キスしないと出られない部屋
長かったようで短い、紆余曲折を経て晴れて碧子は東と付き合うことなった。周りからの反応はようやくかというようなものが多かった。一方で誰よりも碧子の恋路を応援し、またシスコン故の複雑な感情を持ち合わせていた緋子は、それはもう大変だった。整理のつかない感情がまま涙を流す緋子をなだめたことは佐鳥にとってはまだ新しく、あまりに泣き止まない彼女にどうしたらいいかわからず最終的には彼も泣くという大きな二次被害も忘れてはならない。
付き合ってからふたりの関係は特別変わらなかった。もともと東は公私混同しない。碧子も本部に通いつめ、東を見かけるたびに彼のもとへ突撃したが付き合う前よりもずいぶん落ち着いた態度で彼に接していた。
ふたりが付き合う上でのいくつか約束事を決めていた。
相手はまだ義務教育を終えたばかりの高校生とあらば、その内容はだいたい決まっている。東が提示する約束に碧子はひとつも文句を言うことなく頷いた。
本当にいままでと何も変わらぬ関係が続く。
が、
○
「『キスをしないと出られない部屋』とは」
東は思考を放棄し、扉に書かれた紙を精密機械のように淡々と一文字一文字正確に読み上げた。その傍らで碧子が死んだ魚のような濁った目で同じく貼り紙を見ていた。
戦場で思考をやめることは死と同義である。もしここがそうであったならふたりの命はなかっただろう。しかしここは戦場ではない。
『そうです! ここはキスをしないと出られない部屋です!!』
何もない白く広い空間は間違いなく本部の訓練室であった。
そして天の声であると驕るのは緋子のもの。その声に碧子の目はますます色味を失う。
返ってくる声があるとわかった東は湧き出る感情を抑え、極力いつもの穏やかな声で緋子に状況と目的を問うた。答えはさきほどと変わらない。ふたりはキスをしなければ出られない部屋に閉じ込められた。目的は、
『いくらふたりで決めた約束事があるとはいえ、あまりにカラッカラな関係はどうかと思うんですよ!!』
清い交際。年齢差的に当然ではあるが、端から見ているとあまりに何もなさすぎて逆に心配になっていた。碧子は東の近くにいられるそれだけで十分だったのだが、姉はそうもいかなかった。
『まあ本当に貼り紙通りのことをすればすんなり空くので』
「いやそういうことじゃないだろう」
「あ、人目は気にしないでください。お邪魔虫はこのあとすぐ出て行きますし、この一帯は封鎖されてるのでほかの誰かに目撃されることもありませんよ!」
「そういうことでもなく、」
『判定はトリオン体の感度センサーで反応するのでそのあたりもご心配なく〜』
そして制限時間は20分で、それまでに出なければ封鎖は解かれ、それこそさらし者にされてしまうという。
では! とぶちっと乱暴にアナウンスが途絶えた。
沈黙。ため息。また沈黙。
東は最初碧子の仕業だと思ったが、貼り紙を見たときの彼女をみてそれは違うと瞬時に悟った。そうでなくともこの状況に好機と言わんばかりのポジティブな感情が浮かぶだろうと注視してみたが、それもまた違った。むしろ青ざめた顔をしていた。
「あ、ずまさん」
ぎこちなく碧子の視線が東に向く。青い顔にハスキーな声はさらに掠れ、どうしましょうとその目は訴えていた。幼子が親にすがるような目に似ていた。その一方で別のベクトルからきゅっと東の心臓が縮んだ。
「ごめ、ごめんなさい。うちの愚姉が……」
「いや、碧子ちゃんが謝る必要はないさ」
「でもでも」
口元を押さえてどんどん覚束なくなっていく碧子に東は背中を撫でて落ち着かせる。そのときふと彼女の小ささに驚いた。そして触れた体温は偽物の体であろうとどこか冷たい。
「大丈夫だ」
「だいじょうぶって、何がですか。なにがだいじょうぶなんですか。だって、こんな、こんな東さんとのやくそくをやぶるようなことが出る条件でなにがだいじょうぶなんですか」
いままでこっそり手をつないだりなどはあってもキスなど以ての外であった。どこの少女漫画だ、清すぎて笑いが出るようなことしかしてこなかったふたり。碧子はそれでよかったし、東も不満もなかった。というのは少し嘘で。東は碧子への好意を自覚し、付き合うようになってからは――当然表には出していなかったが――自分の方から碧子に触れてみたかった願望がささやかに芽生えていた。
「確かにふたりで決めた約束はあるが、なにもそんな重く受け止めなくても。あけすけな言い方になってしまうが、一線超えてしまうわけでもない。それに唇と条件付けられていない」
ささやかな願い。
「まってください、ほんとうにまってください」
あの、あの、とどもる碧子はいつの間にか首まで真っ赤に染めて東から目を背けている。いままでのあのアグレッシブさはどこへ行ったのか今にも湯気が出そうだ。逆に押すと弱いらしい。
それがまた東をたまらない気持ちにさせ、俯いて顔を覆うとともにため息が汚れを知らぬような真っ白い床に落ちた。ため息をネガティブなほうで捉えたのか、碧子はやっぱりごめんなさいと謝る。関係性の名前が変わっただけでほかはなにも変わらないと思っていたが、実のところこうも変わってしまうものなのか。碧子も。東も。
「そんなに嫌か?」
思わずそんなことを口走った。その瞬間、東はその言葉をなかったものにしたかったが、偽らざる自分の本音であった。自覚はしたくなかったが。
碧子はぐるんっと東に視線を戻したがすぐに右往左往と一点に落ち着かない。答えもしない。
意地が悪い。
この部屋に閉じ込められてまだ数分だが、その短時間で東はいままで知らなかった彼女へのさまざまな想いを知ってしまった。
碧子が東の問いに答える。
「やなわけないじゃないですか」
「じゃあなにも問題はない」
こういうとき、大切なのは勢いだ。
「まままま、まってくださいまだ心の準備がっ」
両手を振りながらいじらしくぎゅうっと目を瞑った碧子に東はまだ小さくなだらかで可愛らしい鼻先にそっと静かに触れた。
ぷしゅぅとふたつの音がした。
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