小説 | ナノ




巨人の生体について。黒板に書かれた物騒な言葉の羅列を追うのにもそろそろ疲れてきた頃だった。短くため息を吐いたアニは重くなってきた瞼を薄く開き、窓の外に視線を移した。

菁菁の草木が風に靡いている。鳥は優雅に羽を広げ、風を割くように安閑と上空を旋回する。外の景色は緊迫する教室内の雰囲気とは打って変わって、拍子抜けするほどののどかさを演出していた。やれ捕食だの、やれ殺戮だの、耳に流れてくる物騒な言葉の数々が全て童話の読み聞かせのように聞こえてきてアニは少し可笑しくなる。
事実、訓練兵になってからというもの、アニを取り巻く周りの世界は、あまりにも平和に、穏やかに時を刻んでいた。もちろん、切り取られた極一部の現実に一瞬間自分が身を置いているだけに過ぎないことを、アニは誰よりもよく理解していたが、そう思わせるほどにここでの生活は安寧に満ち溢れていた。
その思いは周りの同期達も同じらしく、厳しい訓練からくる疲労を除いては、概ね不自由なく快適に日々を過ごしているようだった。成績上位十名に入る必要のある憲兵団志望の訓練兵とは違い、端から駐屯兵団を希望する面々は特にその様子が如実に現れている。この瞬間に置いても、教室を見渡せば今にも瞼を閉じてしまいそうな気の抜けた顔をした者達がちらほらと見受けられる。
アニは深く息を吸って、窓の外から視線を外した。いくら実技が得意だとは言え、座学の成績を落としてしまっては憲兵への入団は危うい。予てより内地を志望するアニにとっては、いくら平和に身を浸けても、周りの怠慢に流されるわけにはいかない理由があった。浅く息を吐くと、机の隅に置いたペンを握り直し正面を向き直る。


「アニは憲兵になるの?」

座学の終わり、席を立ち上がると隣から唐突に声がかかった。…ナマエだ。毎度のことながら、いかにも自然な話し口で単兵急に話し掛けてくるこの同期がアニはあまり得意ではなかった。
元々取り立てて仲のいい間柄ではなかったが、ナマエは妙にフランクなところがある。決して愛想がいいというわけではない。穏やかな声音こそしているが、その心腹は限りなく不透明に近かった。人の輪に溶け込むのが得意な癖に、ふと気がついたらいつも一人で居る。かと思うと次の瞬間にはすぐ隣にいて、まるで初めから会話をしていたかのような振る舞いで当たり前に声をかけてくる。
今だってそうだ。

「アニは実技も座学も好成績だもんね」
「…実技も座学もアンタとそう変わらないよ」
正確にはナマエの方が実技は下だったが、座学はアルミンやマルコの影に隠れて目立つことはないものの、申し分なくよくできることをアニは知っていた。およそのことを卒無くこなすことに長けているようで、のらりくらりとやってきた結果の現状なのだろう。是が非でも優秀な成績を納めようという気概は、お世辞にも微塵も感じられない。その癖まわりに同調するように、時には頑張っているフリをしてみたり、また別の時には人並みにわかりやすく手を抜いてみたりもする。この間の討伐訓練の時だってそうだった。アニに獲物を横取りされたナマエは、不服そうに言い掛かりを付けてきたものの、その瞳にはどこか芝居じみた明るさがあった。
「立体起動はね、得意だから。でも対人格闘技は転ぶと痛いし苦手」
手のひらに出来た真新しい擦り傷を恨めしそうに見詰めながらナマエは唇を尖らせる。そういえば今朝ライナーに投げ飛ばされているのを見掛けたような気がしないでもない。それにしても、小石で摩り下ろしたらしい傷口は、身が浅く抉れていて見ているだけでもゾクリと肌が栗立つ。
苦手というなら点数に繋がらない対人格闘技なんてそれこそ手を抜けばいいのに、この口ぶりではそれなりに真面目に取り組んでいるらしい。アニはますますナマエの考えがよくわからなくなる。
「…手当てしないの?そのままだと菌が入ると思うけど」
「洗いはしたけど時間がなくて、あとで包帯貰いにいくつもり」
「そう」
短く返すとナマエも「うん」と頷いて、ドアに向かって歩き出した。気がつくと教室にはもう誰も残っていなかった。アニも黙ってその後に続く。
廊下に出るとナマエは宿舎へと続く道をゆったりとした足取りで歩いた。横をさっと通りすぎて追い抜かすことも考えたが、なんとなく気が引けたので、アニはナマエよりもずっと歩く速度を落として、距離が少しずつ開くのを待った。
ようやく五メートル程二人の間隔が開いた時だった。ナマエが「あっ」と何か思い出したようにアニをふりかえる。
いつの間にか大きく開いていた距離に一瞬驚いて立ち止まったナマエだったが、「なに?」と返すと顔を綻ばせて口を開いた。
「次の対人訓練はアニと組みたい」
「は?」
「アニの蹴り技は一級品だってエレンが騒いでた。私もそう思うし」
「…つまり、アンタは私に蹴り飛ばされたいってこと?」
今朝苦手な格闘技で手を摩り下ろしたばかりの癖に、治るのも待てずもう次の怪我の予約を入れようなんて。殊勝なことだ。なかなかに良い趣味をしている。
「その言い回しは語弊があるよ…、それじゃ私がマゾみたいだ」
「違うんだ?」
「違うよ。私はただ強くなりたいだけで」
「なんで?」
「何でって」
「アンタが本気で訓練に取り組んでるようには思えないし、その様子じゃ志望は憲兵団か駐屯兵団でしょ」
「それはまだなにも考えてないけど…」
言葉は尻すぼみに消えていった。勢いを無くしたナマエは、怒られた子供のように下を向いてボロボロになった靴の爪先ばかりを見つめる。アニはなんだか全てが面倒になって、消沈すナマエの横を突っ切って宿舎へ続く道を歩き出した。


