6


お願いだからやめてくれ。

そんな声が聞こえた。
空は雲で全てが覆われているのかどす黒くて酷く辺りが暗い。
ヒビ割れた眼鏡でも分かってしまうその黒さと天気の悪さに多少驚いた。
今日の天気は一日快晴だって天気予報士は言っていたのに、嘘吐きめ。
特に怒ってもいないのだが、作り上げたような笑い方をしていたブラウン管の中の天気予報士に心の中で毒づいた。

どうして自分が空を見つめているのか、自分のことなのによく分からない。
多分、こうやって空を仰いでいるのは自分が仰向けに寝ているからだ。
こんなグズグズに溶けたような土の上で?

雨が降ったのだろうかと思ったがやけにそのグズグズになっている土の部分が生暖かい。
その土に触れて手を上げてみると、土が何かと混ざって黒くなっていた。
この土に混ざっているものはなんだ?

手を上げているのが酷く辛くて、耐え切れなくなるようにしてグズグズの土の上に力無く落ちた。
身体を起こそうとしても酷く気怠く起こす気にもなれない。
ただただ、空を仰ぐばかりだった。
どうしてこんなにも身体が重い?

こんな溶けたような土の上で寝いてるのはナゼ?
この土に混ざる黒いものが温かいのはナゼ?
身体が酷く気怠げで重いのはナゼ?
晴れるはずの空が暗いのはナゼ?

疑問は尽きない。
そして一番の疑問はコレだ。

顔をなんとか横に向ければ、少し離れた場所にいる存在。
彼女、杜山しえみの存在だ。

彼女がうつぶせになって寝ているのだ。
身じろぎひとつもしない彼女が不思議で仕方が無かった。
他のほうにも視線を彷徨わせれば、なんとか見える景色に心の中で首を傾げた。

霧隠シュラ
勝呂竜士
志摩廉造
三輪小猫丸
神木出雲

その五人もグズグズになった土の上で寝ているのだ。
杜山しえみと同じように身動きひとつしない者もいれば、その場で悶えるよう、蠢くようにしている者もいる。
時折聞こえる可笑しな声は誰が発しているものなのかさえ分からない。

ただ、自分には空を見上げることしかできないのだ。

そういえば、とふと思い出す。
あの最初に聞いた声は誰のものだったのだろうかと疑問に思う。
アレだけは、今も聞こえる言葉にならない言葉や可笑しな声ではなく、やけにハッキリとした声だったのだ。

アレは誰の声だった?
アレは誰のものだった?

今、自分の頭上にいるだろう相手は誰だった?

「お願いだから、やめてくれ」

そうだ、この声だ。
強くて、真っ直ぐな、ただひたすらひたむきなこの声。
だがなぜかその声は震えていて、強いはずなのに酷く弱く感じた。

頭上を見上げると、唯一この場で両足で立っている人だった。
人だというのに、彼には奇妙なものが生えていた。
力無く垂れる長い尾。

それがまた不思議で本物かどうか掴んでみようかと思ったが、気怠い腕では到底無理なようだ。
掴む代わりにただ彼を見つめた。

「行くから、もうやめてくれ」

酷く弱い声がそう告げると、何かを歓喜するかのように気持ちの悪い声が大きく上がった。
ひとつやふたつではない、その塊のような声は人とは思えない声で、確かに自分のこの耳で聞き捕らえていた。

