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バチバチと、雨が身体を叩いていた。
ようやっと我が家とも言えるだろう古い建物の寮のドアノブに手を掛けた。
任務明けに雨だなんて運が悪い。そう思いひとつ重いため息を吐いた。
雪男は任務帰りだった。
やっと悪魔退治も終わり帰れるようになったのは日もとっくに傾き、人が寝静まる時間になってからだった。

かなり疲れていた。今日の任務がきつかったというのもある。
だがこの疲れはそれだけのものではなかった。

自室に向かって長い廊下を歩く。
いつもだったらここで雨に濡れた上着を脱ぎ、そのまま風呂へと直行なのだが、そのままずぶ濡れの格好で軋む廊下を歩いた。
ただ早く兄に会いたかったのだ。

自室のドアノブに手を掛ける。
ゆっくりと、なるべく音を出さないように回して扉を開いた。
普段なら、日が傾かず人が寝静まる時間でなかったら、兄である燐が笑顔で“おかえり”と迎え入れてくれる。
だけど今日はもう眠ってしまっているのだろう、静かな寝息がドアの隙間から聞こえた。

「ただいま…」

ポソリと、本当に呟く程度の声で雪男は言った。
もちろん言葉は返ってこない。
部屋の中に入って、またゆっくりと静かに扉を閉めた。

一歩、また一歩と燐の寝ているベッドへと近づく。
手を伸ばせば触れられるぐらいに近づくと、その場に膝を着いた。
ポタリ、と雨に濡れた雪男の身体から水が幾つも落ちていく。
その場で止まったことにより、雪男の周りにどんどん斑点のようなシミが広がっていった。

燐は眠っている。
クロも枕元で一緒に眠っていた。
こちらに背を向けて、身体がゆっくりと上下に動いて健やかな寝息を立てていた。

雪男はそのまま見つめた。
その瞳の奥は冷たく、氷を宿したような瞳で燐の背中を見つめていた。

燐に起きる気配はなかった。
濡れた身体を拭くこともせず、しばらくの間、燐の背中を見つめると、ベッドに両肘をつき神に祈るようにして両手を組んだ。

「今日、任務だったんだ…」

ぽつりぽつりと眠っている燐の背中に雪男は語りだす。
それは今日の任務についてだった。




今日の任務は大量に発生したゴブリン退治だった。
ゴブリンは悪戯程度の悪さしかできないが、数が数なだけに数名の祓魔師と一緒に任務を行っていたのだ。
ゴブリンの巣である洞窟に侵入する前に、各々自分の武器に不備はないかと確認している時だった。
もちろん雪男も死にたくはないので自分の銃や聖水の確認、持っている装備品を細かく確認していた。

「お前の兄貴、悪魔なんだって?」

その言葉でピタリと身体が固まった。
だがすぐに銃の確認をしていた手が動き出す。

「それってさ、同族殺しになるんじゃない?」

「兄弟揃って悪魔の血を引いた祓魔師か」

今回の任務では、燐の正体を知っている者が参加していたのだ。
たわいも無い話のように思えた。
もしかしたらなんとなしの言葉だったのかもしれないし、当然のように嫌味だったのかもしれない。
どちらにせよ、雪男はその言葉を聞いたとき心中穏やかではなかった。

持っていた銃の引き金に、力を込めそうになった。



「殺意が湧いた」

最後に、そうポツリと呟いた。
燐はまだ眠ったままだ。

「兄さんの気持ちも、僕の気持ちも知らないあいつらに殺意が湧いたよ」

いつも穏やかな笑みを浮かべる雪男の顔は無表情のまま固まっている。
眼鏡の奥の瞳も冷たいままで、両手を組んだ指の爪が自分の手の肉に強く喰い込んだ。

「どうして、あんな事が言えたんだろう?」

雪男はあの時、引き金を引きそうになった。
だがそれをグッと堪えたのだ。
あいつらの喉に、口に、頭に、風穴を開けてやろうという思いを堪えたのだ。
その代わり、その思いは全てゴブリンにぶつけてやった。

「けど、それと同時に、自分自身が恐くなった」

瞼をギュッと強く閉じた。
両手からは肉が喰い込んで血が滲み出している。

「一瞬でも…いや、何度も思っていた…。あの人たちに銃を向けて、あんなに強い殺意を…撃ち殺してやろうかと思っていた自分が、恐い」

まるで自分が悪魔のようだ。
そう雪男は呟いた。

「あいつらの言った通り、僕のやっていることは同族殺しだろう」

燐も雪男も悪魔の血、サタンの血を引いているのだ。
それは紛れもない事実だった。

「そうだ、僕は紛れもない、悪魔なんだ」

恐い、そう言った。
何度も呟いた。今までの全ての恐怖を吐き出すようにして何度も呟いた。
“恐い”と、ただひたすら。

「…僕は、兄さんが大事だ」

瞼を開けて、雪男は燐の背に指先だけで触れた。
冷たかったのか、途中“んっ”と声が上がったが、それでも気にすることはなかった。

「兄さんがこの世で一番大事だ」

それは強く、心に深く刻み付けるような声だった。
闇の中で光を探そうと辿って探る、真っ直ぐな声。
それはきっと一生変わらない、この背中を守ろうという誓いものなのだろう。

指先から掌まで背中に触れる。
背中は冷えた雪男の掌と違って温かかった。
もう少しこの熱を味わっておこうかと思ったが、直ぐにその手を引いてまた手を組んだ。
手を組んで、額をその上に乗せる。眉間にシワの寄った雪男の顔。
それはまるで苦痛に耐えているようだった。

「助けて、神様…」

声が震えていた。身体も寒さなのか、それとも別の何かなのか、震えている。
だがすぐに震えは止まり、雪男は勢いよく立ち上がった。
瞼を閉じて健やかに眠る兄を見下ろした。

「おやすみ、兄さん」

そう言って頬に口付けて、自室から出て行った。













廊下の軋む音が聞こえなくなって、燐はようやく目を開けた。
上半身だけを起こして扉の先を見つめる。

「縋るなら、起きてる時に縋れよ」

その言葉を向けた相手はもう扉のずっと向こう側に行ってしまっていた。
雪男の肘が着いていた部分から中心に布団の隅が濡れている。
その部分を軽く握った。

(助けて神様、か…)

この世に神がいるのだろうか、悪魔がいる位なのだからいるのかもしれない。
そうじゃないと、あの弟の懺悔のような祈りのようなあの行いが無駄になってしまう。

「俺もお前が大事だよ、雪男」

ベッドから降りてまた別のベッドに移動した。
そこは雪男のベッドで、燐は冷たいシーツに身を包んで横になった。

「お前がこの世で一番大事だ、お前と同じで」

だからせめてこれぐらいは。
そのまま瞼を閉じて雪男のベッドで眠りについた。
雪男に触れられた背中だけが、異様に熱く、冷たかった。































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