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「雪男」

呼ばれて振り向くと兄である燐が呼んでいた。
学園の入り組んだ、まるで影のような場所の曲がり角からヒョッコリと顔だけを出して手で来い来いと招いている。

「兄さん?」

「こっち」

それだけを言って燐は顔を隠してしまった。

「兄さん」

待ってよ、と言う意味を込めて呼んだが燐は止まってはくれなかった。
燐の後を追うために雪男は足を進ませる。

「兄さん」

「こっちこっち」

また同じように顔だけを出して招く。
雪男も先程と同じように燐の後ろを追った。

それを何度も繰り返し、ようやく追いついたと思ったら燐はそこは誰もいない薄暗くジメジメした場所だった。
学園にもこんな場所があったのかと雪男も初めて知る場所だ。
燐は壁に背を預けて正面から雪男を見据えていた。

「どうしたのさ、こんな場所にまで呼び出して」

「なあ…」

すると燐は雪男に一歩近づき、触れるだけのキスをした。
雪男はそれにとくに驚く様子も見せず、ただその軽い触れ合いを拒否することなく受け入れた。

「シようぜ?」

それは滅多に聞くことの無い燐からの誘いだった。
あまり頭が良くないという部類に入る燐でもこの言葉がどういう意味を含んでいるのかは知っているだろう。
もちろん、雪男もその言葉の意味を理解していた。
理解しているからこそ、身構える。

「なんだよ、そんな固くなるなよ」

あからさまに誘うように、艶っぽい声で燐は雪男の首に両腕を絡ませた。
鼻と鼻が触れ合うくらいの距離になると、燐はそのまま行為を進ませようとコートに手を掛ける。

「ストップ」

「………」

「それ以上する気なら、撃つよ?」

燐の腹にゴツゴツとした硬い金属が触れた。
雪男が愛用している銃だ。

ハァ、と燐がひとつため息をつく。

「お前、何物騒なもん兄貴に向けてんだよ」

「兄さんでもない奴に、そんな事言われたくないな」

「…バレた?」

首を傾げて、燐は笑った。
そしてまたひとつ、瞼に口付けを落としたが雪男は特に反応を見せない。
ただ黙って受け入れていた。

「なんだよ、俺が兄貴じゃないって分かってるクセにキスしちゃうんだ?」

雪男から離れた、燐の姿をしたそれはきっと悪魔だろう。
雪男もそれが分かっていたので、そのまま銃を引く気はなかった。

「別に…キスのひとつやふたつ、騒ぐことでもないだろ」

「うわぁー、大人だねー」

ケラケラと、燐ではしないだろう嘲笑うような笑い。
本当の燐はこうやって他人を見下すような笑いはしないし、こうやって人を不快にさせるような笑い方はしない。
そのありえない姿に、雪男は多少だが嫌悪感が湧いた。

燐の姿をした悪魔は燐と同じ尻尾を出して、機嫌良さそうにクルクルとその場で回っていた。
何をしたいのか、何をやりたいのかまったく分からないその悪魔に、無意識のうちに眉間にシワが寄った。

「…どうやってこの学園に入った」

ここはメフィストが結界を張っている場所、簡単に入れる場所ではないことは明らかだ。
なのに、今目の前に悪魔がいるのだ。しかも燐の姿をして。

「秘密」

口元に人差し指を立ててそいつはまたクルクル回りだす。
尻尾がユラユラ揺れていた。
その尻尾が目障りで、そのまま掴んで引きちぎってやろうかとさえ思ってしまう。

「なぜ僕をここにまで誘った」

「まあ…なんでかって言われると、お前と話してみたかったって言うのもあるし…けどまあ、半分は俺の好みかな?」

ヘラリと笑った悪魔は、兄と同じ無邪気な笑みを浮かべた。
好み、と言われて、どういう意味だとまた雪男の眉間にシワがひとつ増える。
そして少しの間、それを考えると優秀な雪男の頭の中に答えがひとつ導かれた。

「…淫魔か」

「正解」

またの名を夢魔とも呼ぶそれは、人を誘惑して精を奪う悪魔だ。
厄介な者に目を付けられたと思わずため息が出るが、そんな事をしている場合ではない。
銃の引き金に力を込めた。