配給の時間。夕食に与えられたスープを一人啜っていると、入り口から入ってきたライナーとベルトルトがこちらに気がついて近付いてきた。正面に並んで座った恰幅の良い男二人は、少し窮屈そうに揃って居住まいを整えている。
「調子はどうだ」
ライナーが挨拶代わりにか、軽い調子で訊ねてくる。深い意味はないのだろう。その視線は食器プレートに落ちている。別に、普通だよ、と返せば「そうか」と一言、大きな手で握られたスプーンで皿の上の蒸かし芋をつついた。隣のベルトルトはソワソワと落ち着かない様子でアニに遠慮がちな視線を送り続けている。…大体にしてそうなのだが、図体がでかい割りにこの同郷の男はいつも挙動不審に相手の顔色を伺う嫌いがある。そういう性質なのだと納得してからは特に気にならなくなったが、こうも熱心に視線を向けられると食事の手も進まない…。
「なに」
「えっ、」
「見てるから、何か言いたいことでもあるのかと思って」
「い、いやっ、ごめん、何も」
慌ててスプーンを握りこんでスープを飲み下す姿に、横で見ていたライナーがプッと小さく吹き出す。恨めしそうに睨みつけるベルトルトと素知らぬ顔をするライナーに、アニは理解が追い付かず、仕方なく視線をよそへ逸らした。
二人の二つ後ろの席ではナマエがテーブルの隅で一人、ぼんやりと虚空を見上げていた。かと思えば思い出したように下を向いて、食べ掛けのパンをむしり始める。ナマエはいつも食べるのが遅い。どこか遠くを眺めたり、周りの騒ぎに注意が行くとすぐに食事の手が止まる。もともと大食漢ではないらしく、食べきれず処分に困っていると、常時監視の目を張り巡らせているサシャが脱兎のごとく駆けつけては残りカスを強奪する。そんな食料泥棒も今は少し離れた席でクリスタのおこぼれを狙って涎を垂らしているのだが。
一通り辺りを観察し終えたアニは視線を元の二人へと戻そうとした。その途中でタイミング悪く、パンを頬張るナマエ視線がかち合ってしまう。あっ、と表情が変わったのが見てとれた。パンを握ったままの手をナマエが左右に小さく揺らす。その表情から感情は読み取れないが、動揺のない無頓着さがその仕草から伝わってくる。アニがため息を吐くのと同時に、すぐそばで耳をつんざくようなけたたましい怒鳴り声が聞こえてくる。発信源は勿論エレンとジャンだ。会話の内容は言うまでもない。
「また始まった…。エレンもジャンもよく飽きないよね」
ベルトルトが呆れたように苦笑いを溢す。
「ジャンもいい加減ミカサのことは諦めればいいのにな」
言い争いを横目にそう溢すライナーに、アニは「尤もだ」と心の中で深く同意した。ここ最近毎日のようにこの調子で食事の邪魔をされているのだから、堪ったものじゃない。是非ともやめてほしい。
「ミカサで思い出したけど、二人はナマエの噂を知っている?」
ベルトルトが辺りを気にしながら声を潜めて言う。
「噂?」
「うん。なんでもナマエもミカサと同じ東洋の末裔だとかなんとか」
繰り広げられる二人の会話にアニは少しも関心がなかったが、耳に入ってくるものは仕方がない。聞き流していると、話の要点は嫌でも頭に入ってくる。いつもナマエが手首に巻いている包帯が怪しいと言う噂があるのだと言う。…それだけの理由か、とは思ったが、確かに思い返してみるとナマエの顔立ちはどこかミカサに似た部分があった。瓜二つと言うわけではない。ただ、何処と無く、ふとした瞬間の表情や、二人の纏う独特の空気がそう感じさせるのだろうか。
「ねえ、アニはどう思う?」
伺うような控えめな眼差しでベルトルトがアニに訊ねる。
「…さあ。別に興味ないよ」
立ち上がって静かに言い放つとベルトルトはビクリと肩を揺らし、アニを見上げた。
アニはその視線を無視して、後方をチラリと見やった。ナマエがそそくさとスープを飲み干す姿が視界に映る。どうやら今日は完食のようだった。クリスタの隣にべったりと張り付いていたサシャが、トレイを持って立ち上がろうとするナマエを振り返り、ああ!っと悲痛に嘆く声が聞こえてくる。
平和を象徴するようなあたたかな喧騒を背に、アニは静かに食堂を後にした。
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -