その目は君だけを見ている

 千莉が三輪の背中を追ってボーダーに入ってしばらく。ちょうど訓練生のC級から正規隊員のB級へ上がろうとしていたときに千莉は東に声をかけられた。
 今のような3桁の隊員を擁する大きな組織ではなかった、まだ出来てさほど経っていない当時のボーダーは、B級以上はもちろん、訓練生も少なく、当然彼らをサポートしてくれるような嵐山隊もいない。
 そんな人手不足な中で狙撃手というポジションを構わず、頼れる大人の一人として東がいた。基本的に狙撃術を教えていたが、彼は狙撃場から出て模擬戦のラウンジにたびたび顔を出しては、階級ポジション分け隔てなくアドバイスや相談に乗っていた。ラウンジの人だかりの中心にはだいたい彼がいる。千莉は直接彼に話しかけに行ったことはないが、おそらく訓練生全員の名前と顔、ポジションを記憶しているのか、「志賀、さっきの試合であえて一歩踏み込んだのは良かった」などと声をかけてもらえることはあった。
 特記するほどの関係でもないのに「志賀、ちょっと話があるだが、今大丈夫か?」と言われたときは驚き、「志賀」がまるで自分の名字じゃないように思えた。
 驚きはしたが、特に断る理由もなかったので千莉は「はい」と頷き、彼のあとに続いた。てっきり食堂で話をするものだと思い込んでいたが、そちらとは正反対のほうへ進む。いくつか階段を上がってたどり着いたのは訓練生の千莉には到底立ち入れないA級部隊の隊室がずらりと並ぶフロアだった。
 それに気づいたとき千莉は自分の知らぬ間に何かとんでもないことをやらかしたのではないかという気持ちで一杯になり、東の後ろを一歩進むたびに心臓が早く脈打つ。

「ちょっと込み入った話しになるだろうから」

 そう言って東は何だか申し訳なさそうな表情で、自分の苗字がつく隊室の扉を開けた。この時点ですっかりガチガチになった体をどうにか動かし、扉の前で一礼してから千莉は入る。
 室内には誰もおらず、応接間のようなスペース以外に明かりはついていなかった。それから東はソファに座るように言ってA級特権の給湯室へさっさと姿を消した。千莉の頭の中に僅かに残る理性が先に座っていいものか迷ったが、言われた通りそっと座った。
 しばらくして両手に白いカップを持って東が戻ってくる。

「悪いな、いまコーヒーとココアしかないんだが、どっちがいい?」
「コ、コーヒーでお願いします」

 本当は飲めやしないのについ反射的に背伸びをしてコーヒーと言ってしまった千莉は自分を呪った。しかし今更変えてくださいと言い出すこともできず、諦めたようにカップを受け取った。
 千莉から要件を聞こうとしたが、東がそれより先にココアを飲み始めたので千莉もそれに従った。口に入れて気づいたが、ブラックだと思っていたコーヒーはミルクと砂糖がたっぷり入った子供向けの味で、きっと千莉が見栄を張ってコーヒーを選ぶことを予想してのことだろう。結局どちらを選んでも大差はなかった。
 大人の東さんがココアを飲むってなかなかない場面だよなあと頭のどこかで思いつつ、甘いコーヒーを味わう。
 優しいその味は千莉の緊張を解すのに効果は抜群で、「ほう」あからさまに力が抜けた様に、

「そんなに固くならなくても取って食いはしないさ、と言ってもこの状況じゃ誰だって緊張するよな」

 東は軽く肩を震わせて笑った。千莉にとって東は雲の上のような人だ。彼がボーダーへの貢献は枚挙にいとまがなく、その輝かしい功績を鼻にかけることは決してしない。元A級1位に上り詰めた後、今は隊員育成を主にしている。その部隊も今ではA級を不動とするほど成長した。

「志賀は、確か秀次と幼馴染だったよな?」
「あ、はい。小学校上がる前からの付き合いです」

 自分の失態のことかと思えば、東の口から出てきたのは長い付き合いになる三輪のことだった。そこでなんとなく自分が呼び出された理由を察した。
 東はそのまま次の話に繋げようとしたが、千莉が「もしかして、東隊解散にも繋がる話ですか?」と先に口を開いた。

 現東隊の解散。

 それはまだ訓練生のC級隊員の間まで広まっている噂だった。出処は不明だが、他A級からB級、そしてC級まで、解散の原因がああだのこうだのと余計な尾ひれが付いているが、おそらくボーダーに所属するものなら誰もが一度は聞いた話である。千莉も直接所属する三輪から聞いたわけではないが、その噂は知っていた。

「話が早くて助かるよ。俺が教えられることはすべて教えた。あとは各々隊を持って成長すべきだと判断し、忍田本部長や城戸指令にも了承を得て近々正式に解散が発表がされるだろう。それで3人には新しく自分の部隊を編成させるわけだが――」

 ここで東がもっとも千莉に伝えたいことがあったのだが、かたんとローテーブルにカップを置く音とほぼ同時に突然立ち上がった彼女に東は出かかっていた言葉がひゅっと音を立てて引っ込んだ。
 そしてそのまま普段三輪から聞く破天荒な彼女とは思えないほど、両手をぴったりと体の横につけて、直角と見紛うほど綺麗なお辞儀に圧倒される。

