小説 | ナノ




花のアーチの施された玄関を潜って入り口の前に立つと、アニは中を見渡しながら手元の扉を二三度小さく叩いた。両開きのガラスの扉は片側だけ開いていて、閉じた方のドアノブの下には「オープン」の看板が下げられている。青い薔薇の造花で装飾された品のある下げ札だ。すぐ下には、色とりどりの花がいつくかの小さな鉢入れからそっと伸びて風に揺らいでいる。
辺り一面の花々を静かに眺めていると、店の奥からパタパタと足音が聞こえてくる。

「いらっしゃいませ」
凛として涼やかな声の主は、花屋に就職したかつての同期、ナマエのものだった。営業用の微笑みを申し訳程度にこさえたナマエはアニの姿を確認するなり、え、っと小さな声を上げた。花でも植え変えている途中だったのだろうか。水色のシャツの上に重ねられた薄い黄色のエプロンには、ところどころ土の跡が付いている。
「あれ、アニ、今日は突然どうしたの?」
ナマエは土の付いた手を軽く叩きながら、もう一度だけ「いらっしゃい」と言ってドアの前に立つアニを奥へと招き入れた。促されるまま店の中へと足を踏み入れる。住所は聞いて知っていたが、店へ訪れるのはこれが初めてのことだった。
「たまたま傍まで来たから、差し入れでもしようかと思って」
近くで立ち寄ったパン屋の紙袋を手渡すと、ナマエは瞠目して袋の中身とアニを交互に見やった。
「なに…?」
「あ、ううん、ありがとう。アニはお昼もう食べたの?」
「これからだけど」
「なら一緒に食べようよ。コーヒーを用意するから」
それだけ言い残すと、店の主はエプロンを適当に脱ぎ捨ててそそくさと奥の方へと姿を消してしまう。着いてこいと言うことなのだろう。後に続いて奥まった所へ入っていくとひょっこりと顔を出したナマエが「こっちだよ」と手招きをする。店の裏は庭になっているらしかった。
「…店番はしなくて良かったの?」
平日は基本一人で店を任されているのだと言うナマエは、勝手知ったる顔つきで店の中のものを自由に扱っている。
「いいよ。人が来たら出れば良いから」
庭に用意された木製の机に紙袋を置くと、傍らの椅子に手を当てて「どうぞ」とアニの手を引く。いつの間に洗ったのか泥の付いた手はすっかり綺麗になり、しっとりと潤っていた。
アニが席に着いたのを確認すると、ナマエはまたどこかへ忙しなく消えていってしまう。
主のいなくなった庭を隅々まで見渡すと、チューリップや薔薇、それからアニには名前も分からないような目新しい花があちらこちらにたくさん植えてあるのが分かった。三月も下旬に差し掛かると早咲のチューリップは開花を始めるのだと、先日楽しそうに話していたのを思い出す。すぐ隣の花壇にある薔薇は、通年咲きのものだろうか。薔薇には一年を通して楽しめる四季咲きのものと、限られた時期にしか咲かない一季咲きのものがあるという。これもナマエから得た知識だ。四季咲きの薔薇は通年見られると言っても、冬のような寒い時期には上手く花が開花しないし、夏になると暑さによる株の消耗を防ぐために蕾をつけないようにするから、本当は四季も咲かないんだけどねと笑っていたのは丁度半年前の秋のことだった。

「お待たせ」
戻ってきたナマエは二人分のコーヒーカップを机の上に置いて正面の椅子に腰を下ろした。差し出されたソーサーの上には、スティックタイプの粉砂糖とポーションミルクが二つずつ置かれている。パラディ島ではそう簡単にお目にかかれなかった代物だ。
「足りなかったら砂糖もミルクもまだたくさんあるからね」
ナマエは然も当然と言った顔つきで、用意した砂糖を二本、迷いなくコーヒーの中へ注いでいく。アニも甘いものが好きではあったが、こうも極端に甘党な人間を見ていると胸にウッと込み上げてくるものがある。見つめていると視線に気がついたらしいナマエがアニを仰ぎ見て「ん?」と首を傾げた。自覚がないらしい。最早何も言うまい。
四つ持ってきた菓子パンの一つ一つをナマエが器用に半分ずつ切り分けていく。そんなに要らないのに、と断ったが、折角だからと言って聞かないので差し出された分を受け取った。
「でもよかった、私もアニに近々会いたいと思ってたんだ」
「…なんで?」
「アニの誕生日、つい先日だったでしょ」
「ああ、覚えてたんだ」
「うん、毎年誕生日には会いに行ってたし」
そういえば眠っていた四年間の間、朧気ながらもナマエの気配を何度か感じたことがあったのを思い出す。アルミンやヒッチほどの頻度ではなかったが、ナマエも時折訪れては、何か言葉を発するわけでもなく静かにアニの傍で時を過ごしていた。意識の膜に覆われていた状態だったせいか正確な月日のサイクルは分からなかったものの、そうか、あれはそういう周期があったのかと数年越しの理解に合点が行く。
「アンタ、あそこで何してたの?」
「え、お祈りとか」
「お祈り?」
「膝を折っていろんなこと祈ったり、果物を供養したり」
果物を供養…。
「聞かない方が良かった気がする」
「あ、いや、こうしてまた話せる日が来るとは思ってなかったから」
祈った甲斐があった、と笑いながナマエはコーヒーカップを傾けた。

