∴最果ての国



 イーハトーヴだなあ、と、彼は敷布団の上に胡座をかいて呟きました。イーハトーヴだなあ。イーハトーヴだなあ。それから、「寒いところに行こう」、と。イーハトーヴだなあ。
 1週間前のことです。私の耳の奥にはすっかり、反響に反響を重ねたイーハトーヴだなあ、の様々がこびりついてしまって、離れません。目の前の車窓は白いのか灰色をしているのか分からない景色をひたすらにくりぬきます。この土地にも雪のやむ季節があることなど、とても信じられません。鈍行列車を乗り継ぎ乗り継ぎ、ずいぶん遠いところまできてしまったものだと思いましたが、懐は予想よりも暖かいままです。
 飽きないわけではありませんでしたが、それでも旅は旅らしく楽しまなければならないとなんとなく思っていたので、私は車窓を眺め続けていました。隣の座席の彼は、今は眠っています。けれど起きているときも、あまり関心はないようでした。いつものように、自分の体は自分の意思の管轄ではないのだとばかりにべつのなにか大きなものに委ねています。急に、さみしくなりました。さみしくなって、彼のあの夜の森のように深々とした瞳を私に向けてほしいとも思いました。けれど彼は眠っています。緊張した面持ちでしたが、それでも最近のそれよりかは健やかなように見えます。私に、彼をこちらに連れ戻す権利などがあるはずはなく、勿論望んでもいないつもりです。溜め息を吐くと掠ったようで、車窓にうすうく映っていた男と女の姿が白くぼやけました。

 先の通り、これを提案したのは彼でした。川の近いところ、に住んでもうすぐ1年。あの土地を気に入っていなかったわけではありませんでしたが、引き留められるほどの引力を感じることもありませんでした。いつでも、また残骸にうつす覚悟はできていたことになります。なので「寒いところに行こう」は、もっとべつな要素が挙げられていても私は構わなかったのです。1つだけ心にかかることを言えば、それは、寒いところというのが、冬の歩き方が下手な私にはますます不公平だということでした。それが一時の感傷に依った妄想であれば、きっと私は頷くことをしなかったでしょう。けれど、もしかしたらそれを翻して頷くのかもしれません。私が彼と、彼が私と生きるようになってから、袂を分かつことはありませんでしたから。
 白昼の鈍行列車は眠る彼と起きている私を乗せて果てを目指しています。

 終点につくころには彼も目を覚ましていました。寂しい侘しい余韻には目もくれず、正しく歩いて正しく下車しました。彼には、私を気遣う余裕があるようでした。たしか彼は、この土地を訪れたことはないはずだっただろう、とは思いましたが、どこにでも嘘は溢れているものです。すこしだけ大ぶりの旅行鞄を持つ手に、冷気は淀みなく痛みを与えていきます。2つぽっちの旅行鞄に納まる彼と私の身の回りの品に、愛着などという優しく柔らかなものは抱いてはいませんが、新しく買い揃えるのも癪なのです。
 どこまでと訊ねると、どこまででも、という言葉が帰ってきました。イーハトーヴだなあ。また耳奥で彼の呟きがうまれて、消えます。自治体の案内所に行って今日の泊まり先を確保すると、バスが出るからという職員の気遣いを丁重に断ってまた雪景色のなかを歩き始めました。私たちのどちらも、体力だけはあるのです。それに私も彼も、4輪の乗り物が苦手なのでした。
 雪を踏みしめるようにざくりざくりと歩きます。私の歩くスピードは目に見えていつもより遅くなっていましたが、彼は何も言わずに私に合わせて歩いていました。コート越しの肩につもった雪を手袋の指で払います。どう降っているのか、地面と雪空と垂直なはずのコートの面にも雪は降り、表面をしとりと濡らしていました。こぶしいくつか分を空けた隣の背中が、なにかを言いたげに時々俯きます。
 私はそれに、なにも言えません。

「馨子」
「はい」
「悪かったね、付き合わせて」
「・・・いいえ」

 彼はこちらを見ることをしませんでしたが、私が首を横に振ったのに合わせて多少微笑んだようでした。心配しなくても、ここに住もうとは思わないよ。ああ、でも、馨子は北国のうまれでしたっけ。
 いいえ、そんなこと心配していません。北国のうまれ、ああ、そうでしたっけ。答えながら、彼に言われて過去がさわさわと近づいてきたような予感がしました。私は北国のうまれでしたでしょうか。言われてみれば、今までよそよそしく思っていた雪景色は見覚えがあるものだったような気がします。でも、けれど、雪の滅多に降らないような土地でうまれたような気もします。嘘をつきすぎたのでしょう。それでも、私は自らのルーツの不明による動揺に身を徒に晒したりはしません。私には妹がいます。先日送った年賀状の返事で、あの子が結婚したことを知りました。私は妹のことを覚えてさえいれば、あとは妹が覚えてくれているのです。他のことだって、それは彼が覚えてくれていることでしょう。もしかしたら、彼もそう思って覚えることを放棄しているのかもしれませんが。それならばそれで、いいでしょう。

 たどり着いた民宿は寂しいところでしたが、居心地の悪いところではありませんでした。宿の主人は歩いてきた私たちに驚いたようでしたが、しかし何も訊かず、温かいお茶を出してくれました。今度は、さて、どんな境遇におかれた関係に思われたのでしょう。
 部屋は慎ましく、私は彼がこの客室をいっぺんで好きになったことをすぐに悟りました。座布団はいうところの煎餅でしたが、あの主人の人柄で十二分に賄われる範囲でしたし、寝具の方は敷布団も掛け布団もやわらかかったので。私は想像していました。この布団にくるまれて、この部屋の中で、眠って過ごすこの土地の夜のことを。変わらずにいる彼のことを。

 馨子。彼が私の名前を呼びました。外に出ましょう。きっと寒いから、よく着込んで。時刻はすっかり夜でしたが彼は私を誘って、そして私はその誘いのまま彼について冷たく冷たいむき出しの夜のもとへ出て行きました。
 ほら、薫子。なんですか。オリオン座が見えますよ。・・・ああ、鼓星。
 身を刺すような痛みの中、ただ彼の誘導だけをたどってその夜のなかに存在していました。他の星についての知識を身に纏わない人生をおくってきて、幸せだとも思いました。さそり座なんていうものは、この季節、見えてしまうのでしょうか。
 雪は昼よりも大粒のものが降っていましたが、傍らの彼の呼吸するのだけを、ただただ感じていようと思いました。『銀河鉄道の夜』が作者の亡き妹のために書かれたお話だということを、私の口から掘り起こす気はさらさらありませんでした。私は今まで何度か重ねてきた幾日かのように、ただ黙って、オリオン座を眺める彼の横に佇むのみです。



160112
title : 氷製















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