平和に欠ける日常

 空を泳ぐ鮮やかな色の金魚のようや紅葉が陰気な雨に撃ち落とされる。その様子をずっと見ていた。一応ノートは取っていたが、教鞭を振るう教師の声はほとんど雨音にかき消され、たまに名指しされる。いつものように隣の奥寺に答えを教えてもらい、それを復唱する。午後の授業中五回は当てられたと思う。

「伊鈴、大丈夫かよ」
 
 放課後、帰り際に奥寺が声をかけてくれた。帰り支度を済ませた鞄に顔を埋めていたので、そのままポケットから携帯を取り出し、画面を見ることなく『大丈夫じゃない』と打って答える。

「仕方ないだろ、東さんだって一応学生なんだから」
 
 こんなにも沈んでいる原因を彼は知っている。
 
『でもかれこれ五日も顔見れないのはしんどい』と打ち込む。画面も見ずに打つのを見て「器用だな」と原因による呆れと感心が半々。
 忘れられがちだが、あの人は院生であり、括りとしては立派な学生なのだ。研究はボーダーと大学が提携してトリオンについて。一方で少なからず普通の院生として最低限のレポートや講義もあるらしい。そしてこの際、煩わしいものはまとめて片付けてしまおうと一週間ほど休暇を申請した。防衛任務には出るが、ほぼ現地集合、現地解散という形を取っているため、防衛任務のシフトが被ってなければまずお目にかかれない。
 
『むしろ五日耐えたこと褒めて欲しい』
「……まあ、お前にしては我慢した方だと思うよ」
 
 会いたいなぁ。会えなくてもいいからひと目だけでもあの人の姿が見たい。いままでだってあの人の顔が見れない日が続いたこともあったけど、いまほど重症ではなかったはず。雨の音がやけにうるさく聞こえるし、それが余計に気持ちを沈ませる。あの人のやさしい声が恋しい。
 いつになく落ち込んでるクラスメイトに奥寺は、そういえばと最近二人の間であったことを思い出した。
 
「確かこの間東さんと連絡先交換してなかったか?」
 
 小荒井が東と隊を組みたいと粘りに粘ったときと同じぐらい、いやそれ以上のしつこさで碧子は彼にメッセージアプリの連絡先の交換を申し出続けていた。一度トリガーを握れば、冷酷無比に敵を屠るある種の兵器と例えられる東もちゃんと血の通った人間だ。むしろお人好しがすぎるほどで、純粋な好意ほど彼の弱点はない。結局小荒井の二の舞、碧子の粘り勝ちで二人は連絡先を交換した。
 直接会えなくても声が聞けなくても今はそういったコミュニケーションが取れるのだからと奥寺は思っていたが、伏せっていた碧子がその体勢のままびくりと飛び上がった。
 
「どうした?」
 
 携帯を打ち込む指すら止まる。
 もしかしていつもと同じように詰め寄りすぎてブロックでもされたか。数秒後、かこかことメモ帳画面が切り替わった。奥寺は驚く。
 表示されたのは例のメッセージアプリのトーク画面。しかしそこは秋晴れよろしく真っ青な画面が広がっていた。
 
「なんもしゃべってないのかよ!?」
 
 普段あんなにもぐいぐい行ってるのに、メモ帳での会話もほとんどタイムラグなくこなしてみせるのに呆気にとられた。
 
『対面とじゃ違うの!!』
 
 またメモ帳画面に戻り、返ってきた言葉はどこか泣きそうなものに聞こえた。
 
「なんのための交換だよ……」
『自分でもそう思う』
「交換だけして満足したわけじゃないよな?」
『もち』
「じゃあなんで」
『どう切り出せばいいかわかんない』
「嘘だろ。お前ほんとにあの伊鈴かよ」
『……うるさい』
 
 ぐずぐずと机そのものが泣いているようだ。それから『表情が見えないのが怖い』『あと下手に喋ってブロックされるのも怖い』と続く。言わんとしていることはよくわかるが、リアルと画面越しのセーブの仕方が極端すぎる。足して二で割ったぐらいがちょうど良さそうだが、奥寺は空気が読めるので口にはしなかった。
 
