小説 | ナノ
屡々、彼女は夜になると書き物の時間を作っていた。暗がりの間に高さの低い切燈台を用いて、岡目には読み物をしている様にも見えたが、どうやらそうではないらしかった。一度だけ、局の側まで近付いて中の様子を覗いてみたことがある。盗み見るつもりはなかったが、がんがりと灯るそこは所謂一人部屋で、集中して何かの写しを取っていた彼女は最後まで私の訪れには気がつかなかった。その場に居合わせたのは時間にしてほんの寸刻だったが、眉間にぐっと皺を寄せ、何度も何度も筆を力強く持ち直しては紙とにらめっこをするその姿を不思議に思ったは今でも覚えている。

観察してみれば、彼女は他者との関わりを極力避けているようだった。他の女房達が世間のつまらぬ噂話に華を咲かせている時でさえ、輪の中に溶け込まず、一歩離れた場所でどこか遠くをぼんやりと眺めていることの方が多かった様な気がする。
そんな彼女は宮中に勤め始めてまだ間もない私の目にも異質に映った。




「まあ気の毒だけど」
また、彼女は度々話題の種としても女房達の間で取り上げられた。どうやら話によると利き手が満足に使えないらしかった。というのも、数ヶ月程前、中宮様のお出掛けに付き添いとして同行した際、右手を負傷してしまったのだと言う。今は添え木で固定して折れた指の回復をはかっているそうだけれど、まだ指は治らないのかとぐずる中宮様に「その兆しがないのは運命のいたずらなのだからどうしようもない」と倫子様が困り果てた様子で宥められる姿を以前みかけた者が女房の中にいるらしかった。
「それでも元々彼女は物書きとしての腕が認められて宮中に呼ばれたわけですから、こうなってしまうと後は火を見るよりも明らかなわけで、気の毒と言えば気の毒な話ですね」
改まった口調で話す女房の一人は残念がるような声音こそ示したが、そっと伏せられた視線は手元の唐菓子に落ちていた。彼女の不幸は宛ら下世話な団欒に添えられる茶菓子と言った所だろうか。それこそ気の毒な話だ。話に聞き耳をたてながらも世間の煩わしさに辟易した。
「とは言え怪我を負ったのは中宮様を守るためだったとも聞くから、御慈悲で案外免職は免れるのかもしれませんよ」
誰かがまた口を開く。これには皆一様の思いがあったのか、何とも言えない難しい表情で各々視線を送りあっていった。すると、むず痒い空気を絶ち切るように誰かがおどけた調子で口火を切る。
「だけどもまあ働きもせずに生活が保証されるんだから、羨ましい」
一瞬の沈黙が訪れたかと思うと、今度は胸のつかえが降りたとでもいいたげな表情で「それもそうだ」と周りの女房達が次々と同調を示し始める。一度塞いでいた栓が抜けてしまうと女達の熱した舌は冷めることを知らない。心無い妬みや嫉みが次々と溢れでてくるものだから開いた口が塞がらない。
だからこういう下卑た集いは嫌いなのだ。知性も教養も無いくせに下世話な話に華を咲かすことだけは得意と来るのだからもう救いようがない。終いには気の毒だなんだと話を持ち出したはずの女房までもが嬉々として「仕事が出来ないなら宮中を去るべきだ」「図々しいったらありゃしない」と騒ぎ立てているものだから滑稽であることこの上ない。
まともに話したこともない彼女に僅かな同情を覚える。

結局彼女に免職は言い渡されなかった。しかしどうやらそれは、筆を持てる程まで利き手が回復したから、というわけではなさそうだった。女房達の予想通りに事が運んだらしい。

