小説 | ナノ




手のひらに乗せたピアスを見つめながら、ううんと唸り続けるナマエは酷く物憂げな顔をしていた。きらきらと輝く左右セットのピアスには赤い薔薇が小さくあしらわれている。薔薇はナマエが一番好いている花だった。勤め先である花屋の店主から貰ったのだと言う。
悩む横顔をライナーは怪訝に見やった。
「結局どうするんだよ。開けるのか?開けないのか?」
二つに一つなんだからさっさと決めれば良いだろ、と言ってため息を吐くと恨めしそうな眼差しで睨まれる。
「開けたいのは山々だけど、痛いのは怖いから悩んでるんだってば。」
家に訪れてから数十分、何度となく繰り返された言葉のやりとりにライナーは再びため息を吐いた。サイドの髪を耳の後ろにかけると、ナマエは丸裸になった耳朶をふにふにと指先で弄り始める。人生で一度もピアスホールを開けたことがないというナマエの耳は傷一つない艶やかさを未だ保っていた。痛いかなあ、なんて独り言をブツクサ呟いているが、その姿がライナーには馬鹿馬鹿しく思えた。
自ら戦の最前線に志願して惜しむことなく血を垂れ流してきた女が何を今さらピアスごときで…、と思うのが本心である。これまで経験してきた負傷の数々を思えば、耳に小さな穴をひとつ開けるくらい、数えるほどの痛みでもないに決まっている。
「痛いのなら慣れっこだろ…。」
「痛いものは痛いよ。慣れるなんてない。」
「じゃあどうするんだよ…。」
訊ねると、ナマエは深いため息をついてどさりと机に突っ伏した。重い音と共に髪の束が机に散らばる。耳に掛けられていた一束も、スルリと離れて落ちてしまう。窓から差し込む陽に当てられたナマエの髪は薄ら明かるい茶色をしていた。チョコレートみたいな深い色をした髪は暗がりで見ると黒髪に見えたりもするのに、なんだか不思議な感じがするなとライナーは思った。
「あ、ライナーにあげようか?」
すくりと顔を持ち上げたナマエが嬉しそうに首をかしげる。………。
「それを俺が付けてどうするんだよ。」
「どうって、可愛いよ。」
手の中のピアスを二つ両手で摘まむと、ナマエは鼻唄を歌いながらそれをライナーの耳元へと宛がった。うん、かわいいよ、なんて言葉が聞こえてくるが無視。憎らしいその両手をライナーはしっしと払いのけた。
「…要らん。ピアス穴なんて開けるつもりもない。」
「あ、ライナーも怖いんだ?」
言わせておけばナマエの口からは軽口ばかりが止めどなく出てくる。アニやアルミンの前ではしおらしく利口にしている癖に二人が居ないとなるとすぐにコレだ。お前らの信奉してる穏やかで優しいナマエちゃんが実際は如何に慇懃の不足した糞ガキか…。一度現実を見た方がいいとライナーはこの場に居ない二人に対して強く思った。

*

二週間後の昼下がり、再び家を訪れたライナーは玄関に立つや否やナマエの耳に留められた銀色のピアスの存在に気が付いた。
部屋へ招き入れると、ナマエは紅茶を淹れて出してくれた。前回は目の前の課題に没頭して、少しも歓迎してくれなかったのだが、問題はすっかり解決したらしい。いつもなら自然に降ろされているミディアムロングの髪が今日はヘアゴムで緩く結ばれていた。少しこぼれた後れ毛が波打ってそよいでいる。
「開けたのか。」
「うん、もう二度と開けない。ちょっと膿んじゃったし。」
ナマエは耳の端を引っ張りながら困ったように眉根を寄せた。膿んでいる間はあまり触っちゃいけないんだって、と焦れったそうに口を尖らせて言う。
「へえ、そんなこともあるんだな。」
「ちゃんと消毒して開けなかったから。」
「どうやって開けたんだよ…」
「そこら辺の針で普通にぶち抜いただけ。」
あれだけビビっていた癖に、何がどうしたらそういう発想に至るのか。あっけらかんと答えるナマエを前にライナーは理解に苦しむ。
あまり触ってはいけないと自分で言っておきながら、暫くするとナマエは片方の耳を下にしてごそごそとピアスを取り外し始めた。
「見る?」
ピアスの穴を見せてくれるらしい。あまり興味はなかったが、別段断る理由もないので近寄って斜め上から覗き見る。耳を引っ張りながら「ほらね」と言われるが手が陰になって細部がよく見えない。おまけにナマエはチビだ。角度が絶望的に悪い。腰を低く屈めたライナーは邪魔なナマエの手を払いのけて、開いた穴を眺めた。確かに傷口が少しぐじゅりと湿っているようだった。その周りもほんのりと肌が赤く滲んで腫れ上がっている。