『……龍之介先輩のヘタレが移ったのかもしれない』
「あ……」
 
 彼女と同じ隊のイケメンを思い浮かべる。碧子と同じ片想いを拗らせているが、その方向性は真逆だった。とにかくヘタレ。一にヘタレ、二にヘタレ、三四もヘタレの五もヘタレを擬人化したようなというのがほとんどのボーダー隊員の共通認識である。彼の場合、片想いと言うより崇拝に近い感情だが、拗らせていることに違いはない。
 
「話題なんてなんでもいいだろ。小荒井なんかよく誤爆するけど、東さんそのたびにノリノリでいじってるぞ」
『はいはい身内芸ありがとうございます』
 
 このあと奥寺がいくら励ましても碧子が顔をあげることはなかった。
 奥寺は同じクラスの好で彼女の相談に乗る──一方的に聞く──ことが多い。それを彼女をよく知る周りからは大変だなと言われるが、隊長の褒め言葉を聞くことを彼は一度も苦に思ったことはない。むしろくすぐったい温かさを感じる。

「お、やっぱ沈んでるな伊鈴」
「小荒井」
 
 がらがらと教室の扉が開く。
 両手を頭に添えて面白がってる小荒井とそれを窘める笹森。
 笹森は防衛任務、小荒井は奥寺との連携の精度を高めるため共に本部へ行く約束をしていた。しかしなかなか姿を見せない奥寺に「こりゃ伊鈴に捕まってるな」と事情をよく知っている小荒井に従って来てみれば、案の定であった。
 奥寺が軽く説明すると、二人は彼と同じような反応を示した。
 
「大丈夫だって。東さんがそんな人じゃないってのは伊鈴がよくわかってるだろ?」
 
 唯一関係者ではない笹森の言葉に碧子はのろのろとした手つきだったが、『……うん』とようやく前向きな返事をした。
 
「あ、おい見ろよあれ!」
 
 ずっと降り続いていた雨が止んでいた。灰色の縁に縁取られた青地のキャンバスに斜めにかかる虹。最近の煙った青空とは違い、透明度が高く、色鮮やかな虹をいっそう際立たせ、見るものに清々しさと感動を与えた。
 三人の感嘆の声につられ碧子も顔を上げると、ねっとりと粘りの強い泥濘の中を這っていた彼女の心に光と色が差す。
「ああ! まさにこれじゃん!」と小荒井がパンッと鋭く手を打つ。
 

 
「じゃ! いい報告待ってるぜ伊鈴!!」
「色々気持ちはわかるけど、邪推したり悪い方向ばっか考えるなよ」
 
 激励の言葉をかけて小荒井たちが出ていくのを碧子は嬉しくも心細い表情でふらふらと手を振って見送った。途中まで一緒にと笹森は誘ったが、碧子は首を横に振った。教室にはもう碧子ひとりだけ。
 空は溜まった水たまりは落ちる夕陽とイチョウの色も相まっててらてらとした黄金色が眩しい。あの青空の面影はもうなかった。
 小荒井の作戦は見事なものだった。ランク戦ではそのとき思いついた突拍子のない作戦を思いついてはその杜撰さを奥寺と人見にことごとく返り討ちにあう。しかし今回ばかりは奥寺も絶賛。
 準備はとうに出来ている。でも心はちっとも落ち着いてくれない。教室の秒針よりも早く脈打つ心臓がうるさい。
 
 早く。早くしないと。
 
 虹はとうに消えてしまっている。秋のどこか侘しい橙色のなか、画像の送信確認画面だけがどこまでも青く、さらに煌々と虹がいっそう色彩を豊かに見せる。
 すっと息を短く吸い、水中へ潜るようにぎゅっと固く目を閉じそのまま呼吸を止めた。責め立てるような息苦しさに身を任せて送信ボタンを押した。そのまますぐさまメッセージも打ちこんだ。ぽこんぽこんと送信音が泡のように弾ける。はっと息を吸い込んだとき、またぽこんと音が弾けた。
 
 ひゅっと息が止まった。

 たったいま上げた画像と悩みに悩んだひとこと、『幸せのおすそわけです』の横には既読の二文字。そしてその下には白い吹き出し。横に並んだ数字の差はわずか。
 さっきとはまったく違った息苦しさが襲う。ぎゅうと捻じ切れそうな胸。体温の急上昇に顔が熱くて熱くてたまらない。そしてすべての熱は目に集束し、あっと思った時にはもう嬉し涙がぼとぼととこぼれ落ちていた。
 好きな人と違う場所で同じ空を同じ時間に見て感動、なんてありふれたフィクションがこんなにも破壊力があるなんて思ってもみなかった。
「……ずるい」と再び机に崩れ落ちる。

