小説 | ナノ

凡安穏の中で暮らしてきたナマエは拳銃の構え方すらも演技指導以外の目的で教わったことは一度もなかった。

クリスは新しい煙草をトンと箱から引き出すと、利き腕とは反対の手でナマエの手すさびの的となる拳銃を軽やかに取り上げた。撮影用の二十二口径に勿論弾は入っていない。指のかかった用心金を中心に銃は一回転する。あっと声を上げたナマエは手品でも見せられた子供のようにあんぐりと口を開けたまま、クリスの手の内に綺麗に収まった銃把を見やった。
しかし銃口は瞬きをする一瞬の間にナマエの額にピッタリと突き付けられていた。目にも止まらぬ速さ。ニッコリと細められたクリスの瞳は真っ直ぐナマエを映している。
不敵に微笑むその表情すらさまになるのだから恐ろしいものだとナマエは及ばぬはずの緊迫感に鼓動を速めた。

「物騒なもので遊んじゃ駄目よ」

銃が頭から離れ、カチャリとテーブルの上に下ろされるのを見届けると同時に小さく安堵の息が漏れた。目敏くもそれに気が付いたクリスは態とらしい溜め息を一つ、鼻白んだ一瞥をナマエに向ける。

「弾が入ってない事くらい知ってる癖に、よくそんな新鮮な反応が出来るわね」

それも芝居だってなら尊敬するわと、白々しい称賛をナマエに送りながら胡乱に唇を緩めた。それすらもナマエには芸術の域を出ない蠱惑的怪しさを思わせる。

「クリスの銃の扱いは妙にこなれてて怖いよ」

刑事映画も何度かこなしてきたナマエだが、それでも未だに銃の構成部それぞれの役割までは把握しきれていない。ちょっとした手捌きを魅せるのは愚か、撮直しの連続だ。ナマエに銃の才能は皆無。映画でならまだしも、現実に置き換えて考えると真っ先に撃ち殺される巣合の衆を免れないだろう。その点クリスはどうだろうか。指導なんてなくとも全てが初めからさまになる上、 拳銃を抜く速さなんかはナマエの目から見ても群を抜いていた。そんな彼女に射抜くような眼孔でねめつけられながら銃口を頭に突き付けられた日にはナマエで無くとも血の気が引くだろう。

「本当は間諜か刺客だったりして」
「あら、どうかしら?」

ニコリ。微笑むクリスは小首を傾げて煙草を燻らせる。いつもの彼女だ。クリスはじっとナマエを観察し、目だけでゆったりと笑った。平生の諧謔ですら彼女は犇めく妖艶をその声音にまで忍ばせ、莞爾たる微笑みで弄するのだ。目眩がするほどの魔性に固唾を飲まずにはいられなくなる。

「…冗談はやめてよ」

困惑に顔をしかめるとクリスは満足げに口許を緩めた。彼女は初めて会ったときからこの手の遣口でナマエを揶揄う姿勢を一向に変えない。始終婉美な微笑みを浮かべるクリスの美貌は三十路を目前に類を見ない秀抜さなのだが、出会った頃と比べてみても全くと言って良いほど衰えないその容姿にナマエは昔を振り返っては度々不思議に頭を捻らせた。ナマエはクリスよりも三つ程歳は若い。しかしこのままの調子で行くと、彼女一人変わらぬまま自分だけが刻々と老け込んでいくのではないかという気さえするのだ。だがそんなことはあるはずがない…。下らぬ妄想だ。

「ねえ」
「うん?」
「見過ぎよ」

目を細め訝しむ仕草は何処と無く謹み深くナマエの瞳の奥を探っている。この視線に宛てられると、途端に居心地が悪くなる。

「クリスは綺麗だから」
「あら、ありがとう」

妙に優艶な声音の答酬だが、警戒は解かれない。ナマエにはそれが分かった。しかし、明かす手の内はこちらにない。腹を探らせまいと牽制するのはいつも彼女の方なのだから。クリスがそうまでして必死に隠そうとする腹のうちがナマエには頓と見当もつかなかった。只分かり得るのは、形の掴めぬ暗澹たる影が目の前の彼女からいつもぬらりぬらりと怪しく伸びているという事実だけだ。鵺のような女とはまさに彼女の様な人間を指す言葉なのだろう。
ナマエの目から灰皿へと視線を落としたクリスはどうやらこの空気を断ち切りたいようだった。胸がぎゅうと縮こまる。思わず、声をかけていた。
「なあに」穏やかな声と共に視線が再び持ち上がる。
テーブルに置かれた先程の拳銃を緩慢に引き寄せ、銃把を握りしめた。クリスはそれをじっと静観する。

「クリス、…」
「何?」
「こんな玩具みたいな護身用で本当に人は死ぬのかな」
「…護身用でも十分人は殺せるわよ」
「二十二口径でも?」
「…貴女、さっきみたいに額に銃口突き付けられても生きてる気?」

銃身に見立てた人差し指と中指をトンと額に宛てられる。ほら、今あなた死んだわ。唇が静かに動く。ウィスパーだ。

「ナマエが思っている以上に、人の生は脆くて愚かなものなのよ」

冷ややかなエメラルドの瞳にナマエはドキリとした。

「…クリス。あの…、」

続く言葉は用意していなかった。しかし口を開かずには居られなかったのだ。今しか無いのだと、考えるよりも早く全神経が伝達し、殆ど無意識的に唇が動いた。
だがそれは尻切れに終わり、クリスの声に遮られる。

「まあナマエみたいな鈍間じゃ護身用としての役目すら望めないでしょうけど」

おどけた調子だ。先程までの緊迫した空気が嘘のようにその声音によって塗り替えられる。ナマエは安堵の溜め息を一つ、静かに肩を落とした。

「…人の怨みをかった覚えは無いよ」
「あら、ハリウッド女優は案外狙われたりするものなのよ?」
「…気が重くなる様なこと言わないで」

ほら、いつものクリスじゃないか。
どくん、どくんと胸を突く心臓によって全身に血の気が走る。クスクスと微笑むクリスを前にナマエはホッと胸を撫で下ろした。


この数日後だった。クリス・ヴィンヤードが世間に休業を明らかにしたのは。
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