青の祓魔師電気も点けず、カーテンも閉めたままの部屋。そんな真っ暗な世界の中で、ベッドの上でシーツに包まっている燐がいた。 雪男からの連絡が来ず、一週間。 たった一人、燐は雪男を待ち続けていた。 彼はいつも通り、燐から見送られて任務へ行ったのだ。ついていきたいと駄々をこねる燐をなんとか宥め、「すぐに帰るよ」と言って雪男は任務に行ってしまったのだ。燐はその時のことを深く後悔していた。 どうしてもっと駄々をこねなかった。 どうして無理やりにでもついていかなかった。 自惚れていると思われてもいい。そしたら違った未来があったかもしれないのに。 「何が“すぐに帰るよ”だ…」 もう期日はすぐに帰ると言ってから一週間も経っているではないかと、燐は携帯の日付を睨みつける。 勿論メフィストにも問い詰めた。雪男がどんな任務で、どうなっているのか。だがメフィストは首を横に振るだけであった。 「どんな任務かお教えすることはできません。ですが奥村先生の消息が分かり次第、一番に貴方にお知らせすることを約束しましょう」 メフィストは燐にそう言ったきり、何も教えてはくれなかった。どんな任務か教えないのは、少しでも情報を与えると燐がその些細な情報を頼りに彼の場所へと向かうだろうことを考慮したからだ。 なので待つしかできない燐は、まだ扱いなれていない携帯電話を壊れるのではないだろうかというほどの力で握りしめて待っていた。 携帯のボタンに触れると、画面が一気に光り燐の目を数回瞬きさせる。その瞬きの度に潤んだ瞼からは涙が流れ落ちそうになるが、留まるだけで終わり、流れることはない。 充電はいつでも満タンだ。いつ連絡が来ても大丈夫なように、 だが待ちわびている連絡は一向に来ない。 燐は携帯の画面に食い入るようにして決して視線を逸らさなかった。 時間は刻一刻と、無情にも過ぎていく。日付が変わっても燐は携帯の画面を濡れた瞳で見つめていた。 そんな痛々しい姿を傍らで見ていたのはクロだった。 涙をいっぱいに溜めているくせに泣くこともしない、ただひたすら待つしかできない燐の頬をそっと舐めてやる。頬はしょっぱくなんてなかった。それが余計に悲しい。 頬を数回舐めると、燐がくすぐったいと言って小さく笑う。クロの柔らかい頭を撫でると、抱きしめるようにして自分の胸に包み込む。 クロはその腕の温かさに目を細めた。 「雪男、遅いよな」 本当、マジでおせーよ。 そう言って燐は笑った。その笑みはどこか痛々しくて、見上げたクロは見ていられなくなる。 真っ暗な部屋の中で、携帯の光だけが唯一彼の表情を照らしてくれる。光など無くてもクロは夜目が効くので関係ないが、それでも真っ暗な中で唯一の光があると嫌でもそこに視線がいってしまう。 彼の涙をどうにかする方法を知りたいと、神様に願った。 だが自分も元は神様だったことを思い出し、その存在の儚さと無力さを再認識させられる。 神様だなんて所詮人と同じ、悪魔と同じ、なんにも出来ないのだ。 誰かのために願っても堕ちても、なんにもできやしない。 “りん、なかないで” そう言ってまた腕から抜け出して燐の瞼を舐めた。必死にクロなりに慰めようとするが、燐は無理して笑うばかりで、クロの望む笑顔をくれない。 彼はもっと太陽のように笑ってくれる。あったかくて、見ていると心がポカポカして、こっちまで笑ってしまいたくなる、そんな日向のような笑顔。 それなのに今はただひたすらそれとは真逆の日陰のような悲しくなる笑みだった。 クロは必死に思い出そうとした。 自分が泣きたいとき、泣いていたとき、誰が、どんなふうにしていてくれたか。 クロが一番最初に思い出せたのは大きな掌だった。 まだ生前の、獅郎の掌。彼の掌は大きくて温かかった。 様々な訓練で鍛えられたのだろう手は少しゴツゴツしていたし、マメだって出来ていた。 