30


「鉄子ちゃん疲れてない?」

 銀時との合流を目指して船内を走るかの子が後ろにいる鉄子を見て聞く。鍛冶屋は体力勝負でもある。鉄子は多少息を乱しながらも大丈夫だと答えた。

「そういうかの子さんこそ怪我は」

 鉄子の応急処置によってひとまず血は止まった。しかし中途半端に酸化した血の赤黒さは、手当をしたときよりもずっと痛々しく見える。自分を庇ったことによる傷に鉄子はどうみても大丈夫じゃないとわかっていても聞かずにはいられない。

「大丈夫だよ、鉄子ちゃんがそう重く受け止める必要はないよ」

 かの子は顔を前に戻しながらそう答える。もう一度「大丈夫」と言う声は鉄子を励ますというより自身に言い聞かせるようなものだった。ますます鉄子の胸を痛ませる。
 実際かの子は自身が思っていた以上に傷は酷かった。血を流しすぎた顔は時間が経つにつれ、じわじわとかの子の健康的な肌を青白く侵食していく。ところどころ燃えていたり、その中を走っていれば自然と体は暑いと感じるはずなのに逆に冷えてく。

 でもこんなところで立ち止まっていられない。
 弱音を吐いている場合じゃない。

 この二つをずっと心の中で繰り返すことでかの子は体を動かすのをいっさいやめない。そう思うのはいまのかの子の本心だ。しかしどこか別の誰かのもののようにも感じた。その得体の知れない違和感や気持ち悪さを振り切ろうと前を睨み走る。
 軽傷ではすまされないハンデを負いながらもかの子は残党を流れるようになぎ倒し、銀時との合流を目指した。

「あ、そうだ。鉄子ちゃんにお願いがあるんだった」
「……なんだ?」

 かの子のお願いを鉄子は何となく察していた。案の定お願いというのは銀時に彼女の傷について一切言わないことだった。さすがの鉄子もこれには強く異を唱えた。
 すると今まで迷わず走っていたかの子の足がぴたりと止んだ。
「かの子さん……?」と勢い余って転びそうになった身体を正す。

「鉄子ちゃんの気遣いはありがたいよ」

 でも、と振り返ったかの子に鉄子は呼吸が止まる。

「目的を見失っちゃダメだよ」

 無垢で、凪いだ水面のように静かな目が鉄子を映す。そこに他人を脅すような鋭さはまったく感じられない。しかし有無を言わせぬ力がそこにあった。

「鉄子ちゃんはお兄さんを止めるためにここにいるんだよね。自分の命の危険を顧みず来るような鉄子ちゃんは優しいから、うちのことを全部放っておいてなんて出来ないと思う。でも、鉄子ちゃんの目的を、本当の願いを履き違えちゃダメだ」

 かの子の反論にまた反論しかえす言葉を鉄子は欠片も見つけることができなかった。あまりに正論すぎた。

「でも、でも……」

 後が続かなくとも鉄子は素直に飲み込むことをできなかった。自分を庇ったせいでかの子は、と歯を食いしばり、鍛冶で鍛えた筋肉質な両腕に力が入る。

「なんで鉄子ちゃんがそんな傷ついた顔してるんだよう」
「だって……」
「うちはそう簡単に死にゃあしないよ! 鉄子ちゃんの依頼料でプリンたら腹食べてやるんだから! それに、うちにはうちの目的があるから尚更死んでられないよ。だからさ、いまにも泣きそうな顔しないでよ」
「……そういうかの子さんだって」
「馬鹿野郎ゥ、涙ってのは移るもんなんだぜ!!」

 ぱんっと鉄子の頬を両手で挟むように軽く叩くと、「さあ行っくぞー!」と駆け出す。



「銀ちゃーん!!」

 背後からの呼びかけに振り返ると、相変わらず緊張感がかけているかの子が手を振りながらこちらに向かってくる。その後ろにはしっかりと鉄子がついてきていた。ひとまず2人が無事なことに無意識に胸のあたりを握っていた右手が緩んだ。

「はい、銀ちゃん。約束通り鉄子ちゃんの護衛任務みっしょんこんぷりーつ!」
「はいはいごくろーさん」
「ちょっと全然労いの気持ちが伝わらないんだけど……。まいいや」

 妙に聞き分けがいいかの子はぴょこぴょこと鉄子の後ろに回り込むと、何かためらっている背中を押し出す。バランスを崩し、少し前のめりになった鉄子が軽く俺にぶつかった。「うおっ」と声をあげると、押したかの子のやつがにやにやと笑っている。こいつはホントぶれねえな……。

「それじゃ行きますかね」

 敵はこの上にいる。リベンジマッチなんぞに燃える質ではないが、やはりやられっぱなしをスルーする平和な思考を持ち合わせてない。
 いざ、と動き出した時、足音が二つしかないことに気づき、すぐに足が止まった。
 かの子は鉄子の背を押した場所から一歩も動いてなかった。

「おい」
「なに?」

 こてんと首を傾げた。

「銀ちゃん、鉄子ちゃんのことは頼んだよ」

 そういえば、こいつがついてきたのは連れ去られただろう風香を探すためだ。
 瞬きをひとつして「そっちもな」と言い残して俺たちは別れた。
 しばらくして鉄子が俺を呼ぶ。しかし呼んだだけで、「いや何でもない」と続きを飲み込んだ。
 風香のことは心配している。相手は高杉だ。女子供でも容赦はしない。もしとよくない方向に思考が行く。
 だが、風香よりもいま別れたばかりのかの子に危機感を覚えた。
真選組が帰ってきてから何か変だとは思っていた。本人が気づいているかわからないが、合流したときのやつをみて、嫌な予感はほぼ確信に変わってしまった。しかしもう引き返すことはできない。
 できれば、いつものあの底抜けの能天気さで風香を助けて欲しいと思いながら屋根へと続くはしごに足をかけた。



 銀時がかの子の意思を汲み取り、別れた。さりげなく距離をとったり、鉄子を盾にしていたおかげで傷のことには気づいていないようだった。その代わりかの子の自覚のない異変には気づいていたが、銀時はそれを言い損ねてしまった。もしそれを指摘していれば、二人の行く末はまだマシだったかもしれない。
 かの子は来た道を引き返し、分岐で通ってこなかった道に入る。

「思ったより深刻かも……」

 左腕をおさえながら進む。じわりと自分の手から血の温度が伝わり、それはあっという間に肌と同じ冷たさまで落ちる。無理をしすぎている自覚はある。視界が少し霞んできて、動かす手足もだいぶ鈍くなってきた。ずるずると全感覚が衰え始めたとき、瓦礫を踏みにじる音が聞こえた。

「誰」

 自分でも吃驚するほど低い声が出た。かの子の前に現れたのはビジュアル系バンドにいそうな格好の男。背中にはそれとは正反対の三味線が見えた。
 敵意がほとんどない。しかしここは敵地のど真ん中で、少なくとも、というよりどうみても桂の仲間には見えない。どうせならエリザベス2Pカラーのほうがまだ現実味がある。

「そう警戒するな、というのは些か状況が無理でござろう。少なくともいまのお主に危害を加えるつもりはない」
「それじゃいったい何の御用でござろう」

 致命的な左腕を見せまいと半歩後ろにかの子が引くも、万斉は彼女からは明らかに乱れた音と血の匂いですべてお見通しだ。それでもこちらの口調を真似しようとするかの子に宵と同じものを感じ取り、思わず口元が僅かに緩んだ。

「お主が探しているのは千鳥風香という小娘だろう?」
「なん、で」

 目を見開き、そして彼を強く睨みつけた。

 こいつが、こいつが風香を……!

