小説 | ナノ




通り一般のありふれた家庭で産まれたナマエは、仲睦まじい両親からの惜しみない愛情を背景に、のびのびとした幼少期を過ごしてきた。一日は母の「おはよう」の声で始まり、終わりには父の「おやすみ」のキスで眠りにつくのが日課だった。
窓にはいつも花瓶が置かれ、季節ごとに色味の違う花が飾られていたのをよく覚えている。決して裕福ではなかったが、年に一度の誕生日には名前も知らないような特別な料理が机の上に所狭しと並んだ。
花や草木から始まり何にでも興味を示すナマエに、両親は時折図鑑や教本を買い与えた。新書であるのは稀で、その大体が茶ばんだ古本だったが読むにあたって然したる問題はなく、ナマエはそこからの知識をスポンジのごとく吸収した。日の明るい内は、毎日のように一人野原に出て花の採集や草木の観察に勤しんだ。花冠を作って家に持ち帰ると、近場に咲いていない花の種であることに気が付いた母がナマエをきつく叱りつけることもあったが、後には必ずその出来映えを褒めてくれた。
その頃を過ぎると、母は神妙そうな面持ちでナマエを椅子に座らせて、代々受け継がれる儀礼についてを語った。包帯の下に隠されていた腕の紋章を見せられ、東洋の血族に伝わる風習なのだという説明を受ける。初めこそ乗り気だっナマエだが、いざ始まってみると手首に針が刺さっていくのを眺めるのは怖くてしかたがなかった。痛くないからと何度も言って宥められたが、それも嘘。注射のような鋭い刺激と痛みが無限に続いていくようだった。
そこから数週間は機嫌を損ね、母や父との会話が極端に減った。しかし友達のいなかったナマエには会話の相手が両親を除いて他に無かったため、ささやかな反抗もそう長くは続かなかった。

そうして日々を過ごしている内に時は流れ、ついにその日はやって来た。
845年。
巨人の襲撃と共に、幸せな家族の暮らしは驚くほど呆気なく終わりを迎えた。

窓の外はまさに阿鼻叫喚の地獄絵図だった。街に起きた悲劇を理解すると、迫る焦燥に普段穏やかだった父が半狂乱に陥った。落ち着いてと抱きついた母を乱暴に振りほどき、頭を抱えてブツブツと何かを唱え出したかと思うと、次の瞬間には閃いたかのように父はキッチンへと駆けていった。その後ろ姿を不安げに見つめ立ち尽くすナマエに、母は「大丈夫だから」と何度も言って聞かせた。シンクの下の引き出しから何やら取り出した父がゆったりとした動きで振り返る。怪しげな微笑を浮かべていた。その手には調理用の包丁が握られている。嫌な予感がした。ナマエは直ぐ傍にあった母の手を強く握り、父から少しでも遠ざかろうとした。
しかしナマエの判断はあまりにも遅く、相対した父の行動はあまりにも早かった。
何が起こったか瞬時には理解できなかったが、ドサリと音を立てて地面に座り込んだ母の胸には包丁が突き立てられていた。柄を握っているのは勿論…。
きつく握っていた母の手から血の気が引いて行くのが分かった。張り裂けんばかりに目を見開いたナマエの肩を、父は空いた手できつく掴んだ。涙でぐしゃぐしゃになったその顔を見て、悲しいことにナマエは全てを悟ってしまった。心中する気なんだと。その次の行動はナマエの方が僅かばかりに早かった。置かれた手を払いのけ、気が付けば家の外へと駆け出していた。何かを思考したという記憶はない。ただただ走った。母はもう助からないのだと、直感的にそう思った。本当は逃げ出したかっただけなのかもしれない。だけど、そんなことはもうどうでもよかった。
足音はいくら走っても追いかけてこなかった。恐る恐る後ろを振り返ると、父の首から血飛沫が上がるのが見えた。嗚呼…。

そこからの運びは意外にもスムーズだった。呆然と立ち尽くすナマエを、駐屯兵の男が偶然見付け、避難所まで手を引いて走ってくれたのだ。

開拓地に送り込まれてからの生活はあまり覚えていない。ただ目の前の仕事をこなし、日々を暮らしていくだけだった。習慣化された生活と過酷な労働は、ナマエにとってある意味救いにもなった。考える時間を与えられては、きっとあの頃の自分は正気を保ってはいられなかったに違いない。


それから三年の月日が流れ、訓練兵になったナマエは同郷出身の同期に何人か出会った。その中でもエレンはよく目立っていたのを覚えている。巨人をこの世から駆逐してやると息巻くその様子は、憎しみの感情がその総身から溢れ返っているようだった。
そんなエレンと比べると、ナマエの中にある巨人に対する恐れや怒りの感情は非常に希薄なものだった。あの日の襲撃が家族を失うきっかけになったのは確かだが、胸奥に宿存している悲しみの萼の正体には到底なり得ないと思った。


