8兄さん 呼べば、いつだって花が咲いたような笑みで振り返ってくれた。 それが嬉しかった。 嬉しかったから何度でも呼びたくなった。 そしたらしつこいと言って、それでも笑ってくれるのだ。 それがずっと続けばいいと思った。 永遠に続けばいいと思っていたんだ。 だってそうだろう? いつだってなんだって、人は幸せには貪欲で、どこかにある不幸せは全て避けて通りたい。 そう思っているはずなんだ。 「雪男」 呼ばれて振り返る。 兄さんは相変わらずヘラヘラと能天気に笑っていた。 それが腹立たしくもあり、同時に安らぎでもある。 こんな、何もかも真っ白なベッドの上で寝ている兄さんは、もう二年ほど外に出ていないせいか肌が雪のように白くなっていた。 まるで病人のようだと、彼の手に自分の手を重ねた。 「海、見たくねえ?」 そう言った兄さんに、僕はただ頷いた。 「外出許可が出れば、今度一緒に行こうか」 「無理だよ」 兄さんは笑ってそう言った。 彼の笑顔は変わらない。 子供の頃からずっと、こちらが嬉しくなるほど全力で笑ってくれるから好きだった。 静かに笑うことしか出来ない自分には出来ない笑みだから、少し羨ましかった。 だけどいま、その笑みで“無理”だと言うのだ。 「分からないよ。今度頼んでみるから」 「いや、そっちじゃなくて」 俺の方。 兄さんは自分を指差した。 病人のように床に臥せった兄さん。 悪いところなんて何一つ無い。 むしろ常人よりも健康的で遥かに強い肉体を持っている。 なのになぜ彼は昼間だというのに、こうしてベッドで横になっているのか。 「またいつ暴走すっか分かんねえし」 重ねた手を握る。 無意識のうちに強く握る掌、けれど放したくなかった。 兄さんは魔神の落胤。 僕もそうだが、決定的に違うのは魔神の炎を受継がなかった所だ。 たった一人、力を受け継いだ彼は自分が悪魔だということを受け入れ、祓魔師になったのだ。 苦しい事もあったが、仲間も出来た、力も付いた。 今では一人でも任務をこなせる。 だが異変が起きた。 暴走しだしたのだ。 驚くほど、静かに。 いままでの荒々しさなどまったく見せずに、それは暴走した。 ふとした会話中に突然訳の分からない事を口走る。 まるで別の誰かのように。 いなくなったと思えば、とりつかれたかのよう静かに何かを壊している。 それはまるで悪魔のように。 それを止めようと手を掴めば、焼けるように熱く、だけどその瞳はどこまでも静かで青い。 それはまるで魔神の炎のように。 ただ、ただ静かに、年齢を重ねれば重ねるほど、奥村燐は奥村燐でなくなっていくのだ。 今までの暴走とは違う。 叫びもしないし暴れもしない。 ただ静かに壊して、青い炎で焼くのだ。 それはなぜか、今まで見たどんなものよりも恐ろしいものだった。 奇妙な暴走には周囲も気づき、気が付けば兄さんは閉じ込められていた。 二年間、まさに騎士団の最終兵器である彼をどうすればいいかと、周囲は考えあぐねているのだ。 取扱説明書の無い彼を、どう押さえつけるか、どう処分するか。 どちらにしても最悪だ。 「雪男、眉間」 そう言って、空いているほうの手で僕の眉間のシワを広げるように押してくる。 その手を押さえると僕は握っていた手を放した。 考え事をしていたせいで、自然とシワが寄っていたようだ。 なんとか笑顔を取り繕ってそれを兄さんに向けるが、兄さんは「情けねえ顔」と言って笑われてしまった。 「ねえ、外に出ようか」 「えっ、いいのか?」 「少し外を歩くくらいなら大丈夫だよ。見張りが付くけど」 兄さんの行動はかなり制限されていた。 現に今もこの部屋の向こう側には見張りが数人いるだろう。 兄さんに面会するのにだって月に一、二回しかできないし、何かを持ってくることさえもダメだ。 まるで監獄のようだと、僕は笑顔を貼り付けたまま兄さんの手を取った。 外は驚くほど寒く、分厚いコートを羽織っている僕でさえ身震いするほどだった。 パジャマ姿の兄さんはもっと寒いだろう。 