彼は行く、と言っている。
どこに行くと言うのだろう。

だって、彼の行く場所はいつもたったひとつだけなのだから。

その答えに、ようやく雪男は脳が動き出した。
それを受け入れると目を見開いて息を詰まらせた。

いまこの土がグズグズな理由も。
混ざっている何かが温かい理由も。
身体が酷く気怠い理由も。
晴れるはずの空が暗い理由も。

全て理解して、思い出す。

だから叫ぼうとした。
だが声は出ない。

なので手を伸ばそうとした。
だが身体は重くて動かない。

それでも伝えようとした。
伝わったのか彼が振り向いた。

「最後ぐらい、いいよな…」

振り向いた彼の顔は今にも泣き出しそうだった。
手を伸ばしたいのに動かないことがこんなにももどかしい。
本当に目の前にいるのに、それを掴めばきっと…。

きっと。

何も変わらない。

どす黒い空が見える。
それを見たら酷く悲しくなった。
残酷な現実を突きつけられているようで。

きっと今、彼の腕を掴んでも何も変わらないのだ。

彼はその手を解いて行ってしまう。
虚無の世界へと行ってしまうのだ。

あの気持ちの悪い高らかな声は悪魔たちのものだったのだ。
なんてことだとさすがの雪男も泣きそうになった。

無数に湧いてくる悪魔。
倒れる仲間。
出された選べない選択。

仲間の命か、虚無界へ行くか。
彼が選ぶのはどうやったって、たったひとつだけではないか。

仲間はなんとか命を取り留めているのだろう。
だがそれでも皆重症だ。
もちろん自分も含まれている。

気怠いと思っていたはずの身体が酷く痛みを感じて、声をあげそうになる。
だがそれよりも、雪男は目の前の燐の存在を焼き付けるかのように瞬きもせず見つめた。

「あっ…うぁ…」

声はガラガラ。
喉が気持ち悪い、痛い。
そういえば喉を突かれたのだ。
潰れているのかもしれない。
それでも言わなければいけないのだ。

「ああ…あ…」

「うん、サンキューな」

仰向けに倒れる雪男。
燐はそれをただしゃがんで見下ろしていた。

「お前の言いたいことも、全部置いて俺は行くよ」

許してなんて絶対に言わねえ。
そう言って彼は笑った。

伝えなければならないことが山ほどある。
言わなければならないことが死ぬほどある。

なのに伝えることができないのだ。

燐が雪男の頭のすぐ横に手をつくと、そのままだんだん顔を落として唇が軽く触れた。
柔らかい、だけどカサついていて痛いキスだ。

「最後だからな…」

最後になってしまう。

「俺、実はお前のこと好きだったんだ」

そんなこと今更言うのかと、酷く残酷な言葉に歯を食いしばった。

「さよならだ」

燐は笑った。
雪男は泣いた。

空色の目が、雪男から離れる。

彼が立ち上がると、勝呂が「行くなっ!!」と振り絞るようにして叫んだ。
続いて、誰かも彼にそう叫ぶ。

起きている人は必死に彼に叫んでいた。
自分も叫ばなければいけない。

なのに声はでない、身体は動かない。

何もできないのだ。

「い、う…あ…」

なんとか出た声はか細くて彼の耳に届きはしないだろう。
身体も、仰向けからうつぶせになって彼の背中に視線を向ける。

一歩、一歩と悪魔たちに近寄っていく彼の背中を見つめるだけという絶望の中で、突然バケツをひっくり返したような雨が降り出した。

うやうやしく悪魔たちが彼に頭を下げ、道を空けるとその先には禍々しい門が建っていた。
先程まであんなのものなかったのに。

たどり着く前に、這いずってでも彼を止めなければ。
そうしなければ彼は行ってしまう。

どんなにかっこ悪くても泥だらけでも汚くても、とめなければならないのだ。
彼を引っつかんで、言わなければいけない。

「う、も…」

濡れた土が気持ち悪い。
彼に必死に手を伸ばしたが届かない。

燐が門の前にたどり着くと、またこちらに振り返った。
眺めるようにして全員を見ると、目を細めて笑うのだ。

「う、な…」

笑うな。
そういう言おうとしたが言葉にはならない。

「く、も…」

土砂降りの雨が雪男の音の邪魔をする。
それでも息を吸って、大きく口を開いた。

「ぼく、も…!」

届いたのかは分からない。
だがしばらくすると燐は目を見開いた。

届いたのだ。

「だったら、なおさら行かなきゃなんねえよ」

最悪だ。
必死の言葉はどうやら彼の背中を押してしまう言葉になってしまったらしい。

言わなければよかった。
そう後悔した。
きっと言わなくても後悔したのだろうけど。
それでも、雪男は握った拳から血が滲むほど酷く後悔をした。

門が開くと鼓膜を破るのかというほど、悪魔たちの歓喜の声が上がる。
それをただ見ているだけだなんて、惨すぎると雪男は唇を噛んだ。

門は悪魔たちを飲み込み、燐をも飲み込んだ。
最後に彼は、いつもコンビニにでも出かけるかのように軽く手を振っていた。

いつもだったら手を振り替えしているだろう。
だけど今は到底振り返せない。
いってらっしゃいとも言えるわけが無い。

ただ、ただ、燐が消えるまでの瞬間を見つめることしかできないのだ。

静かになった辺りは音がひとつも無くなっていた。
雨も止み、雲も晴れていく。

雲の隙間から太陽の光が漏れ出していた。
みんな、呆然と言ったように。今が夢なのか現実なのか区別がついていないようだ。

雪男はただ、声も出さずに静かに泣いていた。








燐がいなくなってから、悪魔との戦闘は厳しくなるだろう、今までよりも酷くなるだろうと各々覚悟していた。
それに愚痴る見知らぬ祓魔師もいたし、怯える者もいた。
だが不思議なことに、戦闘の回数は確実に減ってきているのだ。

きっと、彼の仕業だ。
なぜかそう確信していた。

他の仲間たちも同じようで、悪魔の数が減ってきているという報告を聞くたびに悲しい顔をする。
虚無界では何がどうなっているのか分からないが、きっと彼が犠牲になってくれているのだ。

「兄さん、アンタは残酷な人だ」

こんなにも人を救っているくせに、こんなにも仲間たちを傷つけているのだ。
好きだと言った相手を傷つけているのだ。

悪魔の被害の数は相変わらず減り続けている。
それを誰かが喜んでいた。

燐は二度と帰ってこなかった。



























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