小説 | ナノ
本日何度目かもわからないノックアウトをナマエから勝ち取ったエレンは、周りから集まる同情と困惑の入り交じった視線に少しずつ限界を感じ始めていた。
対人格闘技の練習がしたいと言って、相手役にとナマエが訪ねて来たのがつい30分程前のこと。もちろん、エレンはその提案を二つ返事に引き受けた。成績に直結しない対人科目に真摯に取り組む訓練兵はそう多くない。殊勝なその申し出にエレンはいくらか高揚して、気合充分、手合わせに挑んだ。
しかし、初めこそ得意気に足技でダウンを取ったり、寝技でノックアウトを決めたりしていたエレンだったが、時間が経つに連れその表情は曇っていった。
いい加減全身が擦り傷だらけになったナマエに、今日はこのくらいで良いのではないかと提案しても、あと少しだけと食い下がって一向に聞かないのである。周りはまるでエレンが暴力でも振るっているかのような疑いの目を持って、白々しく様子を盗み見ているのだ。通りすがる数人に「違うからな!」と、訊かれてもいない言い訳を言って聞かせたが、皆そそくさと逃げていくばかりだった。
当の本人は服も体もボロボロに傷んで悲惨な出で立ちをしているというのに、まるで痛覚が抜け落ちたみたいに平気な顔をしている。

「…痛くないのか?」

おすおず訊ねるとナマエは驚いたような顔をしてズタズタになった体を見下ろした。制服の擦りきれた膝に視線が行く。楕円に空いた覗き穴からは鮮血が溢れ、未だ凝固することなく傷口はしとどに濡れそぼっていた。
「痛いよ?」
当たり前だとでも言いたげにナマエは首をかしげた。
「…だったらいい加減終わりにしよう」
「でも時間余ってるし」
「もっと他のやつに相手して貰えよ」
「他って?」
「あー…、だからほら、クリスタとかユミルとか、他にも色々いるだろ…」
言いながらエレンは、ユミルを列にあげたのはまずかったなと思った。女神と名高いクリスタならナマエの体を気遣って適切な対応を取ってくれるに違いなかったが、どうもユミルは怪しい。満身創痍のナマエが果敢に立ち向かってくるのを面白がって、執拗に甚振る姿が用意に想像できてしまう。
とは言っても、ナマエもそこまで腕が立たないわけではない。力が弱いので決め手にこそかけるが瞬発力や身のこなしは、立体起動が得意というだけのことはあって、なかなかのものなのだ。相手が女子なら対人格闘技だってそう簡単に負けたりはしないだろう。少し過保護になり過ぎただけで杞憂だったろうか、とエレンが考えこんでいると、手持ち無沙汰のナマエがううんと唸り声をあげる。
「ほんとは、アニとやりたいんだけど」
「………は?、アニ…?本気で言ってるのか…?」
「うん、エレンもアニは凄いってこないだ言ってたじゃん」
「アニは駄目だ…。ナマエじゃ勝ち目が無さすぎる」
「別に勝てなくてもいいよ。学ぶための訓練なんだし」
服に付いた砂埃を払いながらナマエは辺りを見渡した。こちらの様子を熱心に伺っていた周りのやつらは、慌てて形ばかりの訓練を再開する。それより少し離れた場所で丁度ライナーを投げ飛ばしたばかりのアニが、手を払いながらチラリとこちらを見やった。しかし、視線はすぐにフイと他所へ逸らされ、どこか遠くへ歩いていってしまう。
ナマエは不服そうに唇を尖らせ、その後ろ姿が小さくなるのを見送っていた。
「何だ…?アニに断られでもしたのか?」
「うん、こないだ、やんわりと」
「命拾いしたな」と声が出そうになったが、ナマエが残念そうにため息を吐くので、エレンは言葉を胸の奥に飲み込んだ。
「にしたって、何でまたアニなんだよ」
教官が近辺を見回っているのが見えて、訊ねながら戦闘の構えをとると、ナマエも察したのか腰を深くして向きあった。
「勝てる相手とやっても仕方ないし」
返事と同時に脇腹に素早く足が伸びてくる。ガードしながら他所へといなすも、受けた腕にビリビリと小さな衝撃が走った。もう随分体力も落ちているだろうに、ナマエの蹴りは最初よりもいくらか重みが増しているようだった。先程までのように無理にダウンを取りにこようとはしない。動きにわずかばかり余裕が見られた。慣らしているのだろうか。