雪だって積もり、一面銀色に光っている。 その中で、兄さんと僕、そして数名の見張りが少し離れた所に立っているだけだった。 「さみいな」 「上着いる?」 僕が着ている祓魔師のコートを渡そうとするが首を振って拒否される。 「いいよ、寒いほうがいい。それにお前が風邪引いたら大変だろう」 「パジャマ姿の人に言われたくないよ」 「平気だって、昔ずぶ濡れのまま寝ても風邪引かなかったから」 そう言って兄さんは手を擦り合わせながらグルグルと同じ所を行ったり来たりする。 寒いのだろうに、だけどその寒さが心なしか嬉しそうだった。 あの部屋は何もない、適度な温度をいつも保たれている。 冬でも夏でも、何も感じない場所。 そこに二年間兄さんはいたのだ。 「雪すげえな」 「うん」 兄さんはサクサクと雪を踏んで同じ所を歩いた。僕はそれをただ見ているだけ。 「あんまりはしゃがないんだね」 「んー?」 「もっと“うおー、雪だー。雪合戦しようぜ!”って言うかと思ったのに」 「おまっ、それ俺のマネかよ!」 ぎゃはははと笑い出す兄さん。 その場にしゃがみ込みむと、手袋も何も覆っていない手で雪玉を作っていた。 「そうだな、もうちょい前の俺だったら、そう言ってたかも」 「………」 「おかしいよな。前まで綺麗だったものとか、大切なものが、どんどん違うものになっていく」 おかしいよな。 またそう言って彼は雪玉をいくつも作っていく。 僕も近くまで行き、そこにしゃがみ込んだ。 「綺麗だったもの」 雪玉をひとつ積み上げる。 「汚かったもの」 また雪玉をひとつ。 「かっこよかったもの」 また雪玉をひとつ。 「醜かったもの」 また雪玉をひとつ。 「大切だったもの」 また雪玉をひとつ。 「宝ものだったもの」 また雪玉をひとつ。 「俺がこれまでに愛してきた人」 最後に、雪玉をもうひとつ。 積み上げて、若干不安定になっている雪の塊たちは今にも崩れそうだった。 だが兄さんが最後に人差し指でつつくと、それは崩れるでもなく、一瞬にして解けてしまった。 「全部解けていってる」 彼が、彼でなくなっていく。 奥村燐は悪魔になるまでの予備の人格のようなものだったのだろうか? それとも、年齢を重ねれば人は変わるという類のものなのだろうか? 分からなかった。 どちらなのかも、どうなるのかも。 僕には分からなかった。 「兄さん」 解けた雪から僕のほうへと顔を上げると、僕は静かにキスをした。 見張りの奴らが奇妙な声を上げていたが知らんふりをしておく。 何ヶ月ぶりのキスだろうと、かさついた唇を思わずかみ締めてしまった。 「おまっ、なに…!?バカかよ!!人見てんだぞ!?」 「よかった」 「…なにが」 「まだ兄さんだ」 怒って、照れてる。 それは紛れもなく兄さんだった。 「…意味分かんねえ」 「兄さん」 「んだよ」 「伝言があるんだ」 「?誰から」 「しえみさんから」 「マジで!?」 「あと他の皆も」 「なんて!?」 嬉しそうにする兄さん、他の皆に少し嫉妬しつつも、それでも兄さんが笑ってくれることは嬉しいことだった。 「しえみさんからは“今度絶対に遊びにいくから、特製ハーブクッキー持っていくね”」 「…マジでか」 ちなみに味にはあまり自信がないらしいと伝えるとさらにしょぼくれる。 「勝呂君からは“お前のせいで仕事が溜まっとるから、はや帰って仕事せえ”」 「うわっ、仕事かよ。もうちょい俺については無いのか…」 無いね、と言うと雪に“の”の字を書いて落ち込みだした。 「志摩君からは“はよ帰ってきいな、またエロ本談義しましょうや”」 「…雪男、怒ってる?」 怒っていないよ?と笑顔で言ったら謝られた。 「三輪君からは“はよ身体治してくださいね、待ってますよ”」 「うお〜、子猫丸だけだ…俺に優しいのは」 よかったねと伝えたら、嬉しそうに頷いた。 「神木さんからは“さっさと治してきなさい”」 「…………だけ?」 頷いたら若干不満そうだったが、それでも笑っていた。 「朴さんからは“早く帰ってきてね、皆心配してるよ”」 「アイツからも?うわ〜、けどなんか嬉しい」 祓魔師にならなかった彼女からの伝言も、嬉しそうにしていた。 「シュラさんからは“どうやら修行が足りないみたいだにゃ〜、今度会ったら一からやり直しな”」 「…マジでか」 さっきまでの嬉しさはどこへやら、兄さんはまたげんなりと落ち込みだした。 「フェレス卿からも…」 「ええっ!?アイツ昨日きたけど」 「“二百円返してください”」 「…雪男返しといてくれ」 「二百円も無いの…」 兄さんは一通りの伝言を聞いて一喜一憂した。 皆、言葉は違えど心配しているのだ。 兄さんもきっとそれを受け止めただろう。 それじゃあ最後にとまた僕は口を開いた。 「兄さん今いくつ?」 「いくつって、お前と同じ歳だろ」 双子なんだからと不思議そうな顔をする兄さん。 「いいから」 「…十九だな」 「あと一年だね」 そう呟くと、兄さんは首を傾げる。 「大人になるの」 「…ああ、そういやそうだな」 けどそれでもそれがどうかしたのかと視線で問われて、僕は静かに笑った。 兄さんは歳を重ねるごとに暴走の回数が多くなっていた。 二十歳を迎えればどうなるのだろうか。 また暴走する回数が増える? それとも完全な悪魔になってしまう? はたまた元に戻るなんて奇跡が起こってしまう? それ以前に騎士団で兄の処分が決まってしまう? 希望なんて数えるほどしかなくて、絶望ばかりが溢れている。 ここでは二十歳になったら成人だ。 大人になったら、どうなるのだろう? いつか兄さんと呼んでも、振り向いてくれない日が来るのかもしれない。 そう思うと酷く苦しい。 子供のままでいたほうが、ずっと安らかに暮らせるのだ。 だって年齢も重ねず、そのままだったら、兄さんは幸せなままで暮らせた。 「雪男」 「なに?」 「変な事考えてるだろ」 「…兄さんはこういうときだけ勘がいいよね」 「兄ちゃんだからな!」 そう言って誇らしげにした。 兄さんが立ち上がると、自分もつられるようにして立ち上がった。 相変わらずここは寒い。 僕としては銀の世界に囲まれているよりも、暖かい室内のほうが魅力的だった。 手を擦り合わせて息を吐く。 大人になりたくないなぁ、なんて思いながら、それと同時に未来の希望を捨てきれずにいる。 「兄さん」 「んー?」 「二十歳になったら…」 「んー」 「セックスしよう」 「あー、そう……………って、ええええええっ!?」 「驚きすぎ」 「いやいや、だって、その、セ、セッ…」 「セックス」 「うあああああああ!!!」 耳まで真っ赤にしながら両手で顔を覆い隠す。 それを見ていると面白くて思わず笑ってしまった。 「おまっ、笑うなよ!」 「ごめん、だけどさ、僕らまだじゃない」 そうだ、僕らは驚くことにまだ健全なお付き合いだった。 手は繋いだ、抱きしめあった、キスもした。 だけどセックスはしてない。 「ねえ、大人になったらしようよ」 「〜っ、なんで突然んなこと言い出すんだよ…」 「未来の希望を用意しておこうと思って」 「はあ?」 「兄さんだって僕としたいでしょ」 「……し、したくねえ…って言ったら…嘘になる」 真っ赤になりながらモゴモゴと言いにくそうにするが、それでも答えてくれたので嬉しかった。 僕と同じ気持ち。 気恥ずかしくて、でも欲しい。 「それで、また一年経ったらもっとすごいことしよう」 「…やる以上にすげえことってなんだ?」 「さあ?」 「……」 「そうやってひとつずつ、置いていこう」 未来の希望とやらを。 その来年も、また再来年も。 ひとつずつ置いていこう。 「だから兄さん、その全部を終えるまで、僕の愛した兄さんでいてね」 「……おう」 頷いたと同時に、見張りの人が僕に近寄ってきた。 どうやらもう時間らしい。 「それじゃあ、約束。忘れないでね」 「忘れてたまるか」 そう言って兄さんはこれでもかと言うほどの笑みを浮かべてくれたから、僕もつられて同じように笑った。 ピ | タ | パ ン の カ ウ ン ト ダ ウ ン top |