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「シェリーは逃げたりしないの?」

試験管を物珍しげに傾けながらモスカートはさらりと、然も漫談だとでもいう風にそう溢した。怪訝に眉を顰めて視線を送るも、交わらない。一直線に注がれる関心は試験管の底へと集中している。
これは何?と沈澱した物質の正体をモスカートが訊いてきたのでシェリーは言っても解らないわと答えておいた。
モスカートの科学に関する知見は眇眇。一般的な薬品名ならまだしも専門的な話となると輪を掛けて解らない言葉が多くなる。と言うのも組織での彼女の役割はその手の研究開発ではなく暗殺が主なのだからそれも仕方のないことではあるが。時折研究室へ予告もなく顔を出してはこれは何か? あれは何か? とモスカートはシェリーに矢継ぎ早の質問を寄越すのだ。その掴み所の無さは組織の中でも類を見ないが、少なくとも好感の持てる相手ではなかった。
言っても解らないという淡白な返答に彼女は「そう」とだけ頷いて試験管を元の配置へと戻すと漸くこちらを顧みた。返答を促す視線の動きだ。小さく息を飲む。

「案外慣れれば悪い場所じゃないわよ、 ここも」
「本当にそう思ってる?」
「さあね。私を試しているつもりかしら」
「そんなことしないよ」
「どうかしら。案外上からの命令だったりして」
「しないよそんなこと」

小さく力んだ拳が微かに握られるのが見えた。真っ直ぐな視線は力強く逸らされない。その視線に宛てられると得意の皮肉は喉に閊え、腹の奥へと咽下せざるを得なくなる。それほどに彼女の瞳は強かな説得力を持っていた。他にない、彼女特有の瞳の色だ。疾の昔に落命した、母親譲りの瞳の色だと、ベルモットが前に楽しげに話していたのを思い出す。その口振りからすると、きっと彼女の両親も組織の人間だったのだろう。
モスカートの眼差しは…有無を言わせぬ気強いものだったが、不思議と心地の悪い物ではない。シェリーは度々この視線に困惑を示した。

「私はシェリーを陥れたい訳じゃない」
「御言葉だけど、組織の人間を味方だと思ったことは一度も無いわ」
「だけど私は敵じゃない」
「…なんだって構わないけど、それを決めるのは貴女じゃない」

冷たく吐き捨てると、頑なだった彼女は頓と静かになった。これ以上の言葉は無意味だと気が付いたのか、先程までの強い眼差しはそっと下へと伏せられた。見間違えでなければ然く哀しいのだとでもいう様に。
視線を更に余所へと逸らすとモスカートは先程の試験管の側に気まずそうに咲いている白のアネモネを発見した。そっと花瓶から抜いて薄暗い光を放つ照明へとそれを翳し、眩しそうに目を細めた。焦がれるような熱をもった哀しい面持ちだ。モスカートはゆっくりと腕を下ろす。
警戒を解かずモスカートを凝視するシェリーと白い花弁を何度か交互に見比べ、目を据えた

「きっとシェリーの心は清廉潔白なんだね」
「…何が言いたいの?」
「そのままの意味だよ。シェリーは組織が嫌いで、隙さえあれば逃げ出したいと思ってる」
「……」

生み出された静寂を緊張の糸が縫う。シェリーはなにも答えなかった。モスカートの言葉は核心に迫るものだったが、一縷の意図も掴めない曖昧さをも内に秘めていた。シェリーを責め立てるものでもなければ、詰問するものでもない。ただ彼女は確信を持った声音で、それを、口にするのだ。

「…あなたは此処が嫌いなの?」
「好きなわけないよ。此処は糞みたいな場所なんだから。好きなわけない」
「だったら、」
シェリーが続く言葉を紡ぐよりも早く、遮るようにモスカートは口を開いた。強い語気だ。
「此処に留まることでしか自己を正当化出来なくなる前に、潔白な心を持っているうちに足を洗った方がいい」

モスカートはこれで話は終わりだとでも言うようにそっと口を閉ざした。慈しむような手付きで元あった花瓶へとアネモネを差し入れると、じゃあねと微かに囁いて部屋をあとにした。途端に冷える空気は白々しいほどの無味乾燥を決め込んでいる。遠ざかる後ろ姿へとひそやかに、つつまやかに、何とも説明のつかぬ心緒を馳せ、シェリーは静かに佇むアネモネを見遣った。
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