小説 | ナノ

止まらず人間はあらゆる記憶の忘却と、あらゆる記憶の生産を行っているが、サイクルに飲まれることなくこちらを睨む記憶に怯える者は多い。私も例に及び、彼女もまた然り。
そんな事をいうと当人はきっと、つまらない御託を並べるのはよしたらどうかと青筋を立てて怒るに違いないけれど。謬見だと言うなら怒らずとも…、と私は思うのだ。しかしそれを言える程彼女との関係を上手く築けていないのが現実だ。思えば彼女は出会った頃から私に対する印象を好意的には抱いてくれていないようだった。何故だかは何となくわかる。だけどそれだけだった。しのぶちゃんと呼ぶと彼女は眉間を寄せて嫌がったし、合同任務に二人して割り当てられると苦虫をかみ潰したような顔を示すので、私は何度も気持ちを沈ませたが、それもやはりどうしようもない事だった。二つに一つしか生きられないのが人間なのだから…。その頃には私は既に、遠い過去の択一に従い、それに縋る以外の選択肢を自らの人生から取り除いてしまっていた。果てのない苦悩から逃れ、楽に生きる道を選んでいたのだ。

鬼になった両親をこの手で殺したのは5年前、丁度私が13歳になって間もない頃のことだった。数えれば直ぐに計算出来るが、その記憶はあまりにも鮮明で、まるでつい昨日の事のようにハッキリと記憶に残っている。殺してくれと泣いて叫んだ父の顔を、その下で強く押さえつけられながら血濡れた牙をギラリと私に見せつけた母の猛悪に染った瞳を…、忘れるはずが無かった。
助けに来てくれた兵士は隣で既に息絶えていた。考えるよりも先に地に落ちた刀を握りしめていた事を覚えている。目の前の父が瞳を悲しく揺るがせたことはもっとずっと明瞭に。その眼差しに、全身からサッと血の気がひく感覚を覚えた。しかし悲しいことに、私にはやるべき事がわかっていた。握りしめた刀を振り上げ、私は…、やり遂げたのだ。

鬼殺隊に入ったばかりの頃の彼女は今よりもずっとしかめ面をして日々を過ごしていた。それでも柔和に笑みまぐ優しい姉の隣で、確かな幸せを胸いっぱいに抱えて生きているようでもあった。
正直言うと、羨ましかったのかもしれない。思えば私は誰か他人を嫉妬や羨望の眼差しで見つめる事が本当に多くあったと思う。恥ずかしい事に、それは確かに私の心の奥底におずおずと恒常的に影を潜めていた。だけどその感情は案外簡単に他所へ移す事が出来たのが唯一の救いでもあった。そういった身近な幸せの風景を目に焼け付けて来たからこそ、私は今日までいくつもの死線をかい潜ってこれたのだと思う。宗教の信仰や偶像への崇拝が空虚な心の支えになるのと同様に、信じる世界を持つ事は残酷な世界の中でも私の心をいくらか強くした。その頃からだ。特定の生き物に心酔するのをやめ、抽象的な情景を愛する事に心を費やし始めたのは。
しかしそんな私を彼女は受け入れようとはしなかった。どうやら彼女の目に私はどうしようもない死にたがりにでも写っているようだった。事実そう非難されたこともある。そうではないのだと否定したけれど、結局は同じ事なのだと思って口を噤んだ。

それから間もなくして彼女の姉は戦死した。悲しい光景だった。場面は鮮やかに脳裏に描かれる。地に横たえる亡骸を掻き抱いて嗚咽する、隊服を端正に着こなした子。いたいけな面影を差した横顔はみるみる喜怒哀楽すべての感情が脱色されて行ったのを今も印象深く頭の片隅に残っている。
彼女はその日を境によく笑うようになった。散々辛辣な言葉ばかりを投げかけて来た私に対してまで、丸い声音を添えて笑みまいだ。初めこそギョッと瞠目して驚いたが、吐き出される言葉の刺々しさは健在だったので私はホッと胸を撫でおろした。
人格が歪んでゆく感触を肌にして無感情は難しい。それを傍で見守るのはもっと悲しい事なのだということを、私はその時初めて知った。募るのは同類への情ばかりで、かと言って救えないのが真実だった。もっとも救うだなんてのは何とも鳥滸がましい感情で、前向きな未来を放棄した私には相応しくないお節介だとも思う。
そして何より、他人の不幸に心を砕くのは私が最も非合理的だと思う所業の一つだった。