 鉄子を諭したときのあの凪いだ目はない。仇を見る目。引くのは性にあわない。しかしいまの状態で万斉に飛びかかるにはあまりに無謀だ。最初に敵意がないと感じたようにかの子から手を出さなければ、向こうもそれに応じることはなさそうだ。

「風香を知ってるってことは、あんたが風香を攫った犯人?」
「攫ったというなら拙者でござる」
「あの子は、いまどこにいるの」

 万斉は親指で静かに己の後ろを指す。

「この先の通路だ」

 最優先すべきは風香の救出だ。少しずつ万斉に近づき、本当に彼が動かないか見張る。彼は、目元を隠していてもわかる涼しい表情で微動だにしない。ちょうど万斉との距離が3分の1ほどになった頃、悲鳴が聞こえた。

「風香の声だ」

 今まで彼女の悲鳴など聞いたことはなかったが、何故かかの子はそれが風香のものに間違いないと声がした方へ全力で向かう。もう万斉の存在などは頭からとうに消え失せていた。

「しかし、壊したのは拙者ではござらんよ」

 万斉はわざとかの子が去った後に呟いた。
 あの宵でさえ逃げ出してしまった風香を本当に止められるか。

「お手並み拝見といこう」



 ただでさえ狭い船内は瓦礫で通路は進む者を拒む。
 一刻も早く風香を助けなければいう思考に血を流しすぎた体はそれに追いつかない。今もなお危険信号を発するが、かの子はまったく顧みなかった。頭で繰り返される風香の悲鳴がその信号をかき消す。

「風香」

 左肩を擦りつけ、引きずるように狭い通路を歩く後ろ姿。間違えるはずがない。やっぱりここにいたんだ。
 間に合った。昨日見たあの血塗れのハルとは違う。風香から血の臭いはしない。無事だった。あとはこのままここらから逃げるだけだ。
 風香の無事にかの子の緊張が少し緩んだ。同時に見て見ぬふりをしていたダメージがのしかかる。それでも前に進む。もう少しで手が届きそうなところで目の前にパラパラと、

「ぐっ」

 二度目の天井崩壊に力いっぱい地面を蹴り上げて飛んだ。鉄子と同じように庇うつもりが力及ばずに風香を突き飛ばすようにしか落ちてくるがれきから守れなかった。打ち付ける体に顔を歪める。

「……風香、迎えに来たよ」

 ふらつく身体を立ち上げた。青白い顔でも彼女を安心させるためにかの子はいつもどおりの笑みを浮かべ、手を伸ばした。宵の呼び声には答えなかった風香が顔をあげた。

「さあ、」

 帰ろうの言葉は出なかった。
 自分を見る風香の目に、貧血から来るものとは違う、もっとかの子の生命を脅かすような本能的恐怖に体が硬直する。
 虚ろだった風香の目がかの子の姿を映すと、信じられないというように目を丸くして、次の瞬間には救いの手を振り払った。
 ぱんっと乾いた音。じぃんと染みる拒絶の痛み。
 同時にかの子の世界から風香以外のものがすべて切り落とされた。

「嘘、嘘、うそ」
「風香、落ち着いて」

 ひゅっひゅっと風香の呼吸が乱れ出す。
 傷がなくとも彼女はハルと同じように自我を自身の手が届かないどこか遠いところへ置いてきたのだとかの子は静かに悟った。
 
 ならば、

 ならば、置いてきたそれを代わりに自分が拾って返してあげればいい。
 自分にはそれが出来る。だって、無意識とはいえ現にあの暴走したハルを止めることが出来たじゃないか。

 どんどん風香の呼吸が彼女自身を追い詰めていくなか、今すぐ抱きしめて安心させたい気持ちをぎりぎり押さえつけて、相手を落ち着かせるにはまず自分が落ち着かなければならない。目を閉じ、呼吸を意識する。吸う息で全身の痛み、震えを認識し、吐く息でそれを意識外へ送り出す。