「すみません、いくら東さんのお願いであっても自分は秀次の隊には入りません」

 そのままの姿勢で千莉が芯の通った強い声で言った。

 予想だにしなかった展開にさすがの東も動揺するが、とりあえず今の姿勢で話を続けるのは心苦しいものがあったのでとりあえず着席を促した。言われた通り千莉はまたソファに座り、東は落ち着けていた腰を動かして浅く座り直し、膝の上で指を組みながら「どうしてそう思った?」と問うた。

「秀次はあたしの幼馴染で大切な人です。自分がボーダーに入ったのも秀次が心配で何とか彼の力になりたいと思ったからです。今の東隊が解散して、新たに三輪隊が結成するなら、本当は自分も一隊員として彼を支えたいと思いました。
 でも、ボーダーに入って気づいたんです。今、彼に必要なのは自分じゃない誰かなんだと。今までと同じようにあたしがすぐ近くにいたらきっと秀次は変われない。
 ……これは、自論なんですけど、自分を真に救えるのは自分自身だけだと思うんです。それをサポートしたり、躓いて倒れそうになったとき助けるのが東さんだったり、これからの三輪隊隊員だったり、ここにはそういう優しい人たちがたくさんいます。それは自分がボーダーに入ったことでよくわかりました。
 だからと言ってすべてを周りに託すわけではないです。もし彼が間違った道を進もうとしたとき、三輪隊でもボーダーでもない、ひとりの幼馴染として、彼を止めます。そのためには極力距離を置きたいんです。だからあたしは三輪隊には入れません」

 真っ直ぐに東を見る千莉の目は、話す声は、まだ義務教育を終えていない子供とは思えないほど強い光と確固たる想いを宿していた。「それに――」と少し明るい声で千莉はこう続けた。

「秀次は自分自身に負けるような弱い人間じゃないですから」

 と、ここに来て初めて見せる笑顔で締めくくった。
 今まで黙って聞いていた東はそのままの姿勢のまま、表情を隠すように組んでいた両手に額を乗せた。
 そこでようやく千莉はもしや何か失礼なことを言ったのではないかと部屋に入ったとき以上に体温は下がり、顔は蒼白に染まった。なにか、なにか言わなければと思う彼女だったが、さっきはあんなにスラスラと言えたのに、その反動が今来たのか上手いこと言葉が出てこない。
 すると、どこからか息を殺すような笑い声が聞こえてきた。この部屋には千莉と東しかいない。心霊系が苦手な千莉は益々体が凍りつくような感覚を覚える。その笑い声は次第に大きくなったかと思えば、いつの間にか東がお腹を抱えながら笑っていた。不気味な声の正体は彼だった。
 心霊の類ではないと安心したのも束の間、急に笑いだした東に千莉の状態異常に恐怖の上に混乱が追加される。
 東が落ち着くまで実際は数秒にも満たない時間だったが、千莉にはとてつもなく長く感じた。
 目尻に溜まった笑い涙をぬぐいつつ、東は「すまない。志賀の話を馬鹿にして笑ったんじゃないんだ」と言った。仕切り直すようにココアを一口飲んで、その中身を見ながら今度は東が染み染みと話し出す。

「本当最近の子はしっかりしてるなぁ。中学生だった俺よりもしっかりしてるよ。秀次は志賀のことを馬鹿だとか子供っぽいと言うが、俺にはそうは思わない。むしろ志賀のほうがずっと大人かもしれないな。俺が言いたかったことをまるで先読みしたように全部言われたし、これじゃあただのお節介なおじさんだな」
「東さん何言ってるんですか! まだ20代前半じゃないですか!?」

 それに対して東は、年齢は関係ないと笑い飛ばす。

「話を戻すが、俺が志賀と話したかったのは三輪隊結成に関することだ。お前には秀次から誘われても断ってほしいと頼む話だったんだが……今の話を聞いて俺がわざわざ口を挟む必要はなかったみたいだ。
 志賀の言う通り、ここには沢山の人間がいる。これからさらに秀次は良くも悪くも色んな刺激を受けるだろう。それを“正しい”というのは傲慢かもしれないが、人としてちゃんと胸を張って歩けるような道へ進ませたい。そのために俺はもちろん、同じ隊の好で二宮や加古、米屋たちが全力でサポートしよう。だが、もし秀次が俺たちの手が届かないところへ行ってしまいそうなときは志賀、お前が止めろ。ほかでもないお前が秀次を止めてくれ」

 「頼む」と東は静かに頭を下げた。それを千莉はぐっと手に力を込めてまた立ち上がった。

「もちろんです! 秀次のことはあたしに任せてください!」

 どんっと自分の胸を鳴らす。それを見て東は「ありがとうな」と立ち上がってわしゃわしゃと祖父が孫にするような優しさで頭を撫でた。

 この数年後、無事結ばれたとき、三輪は「お前が入隊を断ったとき、お前に見放されたんじゃないかと思った」と告白し、「秀次は馬鹿だな! あたしが秀次から目を離す訳無いじゃん!」と千莉は笑うのだった。
|
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -