幻惑
惑わされ、そして
今宵は満月。
そんな日には鑑賞がてら外に出るのも悪くない。
タンスの中に押し込まれていた折り畳み式の丸みを帯びた白いテーブルを引っ張り出し、バルコニーへ続くガラス張りのドアを開けた。
少し冷たい夜風を浴びつつテーブルを設置し、部屋に戻って冷蔵庫の中から昼間に暇つぶしに作ったアップルパイの残りを取り出す。ついでに酒でも飲もうかと思ったがこの部屋の主は自分が酒類を飲むのを物凄く嫌う。今頃本人は城下の酒場で飲んでいるだろうけど。
そう思うとなんだか腹が立ってきて、テーブルの上にアップルパイを載せて再び部屋に戻り、冷蔵庫を開ける。一番弱いと思われる酒類を選びグラスと共にテーブルに載せた。
準備は万端。
シオンは「よっ」と掛け声と共にバルコニーの手すりの上に飛び乗った。
足をぶらぶらとさせて夜空を見上げた。
「綺麗だなぁ」
呟き、酒をグラスの半分ぐらいまで注ぐ。
…本当に弱いのかなぁ。
不安にはなったが、開けてしまったのだから後戻りは出来ない。
ゆらゆらと揺れる液体を飲み干す。
空になったグラスをしばらく眺め、再び月を見上げた。
以前は2つあった月も今は1つしかない。
月が残した傷痕は大きかったが、徐々にそれは姿を隠しつつある。復興まではまだまだ道のりは果てしないが1歩ずつ前進しているのは明らかだ。
ひゅう、と風が吹く。
冷たくて涼しい。…どうやら酔いが回ってきたようだ。
「弱くなかったのかな」と1人呟く。それとも自分が弱すぎるだけなのか。
だが、なんとなくここから離れたくなかった。
まるで月に吸い寄せられているみたいだ、とシオンは微笑んだ。
ぶらぶらと足を揺らしながらアップルパイをかじり、酒を口へ運ぶ。
どのくらいそうしていたか分からない。ただ、テーブルの周りを転がっている酒類を見ればそれが短時間だとは誰も思わないだろう。部屋へと帰ってきた主はその光景に目を疑った。
それに加えて手すりというあまり頑丈とはいえない物の上に座っているシオンに思わず彼女の名前を大きな声で叫んだ。
だがシオンが振り返る気配はない。ずっと夜空に浮かぶ月を見上げていた。
部屋の主――カインは慌ててシオンに駆け寄った。
ドアが開いた音でやっとシオンが視線を外した。ドアの方を見て、シオンは朱色に染まっている顔で微笑んだ。
「あ、カイン。お帰りなさい〜」
気の抜けた声と共に先程まで嫌というほど嗅いでいた匂いが広がった。
「シオン――」
手すりに座っている体をカインは降ろしシオンを見て、表情を若干険しくさせた。
「…飲み過ぎだ」
シオンは酒を飲むとあるもの全部を飲みきるまで飲むのをやめない。
だから飲ませたくなかったのだ。特に1人の時には。
カインに言われシオンは首をかしげた。
「そう?全然飲んでいないよ」
「あまり飲むと長生きできんぞ」
「あははっ。カインには言われたくないや」
シオンの嫌味とも取れる言葉を無視し、彼女を部屋の中へと入れる。
ソファに座らせ、自分も座ると肩にシオンが頭をそっと乗せてきた。
「どうした?」
「んっ…」
夢の世界をさ迷っているようだ。
無理もない。あれだけ飲んでいるのだから。
「寝るか?」
カインが優しく問うとシオンはかすかにコクリと頷いた。
それを確認し、シオンの体を抱き抱えて寝室へと向かう。
向かう途中でカインはふと夜空に浮かぶ丸いものを見つめた。
「月に惑わされたか」
自分の腕の中で寝息をたてているシオンに呟き、カインは止めていた足をゆっくりと動かした。
幻惑
(神秘的だから、)(怖いのだ)