小説 | ナノ 「モスカート」
女の声が耳に大きく響いた。夢とうつつの狭間をさ迷っていた意識は少しぼんやりとしている。それでも色めかしく、凛としたその声には心当たりがあった。コツコツとヒールの靴が固く冷たい大理石の床をテンポよく叩く音が近付いてくる。ピタリとすぐ傍で足音が止まると同時に大きなため息が上から落ちてきた。
「返事くらいしたらどうなの」
怒っているけど声音は穏やかだ。うっすらと瞼を持ち上げると視界にぼんやりと女の姿が映り込む。緩くウェーブのかかったブロンドの髪が起き抜けの目には少し眩しい。…ベルモットだ。寝ぼけ眼を擦りながら真上にある彼女の顔を眺めていると今度はさっきよりももっと大きなため息が吐かれた。
「何でこんな時間までソファで寝てるのよ」
言われてチラリと壁にかけられた時計に視線を寄越すと、短針は四の数字を指していた。窓から差し込む日は陰り始めている。少し寝過ぎたかもしれない。そう思いながらも肩までかかっていた薄い掛布とんを口元までかぶり直す。
すると、「あきれた」とでも言わんばかりの表情で眉尻を下げる彼女は左手で髪を耳にかけながらゆっくりと腰をかがめた。顔がぐんと近くなる。金色の髪の毛先が少し頬にかかっていてこそばゆい。払いのけると、彼女はクスリと笑って「昨日は遅かったの?」と訊ねてきた。
返事はしない。返事をしたら敗けのような気がするから。あくまでも黙り込んでいると彼女は困ったように微笑んで立ち上がり、ソファの真ん中端に浅く腰を下ろした。
「貴方、私にそういう態度を取る分には別に構わないけど、他の幹部には返事くらいちゃんとした方がいいわよ」
短気なのも中には居るから。わかった?と子供を諭すような口調で付け加えるから、小さく頷いておくと「良い子」と頭に手が伸びてくる。こういう扱いには慣れていないから気恥ずかしい。頭を撫でられのを避けようと身動ぎしながら上半身を起こすと、彼女は黙って手を退いて居住まいを正すようソファに深く腰掛け直した。
ベルモットは私のことをよく気にかけてくれているようだった。理由はわからないが、この建物に連れてこられてからは彼女といる時間が一番長いような気がする。幹部の人間に作れと指示された薬を研究室にこもって開発している時もベルモットはよく訪れた。食事や睡眠はちゃんと取っているのかといってパンやお菓子を置いていってくれるのだ。彼女は私の世話係かなにかに任命されているのだろうか。
思えば、初めて罪の無い人間を手にかけたその時もベルモットは私の傍を片時も離れなかった。
顔は覚えていないが、弱そうな小太りの男だったと思う。口回りにガムテープを巻かれ、両手足を拘束された男は目を見開き、こちらに向かって何かを必死に訴えかけようとしていた。その様子を端から眺めせせら笑う幹部の人間に「早く殺れ」と急かされ、私はゴクリと息を呑み、引き金を強く引いた。9ミリのベレッタで胸を7発。一瞬の出来事だった。後で聞いた話だと、二発目あたりで玉は男の急所を射ていたらしいが半狂乱に陥った私は銃弾が切れてからも引き金を引くのをやめなかったのだという。銃で人を撃ったのはそれが初めてだった。あまりはっきりとした感覚は残っていない。ただその時の光景だけはしっかりと鮮明に脳に焼き付いたまま、今でも時折夢に見る。赤く染まり滲んでいく視界を遮ったのはベルモットだった。
もう終わったの、銃を降ろしなさい、と低く囁く声は確かに彼女のものだった。その横で「とんだイカれ野郎だ」と呆れたように笑ったのはジンだっただろうか。
とにかく他の組織の人間が部屋から立ち去った後もベルモットは部屋の壁に寄り掛かったまま、やおら冷たく硬直していく屍体を前に立ち尽くす私をじっと静観していた。
あれは組織に対する忠誠を示す儀式だったらしい。だけどそんなのは嘘だ。あんなことで忠誠が示されるわけがないのは火を見るよりも明らかなのだから。はっきりとしていた。あの日執り行われたのは、私の、私自身の告別式だ。後戻り不可能な社会との決別。
踏ん切りがついた、というと嘘になるが、もう戻れないのだということはちゃんと理解しているつもりだ。これから先、もしもまた同じ様な忠誠を要求されることがあれば私は迷わず引き金を引くだろう。正義だとか悪だとかそんな綺麗事は、今さらもうどうでも良いのだ…。
ただ一つ守りたいものがある。臆病な自尊心や崇高な倫理観何かじゃない。
家族だ…。

「何か考え事してる?」

目の前に座る彼女から声がかかり、ハッと我に帰る。訊いておきながら、その緑の瞳は全てを悟っているようだった。慧眼恐れ入る。ここ数ヶ組織に居てわかったことなのだが、ベルモットは勘が非常に鋭い。何か考え事をしていると隣に居る彼女は決まって言い当ててくる。どうしてわかったのかと訊くといつも「女の勘よ」と得意気に口角をあげて妖艶に微笑むのだ。
男を殺した翌日、部屋の隅で沈んでいたところ、「人を一人殺したくらいで気に病むことは無いのよ」と頭を撫でられたことがある。
ベルモットは人を殺したところで動揺なく日々を安らかに過ごせる人間なのだろうか、と思った。恐らくきっとそうなのだろう、と思う反面、本当にそうなのだろうかと疑う心もある。今もそうだ。頭がくらくらする。ベルモットの声はとても心地好がよい。トゲトゲしい背徳心を良心が責め立てるかたわら、まるでベルモットを見ていると、泣き出してしまいそうなほどの安堵感が込み上げてくることもある。
「モスカート」
ベルモットが私のコードネームを呼ぶ。こればっかりはいつまで経っても慣れない。私はワインなんか…好きじゃない。
「…うん」とワンテンポ遅れて返事をするとベルモットは何かに気がついたみたいに片眉を微かに持ち上げ、クスリと頬笑む。嫌な予感がする。
「慣れないんでしょう」
…やっぱりだ。ベルモットは時折意地悪になる。
「本当はまだこっちの名前で呼ばれたい?」
スッと緑の目が細められる。しなやかな指先が懐から何かを取り出す。ドクンドクンと心臓が騒がしく脈打ち始める。
出てきたのは黒い、手帳のような物…。
嗚呼、それは。思わず声が漏れそうになった。もしかしたら漏れていたのかもしれない。ベルモットはニッコリと微笑んで手帳を開くと私に向かって見せ付けるように翳した。やめてよ…。声が出るより先に目頭が熱くなった。
青い字で大きく印字された三つの英字。スーツにネクタイを締め、誇らしげに真っ直ぐこちらを見据える女の顔写真。その下に記載されているのは、紛れもなく私の…本当の名前だ。懐かしい。そして何より、侘しい…。
もう後戻りは出来ないのだ。
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