風がドッと吹き込んでナマエはハッとする。木の枝で羽を休めていた小鳥が慌てたようにどこかへ飛び立っていく。
今日は久し振りの休日だった。森の木陰で気分転換をしていたはずが、気が付けば白昼夢のような鮮明な回想に耽っていた。一人でいると稀にある現象だった。気を抜くとすぐに良くないことに思考を費やしてしまう。これなら街に出掛けた仲間達についていった方がいくらか気が紛れたに違いない。
…気分転換は失敗に終わったと諦めて、今日のところはもう宿舎に戻った方が良いだろうか。
立ち上がり、来た道を引き返すと、森の中で予期せぬ人物に出くわした。
「こんにちは、アニ。」
「どうも…」
よそよそしい。普段から素っ気ない態度を取る同期は今日も例に漏れずナマエと視線を合わそうとはしてくれない。
そういえばアニと話すのは数週間前に対人格闘技の相手を断られて以来だった。
「どこか行くの?」
「……いや」
アニが言い淀む。目が泳いでいる。
「…もしかして迷子になったの?」
「……」
なんと。ビンゴだ。
「一緒に帰ろう。私道分かるから。」
返事はなかったが、先を歩くとアニはゆっくりと後を付いてきた。
サクサクと靴が草を踏むしめる音だけが響いた。なにか話しても良かったが、話さなくても特に困ることはなかった。アニの無口は嫌な感じがしない。愛想が悪いから近寄りがたいと言う同期も中には居たが、少なくともナマエはその内ではなかった。たまに口を開くと飛び出してくる歯に衣着せぬ物言いだって、存外嫌いではない。核心を突かれて刺さることはあっても不思議と不快感はなく、むしろその慧眼さが好ましく思えたりもする。そして、そんなアニにナマエは深い関心を抱いていた。
「アンタさ…」
後ろから突然声がかかる。
「うん?」
「こないだの対人格闘技でエレンを負かしてたよね。」
「見てたの?」
驚いて後ろを振り返ると視線が合った。
「目立ってたからね、アンタ達…。」
「ああ、私が勝てないのにしつこいから。」
「……自覚あったんだ?」
「うん、エレン凄く困ってたし。」
少し歩く歩幅を小さくして、アニの隣に並んだ。ちいさな体が横へとずれる。
「…性格悪いね、アンタ。」
「私が悪いんじゃなくて皆が良いんだよ。エレンは同郷だって話したら凄く気に掛けてくれるようになったし。」
同郷という単語にアニの視線が鋭く尖った。ナマエはドキリとする。
「アンタ…、シガンシナ?」
「うん、シガンシナの西の外れ。」
「…じゃあ、巨人を見たんだ?」
「見たよ。」
アニの問い掛けに答えながら、#name #はあの日家の窓から見た凄惨な光景を思い出した。巨人のサイズはまちまちだったが、比較的小ぶりな個体でさえナマエの十倍以上の大きさはあった。彼らは逃げ惑う人々を矢継ぎ早に捕まえては、まるでポップコーンでも食らうかのごとく次から次へと口の中に放り込んでいった。
「…なのにまだどの兵団に入るか決めてないの?」
「なんで?アニは巨人を見たことがあるの?」
訊くとアニの肩がビクリと跳ねる。まるで巨人の恐ろしさを知っているかのような口振りだとナマエは思った。じっと見つめると、その目は流れるように地面へと逸れた。
「無くても調査兵団に入るのが羊の歩みだってことくらいはわかる。だから死に急ぐエレンも、悩んでるアンタも、私には到底理解できない。」
「エレンは仇を打ちたいんでしょ?普通の感情だと思うけどな。」
「…アンタは違うの?」
「私は、どうだろう。でも、決心がついたら調査兵団に行くんじゃないかな。」
「…なんの決心?」
「なんだろうね。」
曖昧に返事をした。「わからないけど」と笑って付け足すと、アニは胡散臭いものでも見るような訝しむ眼差しでナマエを見た。そんな視線を向けられたところで、ナマエにとってはアニについての話の方がよっぽど関心がある。憲兵団に入るのかという問い掛けにだって、結局未だ答えて貰っていない。
もっと心を開示してくれればと思うのだが、秘密主義のアニについてナマエが知っていることと言えば、名前と年齢くらいのものだった。
「アニは憲兵になるんでしょ?」
視線だけがチラリと向けられる。無言の肯定と捉えて問題なさそうだった。ふんっと鼻をならすとアニは大股に前を歩いていく。もう少し行くと右に曲がらないと行けないことを分かっているんだろうか。
「私が調査兵団に入ったら、アニのいる内側には巨人を攻め込ませないようにするね。」
「…そりゃどうも。」
何か言いたげな間が開いたが返事は素直だった。テキトーなことを言っていると思われているんだろうか。ナマエはチラリとアニの背中を盗み見て、あっと声を漏らす。
「アニ、そっちじゃない。こっち。」
やっぱり分かっていなかった。謎の自信を指針に真っ直ぐ突き進んでいこうとするアニの手を引いて行き先を正した。苦虫を噛み潰したような場都の悪そうな顔をする。
繋いだ手を離さず握ったまま歩き出すとアニは不満げな声で「ちょっと…」と抗議を示した。掌の中が暴れている。それも無視して進み続けると、やがて力が緩んで大人しくなった。本当は簡単に振り払えるはずなのに、アニは意外と押しに弱いところがある。根比べに見事勝利を納めたナマエは捕まえた手をパッと離して逃がしてあげた。
兵舎が見えてくるとアニは軽く礼だけ言って、じゃあと消えていった。本当はもっと話していたかったが、他者を寄せ付けない意固地な警戒は入団した頃から少しも揺るぐことがない。手持ち無沙汰になったナマエは、退屈な一日を潰すため宿舎に帰って一眠りつこうかと思ったが、一歩踏み出したところで先程の白昼夢が脳裏にちらついて、やめた。仕方がないと踵を返す。星が降るのを待つまでの間いつもの特等席で昆虫観察に勤しむことにした。

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