バァンッ

銃の音が狭いこの場所に響く。
弾は当たった。淫魔の足に。

「…っ!!うっわ!!マジで、マジで兄貴を撃った!!」

跪いた淫魔は苦痛に顔を歪ませていたがどこか可笑しそうにして笑っていた。

「やっぱり、やっぱりな!!お前も悪魔の子だぜっ!!」

ヒャハハハハ、と笑う燐の姿をした淫魔にもう一発弾を放った。
肩、足、手、耳朶。
致命傷にならない程度の傷をそいつに負わせていく。

「どこから入った」

知らなくてはいけなかった。
この悪魔がどのルートからこの学園に忍び込んだのか。
そしてその道を防いでもらわないと、また悪魔が忍び込んでくる。

「答えろ」

冷たい声。冷たい視線。
血塗れになっている燐の姿をした淫魔は身体を地面にうつ伏せに倒れていた。
その姿に目を逸らすことなく、雪男はまた一発弾を放った。
全て撃ち終えてしまった空の薬莢を素早く取り出して、新しい弾を詰め込むとまた淫魔に銃を向けた。

「…ハハハッ、いいぜ、その残忍さ。あんたこそ魔神の血を引く者だ」

「…僕は病弱で力を共有できなかった、魔神の血を引けるわけがない」

「いいやっ、お前こそが相応しい!!このなまっちょろい兄貴より、ずっと相応しい…」

地面から顔を上げ、ペロリと口元から漏れた自分の血を舐めると淫魔はゆっくりと仰向けになって雪男を見上げた。

「兄貴の事、愛してんだろ?」

「……」

「愛してなかったら俺がこの姿な訳ないよな?」

「……」

「だけどお前は撃った、血の繋がった兄弟を、愛した男を!!」

淫魔は笑った。高らかに笑った。
血塗れの姿で、燐の姿で空を仰いで笑っていた。

「なあ、兄貴だけが魔神になるかもとか思っちゃってたわけ?」

淫魔は楽しそうに言葉を続けた。
本来なら、こういう悪魔との会話など、耳を傾けてはいけない。
ただ相手を殺すことだけを考えて、この銃を構え、引き金を引かないといけないのだ。
だが引き金を引けなかった。新しく替えた弾はまだ一発も減っていない。

「今は力が無くても、今のお前なら奪えるんじゃねぇの?」

可哀相な兄貴を救ってやりたいとか思っちゃわない?
それはまるで悪魔の囁き。
兄の力を奪って、自分が魔神になれと。
だが雪男にはもう答えが出ていた。

「不可能だ」

バッサリと答えた返事に、淫魔が驚いたようにポカンと目を見開いていた。

「どうやら、その姿だと同じように頭も馬鹿になるみたいだ」

空を仰いだ淫魔に跪き、額に銃を当てた。
絶対に外す事は無いだろう距離に致命傷の場所。
淫魔も悟ったのか、口角を上げるだけの笑みを浮かべるだけだった。

「奪っても、僕の肉体が耐えられない。生まれた時から力を持っていたのと持っていないではだいぶ違うからね」

力があっても、突然入った力に器は耐えられないだろう。
それにその力が器に馴染むかも分からない。
色々な問題が山積みのようにあり、その返答の全てが不可能だと出ているのだ。

「それでも、賭けてみたりしねぇの?」

ニンマリと笑ったまま、淫魔が答える。

「兄貴にだけ、重荷背負わせるのって酷じゃね?」

悪魔が誘う。手を上げて、血の付いた人差し指で雪男の頬のラインをなぞった。

「なあ、雪男。俺と一緒に……」

「無理だ」

「臆病者」













鼓膜の奥がジンジンする。
銃の音が頭の中に何度も響いていて、頭が痛くなる。

入り組んだ道から抜け出た雪男はまるで久々に太陽を浴びるような気分になった。
さっきまでとはまるで別世界のようだと、辺りをただ眺めているとどこからか雪男と呼ぶ声が聞こえた気がした。

「雪男!!」

今度はしっかりと聞こえてその方向へと向いた。
雪男の右側から、燐が呼びながらこちらへと向かっている。

「兄さん…」

先程まで淫魔に化かされていたあの姿がこちらへとだんだん近づいてくる。
もしかしてまた同じ悪魔か、と思って身構えたが、どうやら今度は正真正銘本物のようだ。

「どうしたの?」

なるべく普段どおりに微笑むと、息を切らした燐が膝で両手を支えてうなだれた。
しばらくすて呼吸が整ったのか俯かせていた顔が上がり、雪男を見上げた。

「“どうしたの?”じゃねえよ!!おまっ、銃の音が聞こえたから急いで来たんだよ!!」

大丈夫かよ!?と心配そうに怪我が無いかを確認する燐に思わず雪男は笑った。
やっぱり正真正銘の兄だ、と安心したのだ。

「何笑ってんだよ…」

「ゴメンゴメン、兄さんだなって、思ってさ」

「はぁ!?当たり前だろ、俺以外誰がいるって言うんだよ!?」

さっきまで淫魔がいたんだけど、と心の中で呟いて、雪男は燐の頭を撫でた。
何するんだと撫でる手を払いのけようとするが、その前に腰に手を這わされて身体を飛び跳ねさせた。
明らかにいやらしい手つきで驚いているようだ。

