小説 | ナノ
毎日同じ夢を見る。美味しそうな匂いと楽しげな音楽。暗闇の中で其処はひときわ明るく華やいでいる。煙突から立ち上がる白い煙り。仰け反ってそれを眺めているといつの間にか建物の入口の前であった。窓からたくさんの影が見える。それは人の形だったり、動物のようだったり、見当もつかないものだったり。些か不気味だがどの者も穏やかに柔らかく笑っている。奇妙な建物だが、異様に私は惹き付けられた。しかし、激しい嫌悪に苛まれ一秒も早くここから離れたいという衝動も事実である。
どちらの気持ちもイーブンに留まり、私はずっと磨りガラスとドアの隙間から漏れる電灯を、優柔不断な眼差しで見詰めていた。
するとギギギ、と音を立てて扉が開いた。出てきた人物はよく見掛けていた胴体は人間、顔は猫というタキシードを着た男の従業員だった。
「どうぞどうぞ、お入り下さい。さあさ、ご遠慮なく」
驚くほど柔らかく丁寧な口調で話し掛けてきたけれど、急な展開に私は逡巡した。泳ぐ目で猫人間を見る。

「いけませんよ、ミョウジさん。あなたは悪い夢を見ているのです」

驚いた。突然声がしたと思ったら、いつ来たのかも知れない、蝶の羽織を整頓に着こなした上司がすぐ後ろに立っていた。こんな事は今まで一度もなかった。
いつもと違う展開に驚いていると今度は前方の男が「とんでもない」と頭を振る。
「毎日毎日眺めているだけじゃつまらないでしょうから、お誘いしたまでですよ。どうか、悪く受け取らないで下さい」
言葉とは裏腹に向けられる視線は酷く冷やかだった。気品と気高さを宿すその佇まいに緊張してしまう。それを目敏く見逃さなかった男の輝く瞳が、胡乱に微笑む。

「駄目ですからね」

強い力でグイと手首を引かれてハッとした。知らずのうちに私は建物の中に吸い込まれそうになっていたのだ。

「大体ここは夢の中で、アナタ、お金だって持っていないのでしょう」

帰りましょう。殆ど泣き出してしまいそうな顔付きだった。私の手をぎゅうぎゅうと両の手で握りしめる上司を、どこかぼんやりとした思考と共に見下げる。夜空から俯瞰するようなふわふわとした視点だった。

「お金など」

浮き世離れした声が私の身体中を這いずり回る感覚がして、意識を取り戻す。男はぞっとするほど美しい笑みをしている。冷気が背中を舐める。
キイ、と、レストランの入口が開いた。
男が道をどきレストランに誘う。そこに見えたものは穏やかな店内ではなかった。胃のなかのものが逆流しそうになる。それくらい気持ち悪い。
血走ったまなこ。大きく見開かれ、さながら涸渇した卑しい獣のようにレストラン中の客がこちらを向いている。なんだ、なんなんだ。

「こちらへ」

男の台詞にレストランの客どもは私を手招き始めた。
その時やっと解消する。品ある男も、楽しげなレストランも、何もかもが幻影であったと。あの全てを捧げきれぬ違和感はそこにあったのだ。
物腰柔らかく佇んでいた男逹は、今や私に向かってグロテスクな表情で歯を剥き出しにして笑っている。悪魔の甘い囁きに騙されそうになっていたのだ!

「ほう」

男は悪意ある微笑をたたえながら私を見た。余裕を綽然として保有し、価値を値踏みする鋭い眼光は私を怯ませる。私は今夜ここで、死んでしまうのかもしれない。

「死ぬことなどありはしません」
「なんで…」
「わかりますとも。貴女様が思考せばそこに行くことが出来るのです。ねえ、お怖いのでしょう?…死が」

怪し気に弧を描いた唇は神妙な、金縛りをかける合図かのように動いた。

「わたくしの手を取り斯くの如く生きれば、貴女様は貴女様を喰わんとす死から解放されるのです」

甘やかな誘惑の手は、ぞっとするほどに美しい。私はゴクリと唾を飲んで、唯一動くようになった手を、…伸ばそうとした。
手を引かれ、軋む木造の床にギシリと足を下ろした瞬間。そこで私はハッと思い出したように後ろを振り返った。…居ない。先程までそこに居たはずの、彼女が。私は冷や汗を吹き出して後退りしていた。

「お連れ様ならもう先にお帰りになられましたよ」

ニタと心底楽し気に口が歪んだ。申し訳ありません、男が耳元で囁いた。

「当店は出口がございませんので」

身体中に電気が走った。ダラダラと滴る汗に衣服を張り付かせながら、私は勢いよく目を冷ました。ハァハァと荒い息が鼓膜を揺さぶる。
私は蝶屋敷の布団の中にいた。あのレストランではなかった。良かった、と息切れしている胸を押さえ起き上がる。ぎょっと私は目を見開き悲鳴を上げた。私は、私は…!!
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