので、なにか遠い別なものを思いだすようでした。

 民宿に戻ってジャムをそのままスプーンで食べました。しつこい甘さはいっそ暴力的で、味覚を破壊するようでした。ですが頭はあまり働かず、手はせっせとジャムをはこぶのをやめず、口だってそれを受け入れるので、一時間ほどでジャムはなくなりました。
 洗面所で瓶を綺麗に洗って、ふたたび窓際に戻ると、火葬場の煙突から煙が見えました。あの人のいれものが焼かれている煙でした。もし彼が私に情けをかけてくれるのならきてくれやしないかと瓶を持つ手を窓の外に突き出して、それから蓋をしめました。

















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