『ありがとう。お礼に俺からも幸せのおすそわけだ』
 
 雨上がりの虹の写真。白い研究棟や竹ほうきのようになった広葉樹が写真の底辺に映り込んでいた。
 碧子が見たのと同じ虹だ。


 
 研究経過の記載ミスなど、だいぶ参ってきたところで気分転換として久しぶりに外に出ると、灰色雲の青い隙間に虹を見た。モノトーンで統一された研究室から出たきたばかりの俺には鮮やかすぎて目が眩みそうだ。だが、ずっと雨続きだった三門の空に架かるそれに、思うように進めない研究の圧迫感や緊張感が少し和らいだ気がした。
 ぱしゃりとシャッターを切った。
 見たそのものにはほど遠いが、鮮やかな虹が小さな画面にしっかりと写りこんでいる。
 しかしふと我に返る。雨上がりの虹に思わず写真を撮ったはいいものの、いい大人が何をしているんだろうと謎の虚無感に襲われた。
 気分転換のためだったが、あの味気ない研究室へ戻る足は出てきた時とあまり変わらなかった。
 

 
 それでも外の空気は幾分脳の換気に役立った。少なくともさっきよりかは作業が進む。進むが、どうしてか満たされない。ボーダーを離れてからずっと何か物足りなさを感じていた。俺も人並みに、誰が人恋しいと思う心があったのかと防衛任務で奥寺たちと顔を合わせれば、そんなこともないだろう。
 と、たかをくくっていたが、現実は悪化の一途を辿っている。
 確かに奥寺や小荒井のまだ中学生らしさが残るやり取りと、それに呆れながらちゃんと付き合う人見たちと一緒にいると、心が落ち着く。帰る場所がたとえ限りなく戦場に近い場所であっても俺の居場所はここなんだと思える。
 心は落ち着いても満たされなかった。何かが欠落している。ジグソーパズルでいう、あと1枚で完成だと言うのにかけたピースが見つからない。
 もどかしさがどんどん肥大していけば、していくほど何が足りないのかわからなくなっていく。
 気がつくと手はぴたりと止まっており、じわりと黒い染みが広がっていた。書き損じがいっそう疲れに追い打ちを掛けてくる。項垂れて落ちてくる髪と一緒に額に手を当てたそのとき机に放っていた携帯の小さな地震に過剰に反応してしまった。
 ボーダー支給のものではない。さきほど虹を収めたプライベート用のものだった。前者ならよく通知が来るが、後者はほとんどあちら側の最低限の人間としか繋がっていない。
 虚ろな手つきでロックを解除すると、出た表示に驚いた。

 伊鈴碧子から新着メッセージ2件があります。
 
 そういえば、と以前連絡先を交換していたことを思い出した。
 交換した頃は、放置しがちなこちらは彼女の通知で溢れかえるんだろうな。いつも本部で会う彼女の好意を受けていれば、当然だと思っていた。しかし携帯は今日までひとつも鳴らなかった。
 ふたつの意味で驚き、メッセージアプリを開いて、小さく短い息を吐き出し笑ってしまった。
 
「あれからどれだけ経ってると思ってるんだよ」
 
 送られてきたのはもうとっくに消えたであろう虹の画像だった。そしてあの俺と隔てる壁を突き破って「好きです!!」と憚らない彼女と正反対な控えめなメッセージ。虹どころか夕暮れも近いだろうに。このタイムラグの長さがなんともいじらしく思えた。
 
「普通対面のほうが緊張するものなのにな」
 
 あべこべな行動にやはり笑いが止まらず、そのまま返信。日の目を見ることなくちっぽけなデータとして埋もれていくはずの写真も一緒に。
 
「さて、どんな反応が返ってくるか」



今日のあずあお
虹が出ていたので思わず写真を撮って送りつける。すぐに既読がついて「こっちからも見えた」と虹の写真が送り返されてくる。
#今日の二人はなにしてる
https://shindanmaker.com/831289
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