小説 | ナノ



食後の軽い運動も兼ねて兵舎の周りを当てなく漫然と歩いていると、暗がりの下で黒い影がガサリと動く気配を感じ、アルミンは大きく肩を跳ねあがらせた。人気のない仄暗い細道からだった。恐る恐る視線を凝らしてみると、通路の入り口付近に見知った同期が小さく座り込んでいる。早鐘を打つ胸をホッと撫で下ろした。

「ナマエ」
声をかけて近寄ると、彼女は軽く弾かれたように顔を持ち上げた。前屈みの体制で熱心に下を向いていたせいか、こちらに気がついていなかったようだ。何かを囲うように地面に両手が置かれている。
一驚して瞠目した瞳が緩く弛んだ。
「こんばんは、アルミン」
手の側面に付着した土を適当に払って落とすと、ナマエは姿勢を整えて座り直した。月光がその全貌を薄明るく照らし出す。真新しい頬の擦り傷が痛々しい。今日の対人格闘技で地面を擦った痕なのだろう。
「…ナマエ、こんなところで何してたの?」
手を付いていた辺りを覗き込みながら訊ねる。すると、座り込んだままの彼女は場都が悪そうに少しばかり逡巡を見せて笑った。
「蟻が歩いてたから、ちょっと遊んでただけだよ」
「え?」
すぐには理解が追い付かなかったが、改めて地面に視線を落とすと、一匹の大きな虫の死骸を蟻の群れがせかせかと運んでいる。運ばれているのは小指の第一間接程の、…蟋蟀だろうか。手の壁で行く手を阻んで遊んでいたらしい。障害物の取り除かれた大道を、蟻達は今しかないとばかりに精を出して横切ろうとしている。ナマエはその光景を微笑ましくも名残惜しそうに、静穏な眼差しで見送っていた。
案外、陰気な趣味をしている。初めて見るナマエの変わった一面にアルミンは少し驚いて瞳を瞬いた。
普段より事を荒立てず温順な印象を周りに与える彼女は、誰とでも上手く調和できる社交性がある。にも関わらず、気がつくといつも一人、どこか離れた場所でずっと遠くを眺めている。そんな子なのだ、彼女は。大人びたその瞳は大地を俯瞰する夜空のような静けさを常に保っている。
だからこそ、子供染みたその行動が少し意外に思えた。…とは言ってもまあ。今でこそすっかり無くなったが、アルミンにも蟻の行進を訳もなく眺めては大喜びするような幼少期が確かにあった。落ち葉で行く手を阻んで捕まえては、矯めつ眇めつ四方八方からよく観察したものだ。昔を追懐してフッと郷愁のため息が漏れた。
ナマエが不思議そうに首を傾げる。アルミンはハッと我に返って慌てて適当な言葉を絞り出した。
「あ…、蟻とかってずっと見てると、面白いよね」
「うん、まあ。でもアルミンと話してる方がずっと楽しいよ」
水面を撫でる波紋のような清潔で優しい響きだった。そっと胸の隅々まで澄み渡るように静かに言葉が広がっていく。なんてこともない清閑な顔付きをしたナマエは、「隣に座る?」と訊ねて少し体を横にずらした。
促されるまま隣に腰を下ろしたものの、共通の話題なんて一つも無いことを思いだして、訪れる沈黙に後悔の念が浮かんだ。しばらく静かに時だけが流れた。彼女は気まずくないのだろうかと、ふと思い横顔をちらり盗み見る。真っ直ぐ空を見上げるナマエは、しだれる髪の隙間から覗く白いうなじに手をあてて、ぼんやりと瞳を瞬かせていた。
「ねえ、アルミン」
「えっ、あ、う、うん?!」
突然声がかかり、心臓がドキリと跳ねあがる。上擦った声に何事かと驚いたナマエが視線を空からアルミンへと移した。
「…平気?」
「うん…、ごめん、吃驚して」
「いきなりだったね、ごめん」
「いや、そんな。それより何を言おうとしたの?」
「ああ」
そうだった、と呟いて瞳がまた空へと返される。左手を持ち上げると、ナマエは指先で夜空に瞬く星をなぞった。指差すのは他の小さな天体より一等明るい、昔本で読んだ…、木星だったろうか。
「今は夏だからあの星が全天で一番明るいんだって」
「へえ、詳しいんだね」
「うん、空見るの好きなんだ」
聞けば彼女は星を見るためここに座り込んでいたのだと言う。
「僕も家でよく読んだよ、天体の資料。木星も良いけど金星も凄く綺麗だよね、今の時期だと見られないのが残念だけど」
隣を見やるとナマエがパチクリと瞳を屡叩かせていた。急な饒舌に驚かせてしまったかと焦り、途端に恥ずかしくなる。赤面するアルミンを他所に、瞳を輝かせたナマエは今度は南東の方を指差した。
「それならおおいぬ座のシリウスだって負けてないよね」
それにあっちには獅子座のレグルス。弾む声に合わせ、輝く指先は星座を結んで宇宙を描くみたいにスイスイ移動していく。
「レグルスって確か最も暗い恒星、だったかな」
「うん、でもその分見つけられた時は嬉しいよ」
「小さな王って意味だったっけ?、それで別名が」
「獅子の心臓」
思わぬ博識にアルミンは改めて深く感心した。
それからしばらくの間、淀みない流れるような解説が続いた。目を閉じて、その声にそっと耳をそばだてて聞き入る。すると忽ち、本来ならそこに在るはずも無い季節外れの星座まで、ナマエの輝く声のもと煌めいて瞬き出すように感じられた。
一通りの観測に満足すると「それでね、アルミン」と声がかかり、その指先は再び真東へと向けられる。
「レグルスって、アニみたいだよね」
「ライオンハートだから?」
「うん。それもあるけど、小さいけど、見つけたら嬉しくなるところも似てる」
「それは、ナマエがアニを好いてるからでしょ」
思わず小さな笑いが溢れる。するとナマエも釣られたように、瞳だけでゆったり笑った。
「そうだね。私はアルミンを見つけても嬉しいよ。アルミンの星も探しておかないとね」
「だったらナマエの星も探さなくちゃいけないね」
気が付けば初めの気まずさなんかすっかり忘れて、二人して肩を揺らして談笑していた。

宿舎まで戻るとアルミンは、おやすみ、と別れの挨拶をして小さく手を振った。「うん、また明日」折り目正しく返事が返ってくる。小さな背中が離れていくのを見送る中、ふと言いそびれた言葉を思い出して、アルミンは慌ててナマエを呼び止めた。
「どうしたの?」
「あ、あの、怪我、早く治るといいね」
ぎくしゃくした言葉の繋ぎになってしまったが、少し驚いたナマエは、ありがとうと笑い、もう一度手を振っておやすみなさいと囁いた。

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