突然、ガチャリと玄関の扉の開く音がして、ライナーは身体をびくりと跳ねさせた。拍子に摘まんでいたナマエの耳を強く引っ張ってしまう。
「わっ…」と慌てたナマエの身体が傾いて、頭がライナーの鼻にぶつかる。
ジンジンと痛みの広がる鼻を抑えながら振り替えると、ポカンとした顔でこちらを見つめるアニと目が合った。その手には何やら荷物が抱えられている。
「何してんの…?」
立ち尽くしたまま一向に中に入ってこないアニに、ナマエはライナーの身体を邪魔だと言わんばかりに押し退けて扉の方へと駆けていく。
「アニ。いらっしゃい。」
来てくれたんだね、と声音を高くして笑みまぐ姿は主人の帰りを迎える犬さながらだ。
ナマエに持ってきた土産の袋を手渡すとアニは羽織を脱ぎながらライナーの傍まで歩いてきた。
「で、アンタはここで何してんのさ…?」
「何って、暇潰しに来てただけだよ。悪いか?」
「あ、そう。へえ。」
含みのある物言い。冷ややかに向けられる視線が痛い。何を勘違いしているのか知らないが、ナマエみたいな色気のない女こっちからお断りだ。出きることならクリスタの爪の垢でも煎じて飲ましてやりたいくらいだというのに、コイツと来たら。いつからそんな過保護になったのか。らしくもない。
チラリと視線を逸らすと、上機嫌にキッチンで探し物をするナマエの背中が視界に入った。新しい紅茶を探してくると言って向かったはずが、何故か辺りを散らかすことに尽力している…。
そうして現れたティーパックは先程ライナーに出されたものより明らかに高級そうな包装がなされていた。…こう言うところだ。
手元の椅子に腰かけたアニが何かに気が付いたらしく反応を示す。
「これ、何?」
机の上に置かれたままの銀のピアスだ。
「あ、それ、固定用のピアス。こないだ穴を開けたから。」
開けたばかりのピアスホールは塞がりやすいから、安定するまでの数週間はずっと固定用のファーストピアスを付けておく必要があるんだよとナマエが説明する。普通のピアスを付けられるようになるのはもう少し先らしい。
「ピアスを開けた穴が膿んじゃって、ライナーに見せてたんだけどアニも見る?」
「膿んだのをかい…?」
「うん、気持ち悪いよ。」
「…気持ち悪いなら要らない。」
それが普通の反応だ…。
こんなところに放っておいたら失くすよ、と注意を受けたナマエはピアスを受け取りいそいそと耳に付け直している。いつもライナーのことをお母さんみたいだと煙たがるナマエだが、こう見るとアニの方がよっぽど母親らしい。