「ミョウジさん」
突然背後から苗字を呼ばれ、振り向いてみると彼女が立っていた。ニコニコと人好きのする笑みを浮かべている。ひらりと手を胸元まであげて挨拶を返すと彼女は歩いてきて隣にちょこんと座った。小さい。
「また何か難しい事考えてたみたいですねえ」
「うん?」
「眉間に皺、寄ってます」
「うそ」
「嘘です」
ふふふと頬を緩める彼女の笑い声は軽やかだ。ミョウジさんは隠し事が下手ですからねえ、なんて言いながら面白がっているのを見ると、今日は機嫌が良い事がわかった。
道中富岡さんにでも会ったのだろうか。わからないが、そんな気がする。
それにしても、彼女が私の隠し事を見抜いた事なんて過去に一度でもあっただろうか。はてと小首を傾げていとる小さく咳払いが聞こえてきたので意識を彼女に戻した。
「それで、何か用かあったんじゃないですか?」
「あらあら、用が無ければ来ては駄目なんですか?」
彼女が用もなしに会いに来るなんて事はこれまで一度も無かったので、返答に少し面食らう。
「いえ、無くても来てくれるのは嬉しいですよ」
「素直なのは良い事ですね。そんなミョウジさんには次の任務の資料を差し上げましょう」
「…」
ズイと遠慮なく眼前に数枚からなる紙の束を差し出される。受け取った書類を早速斜め読みして見ると、何やら不穏な言葉の数々があちらこちらに散らばっているようだった。既に数十人の人を食っている鬼の討伐指示。数日前に任務を授かり現場に赴いた隊員は未だ行方知れずらしい。更に追加で投入された兵士達から応援の要請が入っている、と。大変そうだ…。
「また大怪我して帰ってくるつもりですね」
「そんなつもりはいつも無いですけど…」
「当たり前ですよ。そんな事したら傷口に塩塗りたくります」
この人の場合本当にやるから洒落にならない。想像しただけで未だ塞がり切らない体中の傷口がズクリと疼いた。
「心配してくれるんですね、ありがとう」
それでも笑ってお礼を言うと彼女は豆鉄砲を食らった鳩のような顔をする。そわそわと居住まいを正す様子が面白くてつい吹き出すと、案の定睨まれた。…。鋭く刺さる視線が痛い。
「随分と幸せな思考回路をされているようで、羨ましいです」
恐ろしく殺傷能力の高い言葉の暴力。笑顔なだけに余計に怖い。昔の彼女ならもっと感情を分かりやすく発露して…、いや、考えるのはやめよう。今も昔も彼女は怖かった。私には特に。
それにしても人に羨まれるようなことなんて私の中には一つだってないというのに、凄い皮肉だと思う。言わば曲解は私の癖なのだ。辛辣な言葉の一つ一つをその通り受け取っていたんじゃそれこそ心がいくつあっても足りない。自慢じゃないが打たれ強さなんて言葉とは無縁な生活を送ってきた身だ。5年前、しのぶちゃんと呼びかけるのを全力で拒絶されてからというもの取り分け彼女との接触は私にとって殆ど羊の歩みに等しかった。それでも彼女と話す時間が一番長いのは同期の腐れ縁というものなのだろうか。
過去の記憶に思いを巡らせていると「無視しないでください」と隣から声をかけられてハッとした。不機嫌そうな笑顔に圧力を感じる。
謝ろうと口を動かすより先に、人物は現れた。私の視線と物音に牽引された彼女はぐっと息を詰めた。
「富岡さん?」
「胡蝶、ちょっと来い」
「は?」
「ミョウジ、失礼する」
富岡さんは彼女の腕を握り慌ただしくどこかへ行ってしまった。二人の後ろ姿を暫く眺めてから、手元に残された書類に再び視軸を落とす。本当に、生きて帰れるのだろうか。浅い溜め息を1つ、重い腰を持ち上げると同時に、出発の準備を急かす鴉の鳴き声が空に響いた。
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