柵に立てた肘の上に顎を乗せながら深い溜め息を吐いた倫子様は悩ましげに空を見上げられた。
「もう少し上手く生きてはくれないものかしら」
「…はい?」
あまりにも唐突な話し口だったので、反応が一拍遅れてしまう。そんな私を気にする様子もなく倫子様は空を仰いだまま静かに話を続けた。
「もともとあの子も貴方と同じで文を書く才能があるから雇ったのよ」
ああ。どうやら彼女の話をしているらしかった。相槌を打たずに静かに耳を傾けると、倫子様はゆっくりとつまびらかに事の子細をひとつ、ふたつと語り始められる。彼女が怪我を負うことになった経緯から始まり、千切れたパスタのようにバラバラになった指の神経はもう二度と元には戻らないということ、筆を持てなくなった彼女が宮仕えを許されていることに不満を抱いている女房達がいることまで。倫子様は思春期の娘に頭を悩ませる母親の様な口ぶりで縷縷綿綿と彼女について話された。
「あの子もあれで貴女みたいなところがあるから」
「私みたいなところ、ですか?」
「ええ、ほら、まあ、いろいろねえ」
言葉を濁すところを見ると、長所を言及されているわけではないことが読み取れた…。まあ、分からないでもない。話したことこそなかったが、彼女も人付き合いが得意な方ではなさそうだったし、だからこそ女房達にも歓迎されないわけで、倫子様はそれに頭を悩ませているのだろう。他人事ではあるが、何だか非常に申し訳なくなる。
気まずく思いながらも視線をチラリと向けると、いつの間にやらこちらに向き直っていた倫子様はクスクスと笑みを溢される。
「あの子の随筆って読んだことある?」
「いえ…」
「独特で結構興味深いわよ」
「はあ…」
「まあ、もうそれも書けないわけだけど」
軽い調子でそう一言付け加える倫子様の表情は読み取れない。話はそこで一端途切れた。
静かに倫子様から視線をはずし、遠くを眺めたところで、ハッとした。夜な夜な局で一人硯をする彼女の姿を思い出したからだ。合点が行く。眉間にぐっと皺を寄せながら紙とにらめっこをする彼女が筆を握っていたのはよくよく思い出してみれば左手だったのかもしれない。思い始めるとたちまち記憶が鮮やかになる。だとしたら彼女はまだ筆を持つことを諦めてはいないのだろう。
倫子様はそのことをご存知なのだろうか…。
その横顔にそっと視線だけを向けると、それにあわせたかの様に再び倫子様が口火を切られた。
「写しがあるから興味があればまた読んでみたらどうかしら」
「機会があれば、読んでおきます」
「読まないって顔に書いてあるけど」
「…読みますよ」
ふふふと笑うと倫子様は「じゃあ」と言って小さく手招きをされる。不思議に思いながら一歩近寄ると、懐から取り出された数十枚の紙の束を、そっと胸元に押し付けられた。…初めから渡すつもだったのだろう。でなければそんな都合よく持ち歩いている筈がない。黙って受けとると倫子様は満足げに頬を緩めて、小さな声で囁かれる。
「気にかけてあげて欲しいのよ」
気にかけるも何も話したこともないのにそれはまた一体どういう…。そう思っていると心を読まれたのか倫子様は「それに、ほら」と返事を渋る私の注意をひいた。
「あの子は貴女の作品結構好きみたいだし」
「はあ…、それはまあ有り難いですが」
「迷惑そうな顔してる」
「そんなことはありませんが…」
「まあ無理にって訳でもないから、あまり気負わないで」
「はあ…」
気の抜けた私の返事に倫子様は可笑しそうにまたクスクスと笑って居住まいを正されると、静かにその場を後にした。


彼女の随筆はザッと見て、特に目を見張るほどの表現力や豊かな感性などは見当たらなかった。当たり前の情景が当たり前の形式に乗っ取って淡々と書き連ねられている。
『朝になると太陽が上る。東から西へ。春になると桜の木が芽吹き出す。更に季節が深まると満開の桜を肴に人々が集まっては宴に興じる。それが散る頃になると、つつじが花を開き、木々は芽吹き萌黄に色を染める。』
つらつらと一定の調子を崩さずに続いていく文章はどうも味気ない。いくら目を凝らしてみてもそこから彼女という人物を見つけられないのだ。春の桜が綺麗だとか、夏の暑さが煩わしいだとか、そういった作者の感情が少しでも文章の中に混じり込んでいたならばもっと容易かったのかもしれない。随筆と呼ぶにしては、それはあまりにも客観的すぎる気さえした。
それでも不思議とつまらないとは思わなかった。それどころかその簡素な文章の中にぐっと引き込まれることも度々あった。それ程に彼女の文章には不思議な魅力があったのだ。
話の中には彼女の身の回りの出来事も、多くはなかったがいくつか書かれていた。全てが全て同じ調子で書かれているものだから心腹こそ計り知れないが、母親の死についてもちょっとした連絡事項の様に、或いは他人事のようにほんの二、三行で簡潔に綴られているのを見ると痛ましく思えた。彼女にとっては日々の出来事は同一に等しい重さを持っているのかもしれない。花が芽吹くのも、人々の喧騒を眺めるのも、母親をなくすことも。
だとしたら指が使い物にならなくなったのも何気ない日常のひと駒に過ぎないのだろうか。毎日毎秒飽きることなくその駒を繰り返す運命を静かに受け入れたのだろうか。なんの感情も乗せずにその事さえ心の片隅へと片付けてしまうのだろうか。
だったらどうして筆を握るのを止めようとしないのか。
彼女の随筆を読んで、人々がどんな感想を溢すのかはわからないが、文章としての精巧さは申し分無いようだった。
感情を乗せず、静かに、短く書かれた文章は人のぬくもりを感じさせぬほど整っていた。
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