「おまっ、なに…!?なっ、がっこう…」

学園の中で、しかもいつ誰が通るかも分からない場所でナニをする気だ!!
と言いたいのだろう、慌て捲くって言葉になっていないが何となく雪男には理解することができた。

「兄さん、キスしてよ」

兄さんから、と耳元で囁くようにして言うと、燐はたっぷりと間を空けてからようやく口を開いた。

「はあああああ!?」

無理だと顔を真っ赤にして首を必死に振る燐。
やはり兄の場合こういうふうになるだろうな、と何となく雪男は想像していた。

そもそもああやって兄が誘うわけが無い。
学園の中で、しかも外で。ありえない話に思わず苦笑いする。
「なっ、なんでいきなり…」

「ちょっとね」

もういいだろうと、腰に添えていた手を放すと燐は俯いた。
つむじを雪男に見せて、そのまま先程雪男がいた入り組んだ道に入る。

「兄さん?」

「…こっち」

それはあの淫魔と同じ誘い方だった。
顔だけをだして、手で来い来いと招く姿。
唯一違うのは頬を染めて不機嫌そうにしているところだけだ。
一瞬、本当に兄だろうかと疑ったが、先程正真正銘兄だと証明されたばかり。
まあ、大丈夫だろうと、雪男はまた同じ道に入っていった。

すると、いきなり胸倉を掴まれ、そのまま壁に押し付けられる。
痛みに思わず瞼を閉じると、柔らかい感触が頬に触れた。
その感触は覚えがあるもので、咄嗟に閉じてしまった瞼を開けた。

「…これでいいかよ」

か細い声、燐が真っ赤な顔で雪男を見上げていた。
口にではなく頬に、キスをされた。
まあ、兄ではこれぐらが限度だろうと微笑む。

「…うん、ありがとう」

「いきなり無茶な事要求すんじゃねえよ、このメガネ!!」

そう言われて、眼鏡を取り上げられると視界が一気にぼやけた。
視力が弱い人が眼鏡を取られるとかなり困る。

「返してよ」

「うっせ、しばらくの間それでいろ」

眼鏡は燐のズボンのポケットに仕舞われるのがぼやけた視界で見えた。
頬にキスひとつで眼鏡を取られるなんて、少々お高いんじゃないかと思いつつも、雪男はため息をつく。

ぼやけた視界でも空が青い。
壁が二重に見えたりするが、それでも青い空は綺麗だった。

「…兄さん」

「なんだ?」

「僕は臆病者かな?」

空を見上げたまま、雪男は聞いた。

先程、淫魔に言われた言葉。
燐の力を奪って、自分が魔神になれというあの悪魔の囁き。
不可能だ。誰もがそう言うだろう。

だが、やってみなければ分からないという事もある。
もしも成功したら、燐は魔神や悪魔の恐怖から解放される。
騎士団から兵器として見られる事も扱われる事もなくなるだろう。
さすがに祓魔師を辞める事はできないかもしれないが、それでも危険は減る。
怯える事なく、苦しむ事なく生きていられるのだ。

だが雪男には出来なかった。
奪う方法が分かったとしても、この肉体に馴染むとしても、自分が犠牲になるのだ。
少なからず、恐怖があった。

「臆病者なんかじゃない」

燐がハッキリとそう言った。
空を見上げていた顔を下ろし、燐と向き合う。

「お前は臆病者なんかじゃねえよ」またハッキリとそう言われて泣きそうになった。

「大丈夫だから、お前はビビりでも何でもねえよ」

まるで全てを分かっているような口調が不思議で燐の瞳を真っ直ぐに見る。
するとヘラリと笑われ、先程雪男がしたように頭を撫でてきた。

思わず涙が出た。
やっぱり自分は臆病者だと。
こうやって兄にすがっているのだから。

涙は一粒流しただけで、目を腫らす事なく止まった。

「泣くなよ。ほら、今日の晩飯お前が食いたい奴何でも作ってやるから」

まるで幼い子供を慰めるような台詞に思わず笑った。
瞼を一度拭ってから、だったら、と雪男は口を開いた。

「キスが欲しい」

「……それは食い物じゃねえだろ」

「優しい、キスが欲しいよ」

ねだるようにそう言うと、燐は顔を赤くさせて、ちょっと俯いて考えるようにしてから雪男の手を引いた。
そのまま薄暗い場所から抜け出し、ポケットから先程奪った眼鏡を雪男に掛けた。

「部屋に戻ったらな」

「…うん、楽しみにしとく」

そのまま二人はお互いに顔を見合わす事もせず、日の当たる場所へと歩いた。


























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