心配
最近どうにも調子が悪い。
相も変わらず実技の授業で満点に近い数字を叩き出しているというのに、兵助は溜め息をついてこめかみを軽く押さえた。
体が重いし頭痛も度々起こる。
熱は無いから大丈夫とは思うのだが…
「久々知くん」
「うわっ!」
そんな事を考えていると、背後から突然肩を叩かれて不覚にも驚いてしまった。
「い、伊作先輩…気配消して近づかないで下さいよ…」
「ははっ、ごめんごめん」
悪びれた様子も無く軽やかに笑いなが謝る伊作に、兵助は微かに戸惑ったような表情になる。
昔から兵助に対して伊作はいつも「優しい先輩」だった。
見慣れている筈の「優しい先輩」の笑顔に…どことなく違和感を感じるのは気のせいだろうか
「ねぇ久々知くん」
「はい?」
「今夜、僕の部屋に来てくれないかな」
「…なんでですか?」
唐突な言葉に兵助は怪訝そうに首を傾げると、伊作はにっこりと笑った。
「先輩命令だよ」
有無を言わさない迫力の笑顔に思わずゾクッとする。
(こ…この笑顔は…)
基本は温和で優しくても六年生。
不運にまみれているせいで忘れがちになるが、伊作もこの学園で六年間過ごしてきたのだ。
優しいだけの人間では今日までここで生き残れるはずもないことは確かである。
背中に、冷たい汗が流れた。
「…は、はい…」
「よろしい」
兵助の返事に満足げに頷いた伊作は、今までが嘘のようにサッと黒いオーラを引っ込めて、「優しい先輩」の顔に戻った。
「じゃぁまた後でね」
ポン、と軽く兵助の頭を撫でて伊作は行ってしまった。
「…………」
撫でられた頭に触れてみる。
兵助を子ども扱いするのは相変わらずだが…
普段あまり先輩の権力を振りかざさない伊作に、あそこまではっきりと先輩命令だと言い切られたのは初めてかもしれない。
「お、兵助」
「はち…」
そこへたまたま通りかかった竹谷が不思議そうに首を捻って歩み寄ってきた。
「なんだよ情けねぇ顔して。なんかあったのか?」
「……雷蔵……」
「雷蔵?」
「悪戯した後の三郎になった気分だ…」
「はあ?」
「でも…俺、何かしたのか…全っ然心当たり無いんだけど…」
ぶつぶつと呟きながらフラフラ去っていく兵助をぽつんと残された竹谷が目を点にして見送る。
「…大丈夫かあいつ」
* * *
そして、夜
時間の指定はされていなかったので、とりあえず夕飯と湯浴みを終えてから伊作の部屋へ向かう。その足取りはすこぶる重い。
(六年長屋久しぶりだ…)
委員長がいないので火薬委員会の会議はたいてい兵助の部屋でする。
暴君を筆頭に今の六年は近年稀に見る問題学年故に近づかないに越した事はない。
それがあの人たちのすぐ一つ下、最も六年生との付き合いが長い五年生一同が出した結論だった。
(…まぁ、確かに尊敬はしてる…け、ど…!?)
考えを巡らせているうちに伊作と食満の部屋にたどり着いてしまった。
腹を括って声をかけようとした瞬間、戸の隙間から煌々と漏れる灯りとともに食満の叫び声が響き渡ったのを聞いて、思わず息を呑む。
「いででででででででっっ!!!いっ…!痛ぇっつってんだろアホいさ…っぎゃああああああああああああ!!!!!」
「え?ごめん留、聞こえない」
食満の必死の叫びとは正反対に、恐ろしいほどの気楽な伊作の声が聞こえる。
その会話の合間に何やらベキベキベキッ!と恐ろしい音が聞こえたのは、きっと気のせいではないだろう。
「………………」
激しく入りたくない。帰りたい。
ソッと部屋に背を向けると、伊作の声が聞こえた。
「あ、久々知くん?」
「ひっ…!」
ガラリと戸が開かれ、伊作がひょっこりと顔を出す。
「いらっしゃい。待ってたよ」
「ど、うも…」
ギギギギと音がしそうなほど強張った首の動きで振り返ると、伊作は勢いよく兵助の腕を引いた。
「ほら入って入って!」
「わわっ」
部屋には思った通り、屍と化した食満が転がっている。
「食満先輩…」
「…よぉ、久々知…」
弱々しく手を上げる食満の頭上から伊作の信じがたい言葉が降ってくる。
「留、悪いけどそこ空けてくれる?交代だよ」
「交た…っ!?」
兵助が勢い良く伊作を見やる。
交代ということは、次は自分が食満のようになるということなのか
(食満先輩…!助け、て……くれるわけないな畜生!!)