紅茶を一杯飲み終えると、アニは持ってきた紙袋を指差して「アルミンから贈り物」とだけ言って席を立った。もう帰るの?と残念がるナマエに、「ライナーとこれから出掛ける予定があるから」と淡白な答えが返される。初耳だ。良い予感がしない。
しかし抗議するよりも早く、熱の籠らぬ声と視線で「行くよ」と促されると、有無を言わせぬ強制力に自然と言う通りに足が動いてしまう。我ながら情けない。
玄関を出ると前を歩くチビは眉の読めない態度でこちらを見上げてくる。すぐにでも足を引っ掻けてひっくり返されそうな空気に身構えてしまう。
「何だよ…、予定って。聞いてないぞ。」
「そりゃ言ってないからね。」
当たり前だと言わんばかりの涼しげな顔。
あのさ、と言いながら気だるそうに首筋を擦るアニにライナーはビクリとした。殴られるのかと思った。
「ナマエはああだから距離感とか分かってないけど、アンタは分かるでしょ。」
「…うん?」
「あんまりベタベタ触るのはやめなってこと。」
「…………………………………嫉妬か?」
言い終えるよりも早く鳩尾めがけて回し蹴りが飛んでくる。嘘だろとライナーは瞠目した。目では追えても頓馬な脳が動きに付いていかない。見事真っ向から受けて臓器が口から飛び出そうになった。膝をついて踞るライナーに、アニは腰を落としてニヒルな視線を寄越した。
「アンタ意外なら誰でも良いけどアンタは駄目って言ってるの、わかんない?」
「それ、単にお前が俺のこと嫌いなだけだろ。」
「そうだけど?」
目が据わっている。自分が何を言っているのか自分で分かっているのか甚だ疑問だ。
「大好きなナマエに悪い虫が付くのが嫌なんだな。なのに本人にはそれが言えない。嫌われるのが怖いからだ。」
「よく喋る口だね。」
「お前と比べたら誰だってそうだ。」
ありったけの嫌みを込めてハッと嘲笑するもアニは黙ってライナーを見つめるだけだった。てっきり執着しているのはナマエの側だけだとばかり思っていたが、どうやらそうではないらしい。寧ろ、親友二人の恋路を邪魔するまいと遠慮するナマエの方がよっぽど向かう感情が澄んでいる。それに比べてコイツはどうだ。及ばぬ懸念に駆られて影で脅し紛いの工作をする始末だ。
…だいたい、
「俺はナマエみたいな馬鹿なんとも思ってない。」
「だったら良いけどね。」
全く信じていない目だ。アニはすくりと立ち上がると何もなかったかのように静かに先を歩きだす。倣ってライナーも立ち上がり、その後を歩いた。
少しも振り返らないアニの背中を見つめながらライナーは思う。確かに、ほの暗い過去を共有して尚当たり前に接してくれるナマエの隣は心地が好かった。清濁併せ呑む度量のあるナマエはライナーを心の底から憎んだりしない。しかし、他人と関わる上での優先順位は彼女の中に明確にあるらしく、融通の利かない凝り固まった序列は時にナマエの倫理観すら揺るがせるようだった。ありふれた心のあり方だと思う。ただ人より少し視野の狭いところがあるのも確かだ。感情が豊かなように見えて、特定の人間に向けられる思いを離れては、途端に無機質な部分が見え隠れする。ナマエがライナーに向ける感情は薄く曖昧で、それだから心地好い。細やかな髪の流れるのを眺めたり、涼やかな瞳が瞬くのを横で観察するのは嫌いじゃない。しっとりとして艶やかな肌に痛々しい傷が赤く色付いているのを見るのも。ドキリとすることはある。だけどそれだけだった。恋慕の情を抱いた過去もなければ、抱く予定もない。
それを説明したとてアニが理解できるかは分からないが、話すつもりも元よりライナーにはなかった。
散々人生を狂わせてきたかわいいチビの幼馴染みだ。多少の八つ当たりには付き合ってやっても良いと、ライナーは鼻を指で啜りながらしたり顔で笑みをこぼす。
先を歩くアニの隣に並び、奥の肩をポンポンと叩いて友好を示したライナーが地面とキスをするのは直ぐ後の事だった。

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