∴悴むピーエムセブン



 失恋して、わんわん泣いて泣き続けて、ついに気が触れちゃった女のひとが、昔近所にいた。
 話してくれたのは祖母だった。姉も一緒にその話をきいていたかは覚えていない。姉にはそれに近い気があるようにあたしは思っている。というようなことを、話す相手は暎じゃなくてキリちゃんだった。
 なんとなく、分からないだろうか。あたしたちの距離感。


 瑛は今日も機嫌がいい。コートでものすごく楽しそうにバスケをしている。そしてそれを、あたしは体育館の2階席から見ている。見に来いよ、と瑛に言われたので。あたしの手元に断るだけの特別の不都合がなかったので。きっと、彼女を持っている男子なりの何某かが存在するのだろう。あたしはボールを目で追いかける。今日は試合形式で練習するのだと瑛が言っていたあたり、きっと日を選んだりの努力をしてくれたりはしたのだろう。瑛の部活が屋内競技でよかった。けれど、体育館は吃驚するくらい冷える。ブランケットを座席から膝にかけて回して、マフラーで手をくるんだ。
 断続的にバスケの音が続いた後に、ボールがゴールに吸い込まれた。「テル、今日張り切りすぎじゃねーの!?」。誰かが叫んでいる。コートにいるうち顔を知っている人間が(なかには全然知らない人間も)みんなこっちを見て、一斉ににやにやした。意味はわかったものの、どういう反応が正しいのかわからなくてとりあえず瑛を見る。しかし瑛が正解を教えてくれるわけでもない。こういうときキリちゃんがいたら。「おー? ナイッシュー」って、いつもの調子で言ってほしい。あたしは思わずキリちゃんの顔を思い出すけれど、彼はいま大学で授業を受けている。あたしが今いる高さと同じ空気を眺めると、埃がきらきらのぼっていくのが見えた。

 キリちゃんはちゃらんぽらんだけど、真面目だ。たぶん真面目が先でちゃらんぽらんが後。いろんなものが見えるよ、とキリちゃんは言う。卑怯な戦法のように思うけれど、その中途であたしがキリちゃんのお眼鏡にかなったのだから、あたしがそのキリちゃんの一種のアルゴリズムの是非を確定させることはできない。
 でも、たとえばキリちゃんは驚くくらい色々なことを知っている。衣服についた染みのぬき方、炒飯の一番美味しいお店、住宅街に1軒だけある煙突のある家。Let It BeもTime After Timeも、ねだれば「いいよー」と言って歌ってくれる(返事はいいのに、歌うときはいつもすこし恥ずかしそうに唇をうごかす)。その口内の完璧なポジションに舌を這わせて。あたしを胡座の上にのせて。

 部活が終わるのを見計らって、2階から1階に降りた。1階は、体育館シューズごしに足裏に伝わった冷気がじんじんと上へのぼってきてますます冷たい。さっきまでバスケをしていた男の子たちはみんな、途中からユニフォームみたいに丈も袖もないスポーツウェア姿に変わっていた。信じられない。

「針原すっごい寒そう」
「すっごく寒い」
「俺らめっちゃ暑い。暑い暑い暑いー」
「近寄らないで見てるだけで寒い」

 じりじりとにじり寄ってくる同級生から後ずさる。暑いというのは、彼らの額や首筋から滝のように流れる汗の量で察しが付く。それでも無防備すぎるその恰好はあたしに恐怖すら抱かせる。狂気。おなじ人間じゃないみたい。あたしはマフラーを、その布の糸の存在を皮膚がはっきり認識できるほどにしっかりと巻く。風邪をひきたくない。
 そのうち、下級生の子たちが片づけをし始めたのであたしは同級生に言い置いて体育館の外に出た(同級生たちは、当然のように片づけをしない。でも下級生も文句を言いそうなほどの嫌な顔はしていないあたり、この部活の伝統なのだろう)。陽の落ちた中、白熱灯で煌々と照らされたピロティーを通って靴箱に体育館シューズを戻しに行く。荷物になるのは嫌だった。迷いなく歩く途中、枯葉を踏んだ。カサカサとは鳴らないあたり、もう随分の人数に踏まれたのだろう。近いうちに学校の有志の人間がこの辺り一帯を清掃するはずだ。

「倫子」

 片開きの靴箱を閉じたあとに、名前が呼ばれた。渋い線路に似た色のタイルの上、ガラスの引き戸にかけられた暎の手は少し悴んでいるように見える。球技をながくしているおとこの手。

「豊郷たちに、倫子が靴箱に行ったって聞いて。帰ろう」
「うん。・・・帰る準備、早かったんだね」
「そりゃあもう。急いだっつーの」
「ネクタイよれてる」
「んー。いいよ別に。帰るだけだし」
「それを言うなら直すだけの手間でしょ」

 暎に近寄って、背伸びをしてネクタイに手をかける。学生なんだから、あの、チャックで長さを調節できるものにすればいいのに、この学校は大人と同じようなネクタイを制服に決めている。そんなふうにするから、暎みたいな面倒くさがり屋がこんなふうにだらしなく制服を着ることになるのだ。
 ネクタイをいじられている暎は喉の奥の方でくつくつと笑う。「なに?」「もしかして倫子、ちょっとだけ背伸びしてる?」「・・・していたらなんなの?」「やっぱり俺って背、高いんだなあと思って」。毒気をぬかれる。たかだかそんなことで。今ここで箸でも転がしてみたら、きっと抱腹絶倒の様相になるのだろう。

 ネクタイを直して、踵とタイルの間の空白を踏みしめるように地に足をつける。サンキュ、と言った暎は、そのまま「はやく帰ろう」と口早につづけた。あたしの手をさらった暎の体温はあたたかい。あたしと一緒にいるところ、見られたいのか見られたくないのか。わからないことが揺るぎないことをあしたのあたしはキリちゃんに報告するのだろうと考えながら、あたしと暎は立派な恋人同士のように冷たい風をきって帰る。



160221















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