序1



生温い夏の夜風が、沖から潮の匂いを運んでくる。漁(いさ)りの火が灯らない都会の海は、まるで実体のある闇のように、不気味にうねっていた。

時刻は午前二時、草木も眠る丑三つ時。街灯の無機質なLED光が道を照らすだけの、人の気配に乏しい臨海部。そこから首都高へと伸びる幹線道路の傍らに、暗色のセダンが一台、ぽつりと停まっていた。


「ったく、待てど暮らせど奴ら来ねぇじゃないか。上の奴ら、ガセネタでも掴まされたんじゃないか」


なぁ、と、セダンの傍らに寄り添うようにして立っていた男が車内に声をかける。それに応じるように、ハンドルにしがみつくようにして運転席に蹲っていた小柄な影が、僅かに頭を揺らした。
あまり調子がよいとは言えないその姿に眉を潜め、男は胸のポケットを漁る。「ほれ、食っとけ」ひしゃげた煙草の箱と一緒に引っ張り出したハードミントのガムを車内に投げ入れ、自分は煙草を銜えた。

酷く閑かな夜であった。背後の高架を時折トラックが通り過ぎる他は何の音もしない。男の煙草が短くなる微かな音すら耳に響く程に、辺りは無音であった。
今日は外れか。車外の男がそう判断して助手席の扉に手を掛けた、その時。
ハンドルに凭れ掛かっていた細い肩が、ぴくりと跳ねた。


「来た」


車内の影はネコ科の獣の敏捷さで身を起こし、夜陰を嗅ぎ分けるかのように顔を上げた。


「御子柴さん、乗って!!」


助手席のドアを開け放って叫ぶ。緊張を漲らせたその声に修羅場の予感をおぼえて、男――御子柴は座席に滑り込む。バン!と音を立てて扉が閉められるのと、無線に入電があったのはほぼ同時だった。


『本部より各局へ!!マル被車両の一部が封鎖を突破!!数台が臨海方面へ逃走!!至急応援を要請する!!繰り返す、本部より各局へ・・・・・・』

「南湾13より本部へ!!当該車両の車種は!?」


ひったくるように無線をとって御子柴が怒鳴る。その声にエンジンの目覚める低い唸り声が重なった。


『本部より南湾13へ、当該車両は大型2輪3台、うち二台は捕捉した!!残る一台、赤のハーレーが南湾管内に入った模様!!確保願います!!』

「「了解!!」」


示し合わせた訳でもないのに、返事はきれいに揃っていた。全開にされた窓から御子柴が身を乗り出して屋根に赤色灯を設置する。


「御子柴・西東、これより現着します!!」


御子柴が無線に向かって叫ぶと同時に、運転席の人物がアクセルを踏み込んだ。ヘッドライトのLEDが闇を切り裂き、赤色灯のサイレンが静寂を砕く。飢えた獣の獰猛さで鋼鉄四駆の獣は夜に吼え、ソリッドタイヤの四肢で闇に駆けていった。


*****


「はい、もうこんなことしちゃ駄目ですよー」


慣れた手つきで書類に必要事項を書き入れると、京は白い指先でパン、とクリップボードを弾いた。その鋭い音に、パトカーの後部座席に押し込めれた少年達の肩がびくりと跳ね上がる。一様に薄い色に髪を染め、耳朶にピアスを開けたいかにもな不良少年達は何故か皆、ドアの両脇を固める屈強な警官達よりも、どこにでもいそうな婦警である京に怯えていた。



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