それからしばらく取り留めもない話をどちらからともなくぽつりぽつりと交わしたが、突然の来客にナマエが席を立ちあがる。
「ちょっと待っててね、すぐ戻る」
「いいよ、もう帰るから」
「え、駄目だよ。プレゼントも渡してない」
とにかく待っててね、とだけ言い残したナマエは二度目のノック音に急かされるようにしてあたふたと表に召集されていった。

宣言通りほんの二、三分で帰ってきたナマエはすっかり疲れ果てた様子でドサリと重い腰を下ろす。
「もう終わったの?」
「終わったも何も、お客さんじゃなかった」
「集金か何か?」
ううん…、と唸る顔はどうも晴れない。どうやら違うらしい。
「最近よく来る人だったんだけど、毎回花を買うような素振りだけ見せて何も買わずに帰っていくの」
「何それ」
「さあ。最近は無理に話を切り上げるようにしてる」
聞けば人物は同じ年頃の男だと言う。アニは口にしなかったが、恐らく、いや、十中八九。目当ては花ではないところにあるんだろうなと思った。鈍くないナマエのことだ。本人もきっと気が付いているだろう。怪しい動きがあればいつだって取り抑えられるだろうから敢えては言わないが、客商売と言うのは面倒なものだな、と未だ気分の戻らないナマエをみながらアニは思った。
話題を変えようと庭の薔薇の話を持ち出すとその表情はパッと明るさを取り戻す。元々口数の多い方では無かったが、花や星、草木の話しになるとナマエは少し嬉しそうにして、相手の反応を伺いながらも言葉をひとつひとつと咲かせていく。
アニの予想通り、薔薇は四季咲きのものだった。春に咲くものも何十株か植えているけれど、それが咲くのはあと二か月程後なのだと言う。
「今咲いてるのは剪定するとある程度開花時期を調整できるんだ。咲かそうと思えば四季咲かせることも出来るしね」
「二季じゃないんだ?」
「普通は二季や三季が多いと思うよ。温度調節も大変だから」
ナマエは掌中の珠のごとく愛しそうな眼差しで花を見つめる。見たことのない表情だった。
「アニは何色の薔薇が好き?」
「…色?」
「薔薇にも色々あってね、アニだったら、そうだなあ、赤色とかもよく似合うと思う」
「そうなんだ」
「ブロンドの髪にきっとよく映えるよ」
にこにこと笑みまぐナマエは本当に機嫌が良さそうだった。耳にかけられたチョコレートブラウンの髪が少し揺れる。
「でも青もきっと凄く似合うと思う」
「青の薔薇?そんなの見たことないけど」
「うん、本当はないんだけどね、染めの青い薔薇があるの」
ブルーの薔薇ってのは本当は開いた時に藤色をしてるものを言うんだけど、純度の高い青薔薇は人間の手で染めて作るんだ、と説明が足される。「青い薔薇ってのは本当に花売りの夢みたいなものだよ」穏やかに話すかつての同期はもう本当にすっかり花屋になったんだなとアニは改めて思った。
「それでね、誕生日プレゼントなんだけど」
ナマエはいつの間に用意したのか、机の下にあった紙袋から掌ほどの小さな箱を取り出した。先程表に出た時に持って来たのだろうか。上質な紺の紙で作られた貼箱には、ベルベットの銀のリボンが縦横とクロスを描くように施されている。中を見なくてもなんとなく分かる。…高そうだ。
「凄く悩んだんだけど、開けてみて」
言われるがままにリボンを解いて箱を開ける。
青い薔薇の、ネックレスだった。小指の爪くらいの大きさの青薔薇が細やかなチェーンの真ん中にあしらわれている。
「これは完全に私の趣味と言うか、好きな花だからプレゼントしたかっただけなんだけど。やっぱり、アニに似合うと思う」
「高いでしょ…、これ。なんか、気が引ける」
「値段は関係ないよ。本当にあげたいものなら安物だって別に構わなかったし」
そう言われても、なるほどそうかと安直に受け取るのにはやはり少し抵抗がある。そんなアニの躊躇いを見てとったのか、ナマエは更に後押しをした。
「店に出してるクモマグサもアニの誕生花だから少し考えたんだけど、花束には出来ないし、鉢をプレゼントしても困らせるかと思ったからそれにしただけだよ」
「それでよかったのに」
「でもクモマグサよりこっちの方がアニに似合うと思って」
なかなか首を縦に振らないアニに、その声は次第に勢いを無くしていく。気が引けるという気持ちは変わらなかったが、流石に買ってきたものを返してこいというのも決まりが悪い。しばらく考えた末に「ありがとう」と囁くと、消沈して下を向いていた顔が弾かれたように持ち上がった。
ネックレスを着けてみると、ナマエは「似合うね、買って良かった」と満足そうに頷いた。アニにはよくわからなかったが、「やっぱり誕生日はこうして祝う方がずっと良いね」と言いながら揚々とコーヒーカップを運んでいく後ろ姿に自然と笑みが漏れる。
「もうそろそろ行くよ」というとナマエは「来てくれてありがとう」と言ってアニを玄関まで送った。
「アニ、薔薇の花一本持っていって」
店先に飾ってあった一本の薔薇をヒョイと掴んで手渡される。
「…アンタ本当に薔薇好きだよね」
「うん、好き。棘を取っても良いんだけど、薔薇にはもともと棘があるものだから、どうせなら棘ごと貰ってよ」
「…よくわかんないけど、ありがとう」
うん、と頷いたナマエは「じゃあね」と言って手を振った。

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