小説 | ナノ




無垢の巨人になったナマエはじっとアニを見詰めていた。深く澄んだ黒茶色の瞳に映る静けさは理性を失っても尚健在なのかと、場にそぐわない頓馬な感想が浮かぶ。少し離れた距離にいると思っていたが、気がつけばすぐ傍にいた。不思議と心は凪いでいて、動揺はなかった。ナマエが大きな双眸を穏やかに瞬くと、その動作によって生まれた風がアニを撫でる感触がした。
地面に張り付いた足はピクリとも動かない。
逃げなければいけないと分かっていても、意識の根底には全く別の思いがあった。この終わりの無い地続きの苦悩から逃れてここで食べられてしまうことを、ナマエなら許してくれるんじゃないか。アニが望むならと笑い、すべてを良しとして受け入れてくれるんじゃないだろうか。そうできたならきっと楽になれるに違いなかった。無責任にもアニはそう思った。普段ならこんなこと絶対に思ったりしない。思考は驚くほど馬鹿になっているのがわかった。いったい自分はどうしちゃったんだろうか。ぼんやりとした焦りが薄い霧のように脳裏を浮遊している。何を犠牲にしたとしても必ず故郷へ帰るのだと固く誓ったはずの心が揺らいでいた。

より近くに歩み寄ると、ナマエはアニを足から、頭から、すべて食べ尽くした。アニは消化され、ナマエのお腹のなかで産み直された。


ぱっと目を開くと、見慣れた自宅の天井が見える。むろん巨人になったナマエなんてものは存在せず、身体もちゃんとある。どうやら夢らしかった。アニはホッと胸を撫で下ろし、横になっていた身体をもぞもぞと起こした。…変な夢だ。
ひんやりとした汗にシャツが張り付いていて気持ち悪い。ベッドから起き上がるとアニは早々にシャワーを浴びて出掛けることにした。


目的の場所につくと、人物は直ぐ表に立っていた。客とおぼしき男に両手を握られながら、花屋の友人は頬をゆったりと緩めている。穏やかな顔つきこそしているが、やはり愛想の良い笑みではないなと思った。傍らで様子を眺めていると、やがて男はにこやかに礼を言って小さな花束を片手にアニの横を通りすぎていった。
友人は暫く困ったように両手を眺めたのち、踵を返し店の中へ入っていく。

「ナマエ」

入り口のアーチを潜ろうとしていたナマエがアニを振り返った。エプロンの裾が翻る。視線が絡むと同時に、ナマエの顔が綻ぶのがわかった。先程の追従笑いとはまるで違う、朗らかな花咲みにアニは少し照れ臭くなる。自分を見つけてこんなにも嬉しそうな顔をするのは、ナマエとアルミンくらいのものだった。
「珍しいね。こないだ会ったばかりだから、こんなにすぐ来てくれるとは思わなかった。」
「ああ、まあ…」
濁して答えると、ナマエは不思議そうにまじろいだ。その瞬きから空気が揺れることもなかったし、風がアニを撫でることもなかった。瞳は深い黒茶色をしている。
店の奥へアニを通すと、ナマエは紅茶を淹れてくれた。
店先のウィンドーケースから取り出してきた花束が机の上にスタンドと一緒に立てられる。
「少し手直ししたいんだけど」
難しそうな顔つきで花を見詰めてナマエが言う。午後にブーケの予約が入っているらしかった。一日に大体何件かの予約が入っていて、店に客のいない間は大抵裏でその準備をしたり、花の成長に合わせて必要な鉢増しをしているのだと言う。それなりに繁盛しているようだった。突然来て迷惑だっただろうかと思い、謝ると、ナマエは「全然迷惑じゃないよ。」と笑った。