「まあ、気持ちはわかるが、そう生き急がなくても…」
「エレンが言うの?」
胡散臭いものでも見るような冷ややかな視線。うっ、と言葉を詰まらせていると、目の前でナマエが忽然と姿を消した。マズイ。そう思うも1テンポ反応が遅れてしまう。不格好に開いた脇下を俊敏にナマエが潜り抜けた。あっ、声を漏らすと同時に背後から抱き付くような形で双羽固めを食らう。
「成績とかに興味はないけど、ほら、私負けず嫌いだから」
低い位置に無理やり下ろされていた右手がトンと軽く蹴りあげられる。力が丁度抜けていたタイミングだったのか、握りしめていたはずの短剣が呆気なく手から抜け落ちた。背中の拘束が解けると同時に、ナマエがゆったりとした動作で地に落ちたそれを拾い上げる。
「エレンの負け」
憎らしいほど清々しいブイサインを掲げ、破顔一笑。周りからは「おおっ!」と感嘆の声が沸き上がる。その中には「やったなナマエ!」「信じてましたよ!」と、子の成長を喜ぶ親のような涙を見せるコニーとサシャの姿も。あまりにも騒ぎすぎるものだから、後ろから音もなく現れた教官に二人揃って拳骨を食らう。ギョッとした周りのギャラリーは、蜘蛛の子を散らすように四方八方に逃げていった。
「成績に興味ないってことは憲兵志望じゃないのか?」
「うん、別に。今のところは特に決めてない」
「随分暢気だな…」
「まあ、決めてないからこそ一通りは出来るようにしておきたいかなって。やらないのはいいけど、出来ないのはムカつくし」
さらっと言い流しながら、ナマエは解れた靴紐を屈んで結び直す。なるほど、これは確かに結構な負けず嫌いらしい。平生温厚なナマエからは予測できない意外な一面が垣間見えたような気がする。
立ち上がったナマエは小さくのけぞって伸びをした。うんと伸ばした腕から、巻かれた包帯がチラリと顔を覗かせる。
「あ」
「え?」
「それ」
指をさしておきながら、言及してよかったものなのかと先立たない後悔が後を追った。噂は同期の間ですっかり蔓延していたものの、未だ確証がないのは、誰もそれをナマエに確認していないからだ。早急すぎる自分の性格が恨めしくなった。
「包帯?」
「あ、いや、別に。言いたくないなら良いんだ」
瞬く瞳はミカサとよく似た黒色をしている。驚いているようだった。目元に影を落とす深い茶色の髪が瞬きで弾む。
「これはね、ミカサと同じだよ」
「…内緒にしてるんじゃなかったのか?」
「うん、まあ、話す程の事でもないから」
何でもないような口振りで言って、丁寧に巻かれた腕の包帯を大切そうに擦る。ミカサのそれも、遠い昔に母親が授けてくれたものなのだと懐かしむような口振りで話していたのを思い出す。代々伝わる一族の証なのだと言う。そう語る幼馴染みの眼差しも目前の彼女と同じように、温かく、…優しかった。ナマエにとってもそうなのだろうか。
話す程の事でもないから、と言ってのけるその様子から他意は読み取れない。それでも、この世界に置いて東洋人の身の安全は決して保証されたものではなかった。だから、もしかするとミカサのような過去がナマエにもあったのかもしれない。
「別に秘密にしてたわけじゃないから、いいよ」
「……良いって?」
「難しそうな顔してるから、遠慮してるのかと思って」
教官の集合の合図と声が重なってハッとする。
「やった、勝ち越しだ」なんて明るい声で離れていくナマエの後ろ姿は揚々としていた。横から合流したサシャが「やりましたね!」と両手をあげて祝福の声をあげている。呆気に取られて出遅れてしまったが、エレンも慌てて後を追いかけた。
「次は負けねえよ」
「次はアニを倒す予定だから」
根拠のない自信を親指に込めて、ナマエが得意気にグッドサインを突き出す。冗談とも本気とも付かない微妙な発言だが、本人は至って当然といった顔つきをしている。「ほどほどにしろよ…」と言うと「うん」と小さく満足げな返事が返ってきた。
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