そんな無骨な掌を差し出して「仲直りしよう」と言われたとき、クロはこれ以上なく泣きたくなった。 そんな無骨な掌の次に思い出せたのは、目の前の携帯ばかりを見つめる青年だった。 獅郎が死んで、苦しくて認めたくなくて、信じていたものがガラガラと壊れる感覚に陥って、ただひたすらあの時と同じように暴れていた。 そんな時、彼と同じように手を差し出してくれた。「仲直りしよう」と。 獅郎とは違う、銃だって剣だってまだ握ったことがないだろう綺麗な掌だったが、それは確かに温かかった。 だからクロは泣いてしまった。 クロはやっとわかった。燐に今必要なのはあの差し出される温かい掌と、包んでくれる大きな身体だ。 彼にはそれが必要なのだ。 だからいつまでも扉の内側で洪水を起こすばかりで泣いてくれない。悲しみが尽きない。 だがクロには温かい掌も大きな身体も無かった。あるのは柔らかい毛と愛くるしい身体だけだ。 手は小さく、彼を包むにもこの身体はあまりにも小さすぎる。 燐の同級生である猫好きの青年は、クロの愛くるしい容姿や肉球の付いた掌をこよなく愛して褒めてくれた。勿論彼だけではなく、全員クロのこの形を愛し可愛がってくれていた。 クロもそれが嬉しくてこの形で満足していたが、今だけはこのありとあらゆる形に不満を持った。 この形では彼を慰めることが出来ない。 なのでクロは立ち上がった。スルリとベッドから抜け出すと、一人でいたくないのだろう燐が不安そうな声でクロを呼ぶ。 だがクロはその声に“トイレ!”とだけ告げる。燐もそれに納得してくれたのか、後を追う事はせず、クロは一人で部屋から抜け出すことが出来た。 クロは大急ぎで廊下を走った。古い建物だが、クロが走るくらいでは床の軋む音はたいしてせず、全力で走れる。 廊下の窓から見る外は満月だった。真っ暗な闇の中で月だけが唯一の照明。 クロは目的の場所に辿り着くと、すぐにそれに手を掛けた。洗濯して干されたままの服。 クロはそれを引っ張って床に落とした。それを羽織い、次は下に穿くものも同じように干されたものから選ぶ。 クロが選んだのは全て雪男の私服だった。 上の服とは違い、下のズボンはまだ生乾きで触るとヒヤリとした冷たさを感じる。だがそれでもクロはどうでもよかった。 必死に思い出す。 彼は努力家だから、撫でられると獅郎と同じ掌にマメの感触がした。 顔も整っていて、燐よりもずっと異性にモテているのはクロにも分かった。 足だってクロよりもずっと長くて、スラリとしている。 自分よりも大きい身長に燐は悔しがっていたが、包まれるととても安心した顔をすることをクロは知っている。 雪男の整った顔。雪男のマメが出来た手。 雪男の長い足。雪男の大きな身体。 匂いも感触も体温も。全て振り絞るようにして鮮明に思い出そうとした。 夜空に浮かぶ満月にクロはそっと願い事を込めた。 流れ星も手紙も短冊も何もない、ただひたすら思うだけの夜空に向けた願い事は叶えてくれるだろうかと不安を覚える。 けれど、こんな堕ちた神様でも大好きな人の涙を流してやりたいし止めてやりたい。 たった一度だけでいいからと、クロは大きな満月を見上げて願った。 クロは急ぎに急いだ。 先程と同じように大急ぎで廊下を走ると、ギシギシと廊下が悲鳴を上げるが、そんなことどうでもよかった。 辿り着いた扉の前で、クロはゆっくりとドアノブを回した。すすり泣く声でもない、ただ穏やかな息遣いが耳を澄ませば聞こえてくる。 ゆっくりと忍ばせるような足取りで部屋の中に入ると、燐は携帯を握りしめたまま半分ほど眠っていた。 それもそうだ、こんな夜遅くだ。普段の彼ならもうとっくに眠りについている時間だ。 クロはゆっくりとなるべく足音を立てないように進み、雪男の机の引き出しを探った。ズラリと並んだそれを手に取ると、雪男が普段しているように掛けてみる。視界がグラグラして気持ちが悪いことこの上ない。 だがそれでもクロはそれに耐えて見せた。 「…ゆきお?」 背後から名前を呼ばれ、ビクリと身体を跳ねさせる。普段なら二本の尻尾がブワリと広がり、全身の毛が逆立っているところだろう。だが今のクロには二本の尻尾も全身を覆う毛もなかった。 あるのは普段よりもずっと高い身長と、ツルリとした肌、そして長く伸びた手足だけだ。 顔も、クロが鮮明に思い描いたものへとなっている。 「兄さん」 そう呼んで、燐が横になっているベッドの端に腰を下ろす。燐が目を見開き、身体を起こそうとするがそれを止めた。また再び眠るよう促す。 「ろくに寝てないんでしょう。ちゃんと寝て」 燐は雪男がいない一週間、ろくに夜も眠れずに過ごしていたのだ。先程のようにうとうとしていても、直ぐに目を覚まして携帯を食い入るようにして見つめる。 そんな夜を何度も過ごしていたせいで、隈だって出来ている。 困惑する燐の瞼にそっと掌を乗せた。それが眠るように訴えているのだと燐も理解してくれたのか、素直に瞼を閉じてくれた。 ゴソゴソとシーツに再び潜りだすのを見て、同じようにシーツの中に入る。燐の体温で温まっていたシーツはとてもぬくい。 すぐにでも眠ってしまいそうだと思うと、燐が頬に手を当ててくる。 「…あったけえな」 「うん、あったかいね」 「雪男の匂いがする」 「ほんとう?」 「ああ、俺の好きな匂い」 そう言って燐は胸元にすり寄った。それが少しくすぐったくて身を捩った。 すり寄る燐の背中に腕を回し、掌でトントンとまるで子供をあやすかのように優しく背を叩く。 燐はそれが心地よさそうにして目を細めた。 クロは必死に思い出そうとしていた。雪男はいつも、どんな風にして燐に接していたか。 彼はいつも厳しかったが、時折綿に包み込むようにして燐を優しく包んでくれていた。それは時折、獅郎の姿を彷彿させたが彼にはまた別のものが含まれているようだった。 なんだかとても堪らなさそうな、胸が苦しくてギュウッとなるような。 人はそれを愛しいと言うのだろうかとクロは考える。 トントンと単調なリズムに乗って燐の背中を叩いていると、いつの間にか自分の背にも腕が回されていた。 まるでしがみ付くようなそれに、絞められている訳でもないのに胸がギュウギュウと絞めつけられているようだった。 それに応えるように腕の力を込める。そうすると腕の中の存在がハッキリと分かり、温かさと切なさに目を細めた。 大丈夫だよと言ってあげたい。 だって彼はいつだって燐のために生きていたのだから。 これからだって燐のために生きていてくれるはずだと言ってあげたい。 だがなんの確証もない言葉は彼を余計に傷つけるだけだった。だから何も言えず、ただ彼の姿であやすようにして背を叩くことしか出来なかった。 「…足濡れてるぞ」 まだ生乾きだったズボンを指摘される。だがこれしか見つからなかったのだから仕方がないじゃないかと思った。 「すぐに乾くよ。二人で引っ付いてれば」 「そうか」 「そうだよ」 「どこにも行かないでくれな」 「うん、いかない」 そう言って頭を優しく撫でてやった。少しでも涙が渇く足しになるようにと出来るだけ優しく触れる。 「ありがとな、クロ」 背を叩いていた手が止まる。だがすぐにその手の動きを再開させた。 しがみ付くようにしていた身体が震え、胸に埋めているその部分が濡れていたからだ。どうやら彼の扉の内側は開いたらしい。 ようやく手に入れた温かい掌や大きな身体。本当ならこれは自分の役目ではないのだ。 泣かせるのも、泣き止ませるのも、本当は彼の役目だ。 だがクロが半分ほどその役目を引き受けた。だからクロはまたカーテンも開かれていない、電気も点けられていない真っ暗な部屋で願った。 彼はもう泣いた。だから泣き止ませるために早く帰ってきて欲しいと、ただひたすら願って静かに泣いた。 カーテンの隙間から光が入る。クロはそれに目を覚ました。 どうやらいつの間にか眠っていたようだとのそりと身体を起こす。そうすると昨夜とは明らかに違う燐の大きさに気づき、小さく欠伸をしてから伸びをした。 シーツの上には雪男の服が抜け殻のようにしてしわくちゃに置かれている。 燐の腕から簡単にスルリと抜け出すと、携帯がブルブル震えていることに気が付く。それにクロは燐を起こそうか迷う。 ようやくぐっすりと眠っている燐を起こすのは忍びない。ただでさえ最近は寝不足気味だったのだから。 燐も起きる様子がない。だがそれでもクロはもしかしたら雪男に関わることかもしれないと思うと起こすのを選択する。 “りん、けいたい!” ペシペシと肉球の付いた手で燐の頬を叩いてやるが「う〜ん」と唸るだけで起きてくれない。こんな時大きな手を持った人間だったらすぐに起きてくれるのにと、何度も燐の頬を叩いて起こそうとする。 “り〜ん!けいたいなってるぞ!” だがまったく起きる気配のない燐。携帯が止まってしまうと、こうなったら大きくなって起こすしかないと力を込めた瞬間、震えていた携帯が持ち上げられた。 それはクロの背後から伸びた手で、目の前の燐のものではない。マメの出来た大きな掌。それはクロがよく知るものだ。 「はい、奥村です。兄はまだ寝てまして…」 聞き覚えのある声に全身の毛が逆立った。二本の尻尾もピンと立って固まっている。 振り向くことが出来ず、そのまま固まっていると携帯の相手との会話が終わり、ピッと終了を告げる電子音が鳴った。 「おはよう、クロ。ただいま」 固まっていたクロを上から覗き込むようにして見たのは、まぎれもない雪男だった。頭には包帯が巻かれ、頬に湿布を貼られているが、確かに雪男だった。 “ゆきお!” クロは雪男にこれでもかというほどすり寄った。言葉が通じない分身体で精一杯嬉しさを表現する。雪男にもそれが伝わったのか、柔らかい毛を持つクロの頭を撫でてすり寄ってくるのを受け入れた。 「それにしても…もう九時なんだけど。兄さん完全に学校遅刻してるじゃないか」 しかも僕の服ぐちゃぐちゃにしてるしとぼやく。相も変わらず雪男は口うるさい。 だが燐を睨みつけていた目はすぐに柔らかく垂れ下がった。 「けどまあ、原因は僕っぽいし。仕方がないか」 そう言って雪男はまだ眠る燐の瞼に触れた。昨晩のせいで真っ赤に痛々しく腫れている。 燐はまた軽く身動ぎして唸り声を上げる。これはもうそろそろ起きそうだとクロは予感した。 真新しい傷だらけの手で、雪男は燐の頬をなぞった。柔らかい視線に、優しく撫でる手つき。 クロはなんだか見ていて恥ずかしくなってしまった。 「兄さん、起きて」 そう言って、耳の良いクロにほんのわずかに息の止まる音が聞こえた。そして大きな掌で燐の頬に触れ、顔を近づける。 一部始終を見ていたクロは唇の触れる音がして、尻尾をピンとまた立たせた。だがそれはすぐにユラリと揺れる。 燐はゆっくりと瞼を開き、しばらくの間目の前の人物を見つめる。まだ目覚めない動かない頭でもようやく目の前の雪男の存在を理解できたのか、身体を起こすとまたいっぱいに涙を瞳に溜めていた。 そんな燐に雪男は両頬で掌を包み、額と額を引っ付ける。燐もその頬を包む手に自分の手を重ねる。 じんわりとした温もりが、余計に燐の涙を誘った。 そんな二人を見ていたクロはなんだかこれ以上見てはいけない気がして慌てて部屋から出て行こうとした。 「ただいま、兄さん」 遅くなってごめんね。 部屋から出て行って扉の隙間から聞こえたのは、優しさをふんだんに詰め込んだ声色。 そしてほんのわずかな、涙の落ちる音だった。 掌 の 優 し さ 2011/11/13 top |