 いける。

 凪いだ心にかの子は、あのときと同じくふわりと距離を詰めてずいぶん小さくなった風香の体を優しく抱きしめた。そして呼ぶ。

「風香」

 風香と呼びかけた。
 大丈夫、何も怖いものはないよ。
 震えていた風香の体がぴたりと止まった。

――救えるなんて、そんなものはただの驕りだった。ひどい思い上がりだった。

 ハルや風香はそれを置いてきたのではない。
 己を守るために自分自身で手の届かない所へ投げたのだ。

「違うっ!!」

 極限まで研ぎ澄まされた針がほぼゼロ距離でかの子の耳を刺した。そして風香が彼女の優しさのすべてを拒絶した。

「かの子がここにいるはずが、生きてるわけがないっ!! だって、だって」

――あたしが殺したのだから!

 死んだ? うちが? しかも風香に殺されて?
 何を馬鹿な。それこそそんなわけがない。だってうちは生きているよ。

――本当に?

「え?」

 ふいに声が聞こえた。その声に一瞬意識が逸れる。逃げ出した風香は壁に自分の体が潰れそうなほど押し付け、今まで見たこともない悲愴で憤った声で叫んだ。

「かの子もハルも宵も、みんなみんな、あたしがこの手で――!!」

 その瞬間、かの子の自己催眠が大きな音を立てて解けた。
 同時におぞましい記憶が、いままでせき止められていたものがいっせいに流れ出し、荒波となってかの子の意識を飲み込んだ。

 渦巻く記憶、取り戻したいと願ったはずのそれは想像を絶するものだった。

 すぐ隣で笑っていた自分が、みんなが、次の瞬間には死んでいた。

 ナイフで腹部を抉られ、逆流した血が口からこぼれ落ちる。あるいは銃弾で額を打ち抜かれ、殺された自覚もないまま倒れる。あるいは刀で胴を切り裂かれ、血しぶきに目の前が赤く染まる。あるいは毒を盛られ、喉をひたすら掻き毟る。あるいは伸ばされた手で首を絞められ、酸欠で徐々に世界が霞んでいく。あるいは突き飛ばされ、その先で通過する快速列車の運転手と目が合う。あるいは、――そうしてありとあらゆる手段で誰かに殺される記憶。
 次は誰かが殺されていくところを何も言えず、動けず、ただ見ていることしかできなかった記憶。助けてと自分を求めて伸ばされる手を見るだけの傍観者。
 最後は、自分が誰かを殺す記憶。自分が殺されたナイフで、銃で、刀で、毒で、殺していく。その手に残るは生々しい死の感触だ。

 なに、これ。

 ふと視線を落とせば、赤い手が両目いっぱいに映る。本当は怪我したかの子自身の血であるが、あの惨状を見たいまの彼女にそうだと思えるだろうか。
 たったいま自分が殺してきた何よりの証としか見えなかった。

「……ちがっ、」

 映像が浸透してくると、今度はその音、声が付随してくる。

 聞こえた咆哮は、悲鳴は、慟哭は、誰の声?
 殺されたのは誰。みんなを殺したのは誰。
 殺されたのは自分? みんなを殺したのも自分?

 何もない空間で血まみれの自分が仰ぎ見るのは、風香、ハル、宵。しかし次の瞬間には天地が逆転し、物言わぬ3人の死体が足元に広がり、虚ろな目がかの子を見つめる。

「違う違うちがうちがうちがうちがう!!」

 あれはただの事故だ。タイミングが悪かっただけだ。自己防衛だ。

「うちは、だれも殺してなんかいないッ!!」

 止めたかった。
 それはおかしい。そんなわけない。そんなのは間違っていると。
 ただ止めたかっただけだったのに!!

 本当にそう言えるか
――本当に殺意がなかったと、言えるのか

『殺しておいて、殺すつもりはなかったんて言い訳が通じるとでも?』と起き上がった3人が虚ろだった目を光らせ、かの子を糾弾する。

「う、ああああああっ――!!」

 受け入れがたいこの記憶は、すべて間違いなく”榎かの子”の記憶。それはすなわち自分たちの、無数の死であった。


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