暫くの間、ああでもないこうでもないと言って、花が差し替えられていくのを横で眺めた。特に急いでいる様子もなく、ナマエは手を動かしながらも、取り留めもない話題をひとつふたつとアニに投げ掛けた。今日は空が高いだとか、山がいつもより近いだとか、何を言っているのかわからなかいことも多々あったが、長い付き合いだ。慣れっこである。
ふうんと相槌を打って、そうなんだと返事をするだけでもナマエは満足そうにだった。機嫌が良い。時折鼻唄なんかも聞こえてくる。
花束が納得行く出来映えに仕上がると、ウィンドーケースに戻し、向かい合わせに座って紅茶を飲んだ。
「今日のアニはいつにも増して静かだね。」
「そうかな。」
「うん、何かあった?」
もともと話すつもりで来たわけではなかった。それでも、ナマエにこうして訊ねられると、話した方が良いようにさえ思えてくるから不思議だ。
今朝の夢について語り始めるとナマエは静かに耳を傾けた。 真剣な眼差しで、アニが話すことひとつひとつを丁寧に拾っていた。
ナマエが無垢の巨人になったこと。身体を丸ごと食べ尽くされたこと。お腹のなかで再び産み直されたこと。その時アニが感じたこと、望んだことは敢えて省いて話した。
一通りを簡潔に伝えるとナマエは興味深そうに、へえ、と相槌を打った。
「アニは死ななかったんだね。」
「どうだろう。そこで目が覚めたから分からないけど。」
「産み直されたんだよね?」
「よく分からない。ただ意識はあって、最後には私がナマエになっていく様な感覚があった。」
「アニが私に?」
「完全にではないけどね。意識だけが浮遊して俯瞰するみたいな感覚。」
アニがナマエになったのか、ナマエがアニになったのか、正確なところは解らなかった。どうせ現実の話ではないのだから、そんなのはどうだって良いような気もする。それでもナマエは至って真剣な顔付きで想像を働かせているようだった。
無垢の巨人になったナマエは仲間を食べたことを後悔したのだろうか。すべてを投げ出した自分を許してはくれないのだろうか。考えて、やめた。目の前のナマエに、ましてや巨人でもなんでもないナマエに、そんなこと分かるはずがなかった。
「でもまあ」
「?」
結論に行き着いたらしいナマエが、空になったティーカップに紅茶を注ぎながら口を開く。
「肉体をもって傍にいるだけが全てじゃないもんね」
「どういうこと…?」
「毎日こうして顔を合わせて話すことができたら勿論それが一番良いけど、何らかの理由でアニがこの世から居なくなるとしたら、私の中にその存在が少しでも保存されてたら嬉しいってこと。アニが私になってくれても全然構わないし。」
「…食べたことを後悔したりしない?」
「するよ。毎日塞ぐ。」
当たり前だ、と言わんばかりにナマエは言葉を繰り返した。感情のこもった静かな言葉にアニは気圧される。悲しそうな瞳の翳りだった。それでも凛として涼やかな気色が確かにそこに内在している。
「塞ぐんだ。」
「うん。もう家にずっと引きこもると思う。」
「ああ…。」
想像がつく。終戦直後のナマエがまさにそうだった。毎日ベッドの上で廃人のような生活を送っていた様子を思い出す。今でこそすっかり社会復帰しているが、あの頃のナマエの阻喪は壮絶なもので、他者を寄せ付けない浮世離れした眼差しはずっとどこか遠くを旅していた。
アニを捕食したナマエも、きっとあの時と同じように消沈して塞ぎ尽くすに違いない。
「でも感情は必ずしも一つとは限らないから、アニの存在が保たれる嬉しさはやっぱりあるよ。それが悲しみの中に混在するものなのか、その先にあるものなのかは分からないけど。」
「…そう。」
うん、と頷くとナマエは先程注いだ紅茶を口に含む。「少し温くなってきちゃったね」と残念がりながらも、淹れ直すからといってアニにおかわりを勧めた。
それ以上夢の話はしなかったが、帰り際になるとナマエが「今日もアニに会えて嬉しかった」と言って笑うので、全ての悩みが杞憂だったことを悟った。
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