食満が無言でゴロンゴロンと横に転がって場所を空けたのを見て、兵助は打ちひしがれた。基本的に六年生は五年生をイジメるのが好きだ。
「い、伊作先輩!俺、ちょっと急用を思い出して」
「成績優秀な久々知くんらしくない、ベタな言い訳だねぇ」
再び伊作を振り返った刹那、既に音も無く兵助の懐に入り込んだ伊作の顔が目の前にあって
トン、と兵助の肩を押した。
床に倒れ込んだ兵助の上に馬乗りになると、伊作は昼間に見せたのと同じ、黒い何かが降臨している時の雷蔵に通じるものがある笑顔を見せた。
「逃がさないよ」
あ、俺もう死ぬかもしれない
兵助が一切の思考を放り投げた。
何もかも諦めたように白い笑いで流れに身を任せていると、グルンと体を反転させられ、うつ伏せになる。
兵助の腰に座り直した伊作の手が肩口に触れビクッとするが、いつまで経っても痛みは襲ってこない。
それどころか肩の筋肉をグッグッと押しほぐしていく。
「え…?」
それは痛みとは程遠く、むしろ気持ちの良い感覚に兵助は混乱するばかりだ。
「うわ…これは酷いな…」
頭上から伊作の呆れたような声が降ってきた。
「ここまで凝り固まってる人初めてだよ。そりゃ頭や体にも響くだろうね」
ぼやきつつもゆっくりと順番に揉みほぐし、腕や腰の筋肉まで伸ばしていく伊作に、食満が寝そべりながら恨みがましい言葉を投げかける。
「伊作…久々知にはやけに優しいじゃねぇか。お前、俺の時は絶対わざとだろ?わざと痛くしてるだろ?」
「あはははは、やだなぁ留。今頃気づいたの?」
「おまっ…!」
「冗談はさておき!久々知くんは留とは比べものにならないよ。これで留と同じことしたら余計に体壊すだけだ」
いつになく真剣な声音に、兵助はチラッと伊作を見た。
「あの…最初からこのために俺を…?」
「まぁね。君、最近肩の位置が左右でだいぶ違ってたの気づいてた?痛かったろうに…そのうち腕上がらなくなるよ」
伊作の声に兵助の体が強張った。
ああ…この声は…
「先輩…その…」
「うん、怒ってる」
「………」
「ああでも言わなきゃ君は僕の所に来ないだろう?昔からずっとそうだよ。隠せるものは全部隠して、我慢しようとする」
兵助が何も言えないでいると、伊作は悲しそうに呟いた。
「何のために僕がいると思ってるの」
兵助が目を見開いた。
「い、伊作先輩…!」
「駄目。許さない」
伊作が兵助の体を起こしながら不機嫌そうな声を出すと、食満がクックッと笑った。
「伊作にバレるまで黙ってたお前が悪い。観念するんだな」
「う…」
兵助が苦い表情を貼り付けると、伊作が兵助の肩を回しながら口を開いた。
「もう君は僕の患者だから。ちゃんと治るまで僕の言うこと守らないと……分かってるね?」
「!」
自らの肩が僅かにミシリと音をたてたのを聞いて兵助が面白いほどにビシッと固まる。
「伊作は人体の構造知り尽くしてるからな。ある意味六年で一番恐いのこいつだぞ」
部屋に入る直前に聞いたやり取りを思い出して、食満の言葉に大いに納得する。
(この食満先輩が逃げることすらできなかったんだもんなぁ…)
何馬鹿なこと言ってるの、と伊作が半眼で軽く食満を睨む。
「…まぁ、実技をするなとは言わないから。とにかく準備体操を徹底的にすることと、風呂でのマッサージは厳禁ね。上がったらこの湿布貼って」
矢継ぎ早に指示を出され、差し出された湿布を受け取る。
「あと、肩が凝ると姿勢が崩れやすいから意識して胸を張ること。頭をね、ちゃんと肩の上に載せるようにするんだ」
無意識のうちに猫背気味になっていた兵助の両肩を後ろから掴んでグッと開き、頭をちょっと引いてやると、兵助が驚いたような顔になった。
「あ…」
「ね?肩が楽になったでしょ」
伊作が嬉しそうにニコニコしながら湿布薬を片付け始める。
「次は三日後ね。あぁそうだ、尾浜くんも連れておいで。マッサージの仕方教えるから、お互いにやってあげるといいよ」
その背中にもう不機嫌な空気は欠片も無くて
兵助が伊作の寝間着の裾をくいっと引くと、伊作が不思議そうに振り返った。
「ん?」
「ありがとう…ございました…」
「……うん。お大事にね」
兵助が一礼して出て行くと、食満が意地悪く笑った。
「なぁ伊作。お前どんだけ久々知のこと見てんだよ。六年ならまだしも、殆ど関わりのない五年の肩の位置なんか普通気づかねぇって」
「…仕方ないだろ」
伊作が溜め息をつく。
だって、見とかないと
あの子は頑張りすぎるから