小説 | ナノ
「貝合せには参加なさらないのですか」

初めての会話は思いがけず彼女から投げ掛けられた。
廊下の曲がり角でたまたま鉢合わせた彼女に軽く会釈をして通りすぎようとしたところ、呼び止められたのだ。暇を持て余した女房達が人を集めて貝合せをしているのは、今朝声をかけられたので知っていた。
「ええまあ…、あなたは?」
もしかしたら呼ばれてすらいないのかもしれない、と訊いてから思ったが一度口から出ててしまったものはどうしようもない。返事を待つと、彼女は少し考えるような間をあけて、「ああいうのは苦手で」と呟いた。

何となくわかる。貝合せ自体は割りと得意な方なのだが、ああいうのはどうも馴染めない。彼女も恐らく同じ思いなのだと思う。
「驚きました」
「…?」
「貴方にも苦手なものとかあるんですね」
彼女はきょとんとした顔をする。目を丸くして首をかしげる様子からして何の話か把握しきれていないのだろう。

「貴方の書かれる文章からは読み取れなかったので、つい」

そう伝えると彼女は漸く合点が行ったらしく、顔つきが強張る。
「読んじゃ駄目でした?」
「…駄目ってことはないですけれど、読んだところで面白くもないでしょう」
はあ、と聞こえるか聞こえないか程度の小さな溜め息が吐き出される。僅かに溢れた横髪を手で掬って耳にかけると、彼女は視線を私から逸らして遠くの景色へと移した。感情を映さない静かな横顔だと思った。
「どうして面白くないと思うのですか?」
「当たり前の事しか書いていないですから、あれは」
「それでも倫子様は褒めていらっしゃいましたよ」
「物好きなお方なんですよ、あの人も」
彼女の話し方は淡々としている。抑揚がなく、どこか事務的…。予め用意されていた言葉がその場に応じて僅かな誤差もなく等しい重さを持って跳ね返ってくるようだった。
「そう思っていながらも書き続けるのは何のためですか?」
「…そういう仕事なので」
漸く彼女はこちらに向き直る。何か言いたげな表情だと思ったが、それ以上は何も口にしなかった。こちらもそれ以上は言及せず、何の気なしにちらりと視線を彼女の右手に移す。彼女は直ぐ様それを感じ取った。包帯で巻かれた指がピクリと動く。だけどそれだけだった。
目線を自身の指先に落とした彼女は至極落ち着いた声音で話し出した。
「これはもう使い物にならないんですよ」
「…」
そう言ってこちらに向き直ると彼女は目を細めて小さく微笑んだ。
「それでも、主人が望むのならば努めるのが従者の務めというものなのでしょう」
水面を舐める静かな波紋のような言葉の響きだった。
それ以上のことを彼女は語らなかったし、私も訊ねなかった。
失礼しますと小さく会釈をして立ち去った彼女の後ろ姿が曲がり角に消えていくのを見届けると、ふうっと息が漏れる。


「珍しい組み合わせね」

すぐ後ろから声が聞こえてきて背中がびくりと跳ね上がった。聞き慣れた声に振り返ると、案の定、声の主は悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべて佇んでいらっしゃる。
「…倫子様、いらっしゃったのですか」
「残念ながら今来たところ」
「そうですか…」
倫子様は黙ってこちらを見詰められる。わたしから返ってくる言葉を待っていらっしゃるのだ。
「…彼女の作品を読んだのですが」
すうっと目が細められる。
「倫子様はあの文から何を汲み取られたのですか?」
「特に、なにも」
「え?」
「だってそういう文でしょ?あれは」
言っている意味がわからなかった。随筆にしても小説にしても和歌にしても、読み手の心に何か伝えたいものがあってこその作品だと思うし、そうあるべきだとも思う。彼女のは単なる記録だ。それ以上でもそれ以下でもない。
「納得行ってない顔」
「そうは言っていませんが…」
「あなた顔に出やすいから」
クスクスと頬笑まれる倫子様の肩が小さく揺れる。主には何もかもがお見通しらしかった。
ひょっとすると倫子様は彼女が夜な夜な震える手で筆を握り、机と向かいあう姿をご存じなのかもしれない、と思った。知っていて、彼女の書き出す次の言葉を、彼女自身の帰還をずっと待っていらっしゃるのかもしれない。
そしてまた彼女も同様に倫子様のお心遣いに必死で答えようとしている。浮き世には珍しく極めて殊勝なことだと思う。
「もしも彼女の文に心が生まれたら、倫子様はどうお思いになるのでしょうか」
気がつけば口をついて言葉が出ていた。倫子様は目を丸くされる。私がこんな事を訊ねたことに驚いていらっしゃる様だった。
「好きよ。今の彼女も、これからの彼女も」
彼女のこれからを確信しているかの様な穏やかな話し口だった。細められた瞳が暖かい温度を宿している。

゛それでも、主人が望むのならば努めるのが従者の務めというものなのでしょう゛
そう言って優しく微笑んだ彼女の瞳と重なった。
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -