青の祓魔師走った。 走って走って走りまくって、燐はとうとう生い茂る草木に足を取られて躓いて転んでしまった。 倒れると息苦しくて立ち上がる事も出来ず、そのまま倒れた状態になる。心臓がどくどくと脈打って自分が今生きていることを必死に伝えようとしてくる。 燐は肩で呼吸をし、滴が頬に一粒落ちてくるのを感じた。 雨だ。バケツをひっくり返したような激しい雨が燐の身体を濡らしていく。身体を冷やすが好都合だと燐は息も絶え絶えに立ち上がった。 この激しい雨だったら足跡も匂いも気配も殺気も、全て消してくれる。 燐は再び走り出した。 片手に父が残した自分の心臓でもある剣を握りしめながら。 激しい雨のでも教会の中では豪快な笑い声がひとつ聞こえた。 そして小さな子供の笑い声もふたつ。 燐は教会の門の前で立ち止まった。門より先に入るのが酷く躊躇したのだ。 そこから先は入ってはいけない聖域のような。 だが入らないと何もできない。 燐は拳をきつく握りしめ、近くに転がっていた石を見つける。これなら大丈夫だろうと思う小石を拾い上げ、狙いを定めると思いっきり振りかぶった。 ここから一番狙いやすい、笑い声が聞こえる部屋の窓ガラス。 パリンと硝子の割れる高い音が激しい雨の中で響いた。 狙い通りと自分の絶妙なコントロールに燐は小さくガッツポーズをした。すると教会の扉が勢いよく開かれる。 「ゴォラ!!誰だこんな雨ン中わざわざ硝子割っていく奴は!?」 獅郎だ。怒鳴り声だが燐には充分懐かしい声だった。その声を聞いた瞬間縋りつきたくなる衝動に駆られたがそれを必死に抑えた。 獅郎は燐の姿を見るや否や燐の方へと向かって走り出した。激しい雨のせいで視界もそうよくないからハッキリとした燐の顔は見えていないだろう。 これも狙い通りだと燐は獅郎に背を向け走り出す。門の壁に沿って走り出し、獅郎もそれを追いかける。 獅郎の足は意外なほど速かったが、それでも何とか獅郎を撒くことが出来てほっとする。そして次だと燐は教会に戻り、門からではなく壁をよじ登って教会の敷地へと入っていった。 ゆっくりと扉を開けると扉は簡単に開いてしまった。鍵を掛けていなかったのだ。なるべく足音を立てないようにゆっくりと歩き出すと、とある昔の事を思い出した。 それは漫画の中のキャラクターが抜き足忍び足と音を立てず悪人の背後を狙っているシーンだった。幼い頃、それが酷くかっこいいと憧れて抜き足差し足忍び足と獅郎の背後に回って悪戯をしていたことがあった。 そんな自分の懐かしくも可愛らしい思い出。 その経験が生かされてか燐の足音は古い教会内でも対して鳴ることはなかった。 だが静かな足音とは対照的に、一歩一歩踏み出すたびに濡れた足跡が床にクッキリと残っていく。 台所など人が集まる場所を覗き込んでみるが誰もいない。窓硝子を割った部屋もついでに覗いてみるが獅郎以外誰もいなかったのだろう、割れた硝子はそのままにされていた。 今日は運がいいと燐は心の底から喜んだ。 そしてとうとう見つけ出した。 小さな子供の笑う声。 それが同じ部屋から聞こえることが分かり、先程までの気持ちが嘘のように落胆する。どうやらそこまで運は回ってこないようだ。 燐はその部屋の前まで行くと、扉にそっと耳を当てた。 「にいさんくすぐったい!」 「おらおら、まだまだだぞ!」 目の前に思い浮かぶ微笑ましい笑い声に燐は思わず頬を緩めた。温かいものを凝縮したような穏やかなそれにもう少しこうしてこの声を聴いていたい欲求に駆られる。 だがその欲求も獅郎の時と同じように無理やり抑え込んだ。 獅郎が返ってくる前にやらなければいけないことがある。 燐は何度か静かに呼吸を繰り返した。 濡れた髪の先が滴を作り、頬や瞼を濡らしていく。皮膚を伝うその冷たさは剣を握るその手にも伝わった。 濡れた手で、また剣を握り直す。そして空いている手で扉をノックした。幼く可愛らしい声が「はぁい」と扉の向こうで返事をする。 「とうさん?」 声と同時に扉が開く、それは幼い頃の雪男だった。 今の燐の半分もない身長。幼い雪男は目をぱちくりと開いて燐の姿を捕えると、一瞬にして青褪め「あ」と口を開いた。 声を出す前に胸倉を掴み、小さな雪男を軽々と持ち上げると扉の外である廊下に引きずり出してやった。そしてそのまま壁の方へと打ち付けるようにしてやると、ぶつかった瞬間雪男から蛙が潰れた様な声を出した。 そしてガクリと雪男の身体から力が抜け落ちる。 「ゆきおぉ!!」 そしてもうひとつ部屋の中から怒気を含んだ懐かしい声。 雪男に駆け寄ろうとする小さな子供に燐は襟首を掴んで部屋の中に放り込んでやった。ドサリと背中を打ち付けたのか痛そうにする。 燐は扉を閉めて鍵を閉めようとするがこの部屋には鍵がないことを思い出した。なので仕方なく扉を閉めるだけにしておいた。 どうぜ雪男は気絶しているのだから気を使う必要はない。 燐は目の前に転がる小さな自分を見つめた。 それは紛れもなく幼い頃の燐だった。身長も先程の雪男と同じ、今の自分の半分もあるかないか。 掌が雨以外で濡れているのが分かり、また剣を握り直した。 燐は小さな小さな幼い子供の頭を目掛けて、思いっきり振りかぶった。 鞘は抜いていない。 これだけで充分だと思ったからだ。 ゆっくりとスローモーションのようにして動く目の前の光景。本当はかなりの速度なのだろうが、燐にはとてもゆっくりに見えた。 子供が腕を上げて反射的に頭を庇おうとする。 だがそれも無意味だった。 そんな小さく頼りない腕では防げるものも防げない。子供は小さく無力で大人が守ってあげないと生きていけない生き物だと昔から決まっているのだから。 そしてとうとう聞こえてしまった。燐の耳にもよく聞こえた。 まるでスイカ割りのようにして燐は小さな子供の頭を剣で殴ったのだ。 ガツンと意外なほどそれは大したことのない音だった。 殴られ床に倒れた音の方が大きくて響く。 小さな燐は殴られた瞬間は声を上げなかったが、床に倒れ、しばらくすると声を出して大泣きしだした。殴った場所からは血が流れ出していた。 思いっきりやったつもりだったが無意識の内に力が緩んでいたか、それともこの幼い燐が驚くほど丈夫だったのか。燐は血の付いた剣を握ったままただ見下ろすだけだった。 「お前は…」 そしてとうとう声を出す。 「生きてちゃいけないんだよ」 それは小さな子供には残酷すぎる言葉だった。 だが幼い燐は痛みと恐怖のせいか声を出して泣くばかりでそんな燐の声は聞こえていないようだ。 小さな手が殴った場所を抑えて血に濡れている。子供が泣きながら繰り返し呼ぶのは弟と父親の名だった。 「お前は、いつかその父さんを殺すんだ」 そう言うと頭にズキリと痛みが走り出す。 「自分だけ何も知らずに育って、弟も巻き込む」 怪我もしていないのに頭からは血が一筋流れ出した。 「色んな奴に迷惑かけて生きていくんだ」 血は一筋だけではなく、いくつも流れだして止まる事がない。 「お前は生きてちゃダメなんだよ!」 流れ出す血は、幼い燐と同じ場所から流れていた。 燐は剣を持った手で血を拭った。 二回目はさすがに死ぬだろう。 燐は目の前で泣く子供を殺そうと剣を再び振り上げた。 幼い燐が目を見開いて怯えた色がどんどん濃くなっていく。身体は小刻みに震え、恐怖で声も出ないようだ。 ようやく出たか細い声もやはり「ゆきお」や「とうさん」だけだった。 突然見知らぬ人物に頭部を殴られ殺されかけているのだから無理もない。それでも燐は構わずそれを大きく振り上げていた。 殺さなければ、殺さなければ。 心の奥から声が湧き上がる。 目の前の小さな悪魔を殺さなければ。 死になさい、死になさい。 頭の中で何度も繰り返し回りだす。 今この場で立っている悪魔は死ななければ。 大丈夫、大丈夫。 これで皆は救われる。 自分もようやく救われる。 力を込めて振り上げ、また同じ小さな頭を狙った。 ガタガタブルブル。震える身体に少し同情するがそれも直ぐに収まる筈だ。 これ以上、恐怖を与えないうちに。 後は振り下ろすだけだと思うと、背後からドンと何かがぶつかった。足に纏わりつくような感触のそれに腕を振り上げたまま首と視線だけで後ろを確認する。 燐の太ももに縋りつくのは小さな雪男だった。いつの間に起きたのだろう。 ガタガタブルブル。こちらも身体を小刻みに震わせながらも必死に燐に縋りついている。 小刻みに震えるそれはまるでハムスターみたいだとこの場に似合わず思ってしまった。 怯えながらも燐を見上げ、太ももに回される腕はしっかりと子供ながらに力が込められていた。 「…ごめんな、雪男」 そう言うと雪男は不思議そうな顔をする。 だがそれでも燐は振り上げたままの腕にまた力を込めた。 視線の先は怯える自分。 それをしっかりと捉えて燐は狙いを定めた。 その力を込める瞬間がしがみ付いている雪男にも伝わったのだろう、息を飲むのが分かった。 「にいさんをころさないで!!」 病弱で、泣き虫で、怖がりで、大声なんて滅多に出せない雪男が怒鳴った。 意味なんてないのにぎゅうぎゅうとズボンを引っ張り、目の前の見知らぬ人物を止めようとするのだ。燐を見上げ、涙ながらに全身で訴えてくる。 「ころさないで、ころさないで、ころさないでください!ぼくのにいさんなんだ!ころさないで!!」 二、三回咳をして、雪男は燐を必死に止めようと縋りつきぐいぐいと足を引っ張る。 子供の力なんて燐にとっては簡単に振り払える。しかも雪男は病弱で力も弱い。 だがそれでも振り払う事はできなかった。 燐は雪男の姿を見て、そして次に怯える小さな燐の姿を見た。 そしてとうとう力を抜き、腕を下ろしたのだ。 雪男はそれを見ると小さな燐に飛びついた。「にいさんにいさん」と泣きながら何度も呼んで小さな燐の血を止めようとする。 燐はその光景をただ見つめた。そして口を開いて何かを言おうとする。 こいつはお前を不幸にする。 こいつのせいでお前は悪魔が視えるのだから。 こいつのせいでお前は悪魔と関わらないといけなくなるのだから。 こいつは周りに不幸しか呼ばないのだから。 面倒くさいぞ、苦労するぞ、不幸になるぞ。 そう訴えかけようとしても言葉は出なかった。出るのは全部目に見えない言葉の空気だけだ。 お互い縋りつくようにする二人に燐は目を逸らし、また溢れだした血を拭ってその場から去って行った。正面から出て行こうとすると、獅郎が丁度帰ってきたところだったから裏口から出て行った。 そして聞こえた獅郎が呼ぶ二人の名前。それは悲鳴にも近いものだった。 燐は激しい雨の中、一人でゆっくりと歩いて行った。 何のために自分はこんな所まで来たのだろうかと燐は考え始める。 燐は自分を殺すためにわざわざこんな場所まで来たのだ。なのにこの結果はなんだと言いたくなる。 ただ子供を怯えさせて終わっただけだ。 あいつはまだ生きている、死んでいない。 ならば今の自分を殺すしかないのかと剣を見た。血に濡れていた筈の剣は雨のおかげですっかりと落ちてしまっている。 だがそれも出来なかった。 「おかえりなさい、奥村君」 「…メフィスト」 メフィストは丸いピンク色の傘を燐の上に差した。もう自分はとっくに濡れているから意味なんてないのにとメフィストを見る。 一人分しかない小さな傘は燐の上だけで、メフィストの上には差されていない。 「お前が使えよ」 「貴方が受け取ってくれたら、私も差しますよ。いくら貴方が馬鹿だからと言って、風邪を引かない訳じゃないでしょう?」 「………」 燐は渋々その傘を受け取ると、メフィストもどこから出したのか同じ傘を差した。 「さてさて、結果は…聞かなくとも分かりますね」 「…あいつに殺さないでって、言われちまった」 「おやおや、兄想いのいい弟さんじゃありませんか」 「あんな目で、声で、しがみ付かれて言われたら…できねえよ」 まるでそれは今にも燐を殺そうとする自分にも言われているようだった。それが切なくて悲しくて嬉しい。 「それならば、次はどこへ行きます?貴方が出産される前にでも行きますか?腹を蹴れば簡単に死にますよ」 「…ダメだ。一緒に生まれる雪男まで死んじまう」 「ならば、今ここで自殺しますか?」 「………出来るわけねえだろ」 そうだ、出来るはずがないのだ。 「今の俺が死んだら…あいつはあいつのまま生きるんだから」 雪男は燐を愛していた。 燐も雪男を愛していた。 今ここで高校生の燐が死んだら、高校生の雪男は酷く悲しむだろう。 だから死ぬならなるべく子供の頃が良い。 まだお互い恋や愛なんて自覚できていない、無垢でまっさらな子供の頃。 そうすれば恋愛感情なんて気づかないまま、小さな兄が亡くなった悲しみだけで済む。 それに獅郎だってあのまま生きているはずだから、一人ぼっちにはならないだろう。 だがそれも失敗に終わってしまったのだ。 「…違う、全部…いいわけだ」 実を言うと燐は死にたくなかった。 まだまだ友人と遊びたいし、嫌だが一緒に勉強だってしたい。 学校だってまだ行きたいし、食べたい物や食べさせてやりたい物もある。 行きたい場所もやりたい事もまだまだたくさんあった。 燐は生きたかった。 「くそっ…!」 掌からは傘が落ち、またずぶ濡れになる。だがそんなこと気にもせず、構わずその場にしゃがみ込んだ。 目頭がじわりと熱くなり、何よりも一番大切な人が瞼の裏に映し出された。 「雪男に会いてぇ……」 絞り出した声は激しい雨の中、かき消されるように細く小さかったのでメフィストに聞こえたかどうかは分からない。 メフィストは燐が落とした傘を拾い上げ、また燐の上に差した。 「さあ、奥村君…帰りましょうか」 「あっ、懐かしい」 一緒のベットで眠りにつこうとしていたら、燐の髪を弄っていた雪男が声を上げた。 「ん〜?」 半分眠りかけていた燐は目をしょぼしょぼさせながらも瞼を押し上げた。 「コレ、頭の怪我」 「…ああ」 それかと燐もそこに触れた。 あの日から、燐の頭の傷はハッキリと残りそこだけ一部分ハゲていた。 「ハゲてるね」 「うっせー。仕方ねえだろ、それは」 もぞもぞと布団の中で動き、雪男の胴体に腕を回した。 心臓の音が聴こえてなんだかほっとする。 「僕を部屋から引きずり出して、兄さんの頭を殴ったんだ」 「…覚えてねえ」 「どうして兄さんだけだったんだろ?順番的には扉を開けた僕だと思うんだけど」 「さあな」 「しかもわざわざ硝子を割って神父さんを追い出すなんていう計画的犯行」 「ふーん…」 「兄さん、本当は何か知ってるんじゃないの?」 その言葉に燐は重い瞼を擦った。 「雪男、もう寝ろ」 軽く口づけをして、眠るように促した。それで何も言えなくなったのか雪男はそれ以上何も聞いてはこなかった。 だが燐はどうしても聞きたいことができ、雪男の足を足の先で突く。 「なあ…俺が殺されそうになったらどうする?」 「殺される前にそいつを殴って縛って吊るす」 「恐ろしい奴だな」 「生きてるだけ有難いと思ってほしいよ」 やはりなんとも恐ろしい弟だと燐は思った。そして「そうか」とただ返事をする。 だけどそれはここまで自分が愛されているという事なのだろう。 「ぼくのにいさんをころさないでーって、助けてくれんのかよ」 「…嘘つき、忘れたなんて言って」 「さっきまではな」 これも嘘なのだけど。燐はまた寝返りを打ってベッドの天井を見上げた。 「そう言って止めるなら、その犯人ももうやらねえんじゃねえの?」 「…兄さん、やっぱり何か「おやすみ雪男」 雪男が言い終える前に燐は眠りにつこうとする。不服そうにする雪男の気配を感じながら燐は瞼を閉じた。 「…おやすみ、兄さん。あの時死ななくて本当によかったよ」 そう言って頬にキスをされた。兄に銃を向けて死んでくれなんて言った奴がよくそんな事を言えると思ったが、そのキスだけで全部どうでもよくなった。 苦しめることも、苦労させることも、迷惑を掛けることも、全部どうでも良くなってしまった。 だって生きているのだから。 燐は傷痕に触れる。それは悪魔でも治せない、もう二度と治らない傷痕だった。 よかったのだ、これでよかったのだ。そう何度も心の中で呟いて。 ほんの少しだけ泣いて、燐は眠りについた。 愛 し い 傷 痕 2011/07/24 top |